第一章
真夜中の訪問者
僕とマヌーが出会ったのは、ちょうど満月の夜だった。いや、もしかしたら満月の少してまえだったかな。そう、満月の少してまえ。これから満月になるぞ、もう少しだぞ、っていう実はエネルギーに満ち満ちた夜。
でも、そのときの僕には気づけなかった。僕は大切なものを失くしてしまったばかりで、もう何もかも、人生のどん底ぐらいに思っていたから。そのころ世界は僕には明る過ぎた。月の光すら眩しかった。心が分厚い殻に覆われてしまってわずかな光すら、拒んでいた。心は少しもゆれうごかず、すべては虚しく消えていった。まるで風も波も消えてしまった大海原でたった一人、行き先も方角もわからず舟を沈めてしまうかのように――。
もしかしたら、心の奥底では小さい揺れうごきがあったのかも知れないけれど、鏡を見ても無表情。たまにひどく悲しい記憶や胸を打つような感動的な記憶が蘇るときだけは溢れるくらい表情となって表れる。もしそのときの僕を誰か四六時中みはっている人がいたら、きっと奇妙だったろうな。ずっと無表情だと思ったら急に目に涙をためて、また無表情にもどったと思ったら今度は泣いているのか笑っているのかわからないような顔をして。忙しい人だなぁ、くらいには思われたかもしれない。
話がそれちゃった。ともかく、マヌーは僕がそんなどん底のころに、しかも満月のてまえの夜に、突然現れた。びっくりするよね。天心に月がかかるころ、僕は夜風にあたりたくなってガラス張りの扉をあけて外に出た。中庭には夜風にのって街中に咲き誇るラベンダーの香りが漂っていた。
「きみは、どこから来たの?」
中庭の真ん中にある蔦の繁ったアーチの下に彼は立っていた。月の光は見た目より優しくて、青白い光は真珠を思わせた。眩しいくらいの月光に、中庭には丸テーブルやレモンバームの鉢植が影を落としていた。幻想的な世界のなかで、逆光ぎみの彼の姿ははっきりとは見えなかったけれど、琥珀色の瞳がかすかに光って見えた。
初めて会った人に、しかも夜おそく人の家の中庭に突然現れた人にこんなことを聞くのもどうかと思うけど、そのときの僕にはなぜか、不思議と自然に思えたんだ。奇妙だけど。彼はどこか遠くから来たとかなんとか言って、その琥珀色の瞳で僕を見つめていた。
「やっと――」
え? と聞き返す僕に構わず彼は両手で僕の手を軽く握って続けた。
「やっと会えた。――チアキ」
どうして僕の名前を知っているんだろうとか、いきなり馴れ馴れしいな、なんてことはまったく思わなかった。それどころか、僕は泣いているようだった。ようだった、というのは、自分でも気づかぬうちに握った手の甲に滴がぽたぽたと落ちてきたからだった。
「マヌー――」自然と言葉が口をついて出ていた。そうだ。そうなのだ。彼はマヌーなのだ。突然懐かしさが込み上げた。いよいよ堪えきれなくなった涙に僕は思わず下を向いた。
「もしキミが」
マヌーの声に顔を上げると、琥珀色の瞳には励ましでもなく同情でもなく、なにか――宇宙の深淵を見つめたような憂いが、浮かんでいた。マヌーは何か言いかけて一瞬ためらい、俯き加減に視線を外した。それからきゅっと口をむすぶと、まるで互いの存在を確かめるかのように今度はしっかと僕の手を握った。
「もしキミがもう一歩も動けないなら……もう自分のともし火はとっくに消えてしまったというのなら、覚えておいて。世界はキミをあきらめない。キミが夜道に迷ってしまったら道端からひょっこり現れるし、キミがお城から出られないならあの天井近くの小さな窓からだってやってきて、おせっかいにもあかりを灯そうとするんだから」
消え入りそうだった声はいまや凛とした響きを帯びて、いつかマヌーの瞳には少しおどけたような、無邪気な明るさのようなものが宿っていた。
ぼくの風も波も消えてしまった世界で沈みかけていた舟はいまや大海原に漕ぎだし、船べりの櫂はみなもにさざ波を立てていた。いつ消えるかもわからない、小さな小さな波だった。するとそよ風が、変化というこの世界の確かな約束を、連れてきたようだった。
「キミに、会いに来たんだ」
そう語ったマヌーの笑顔は無邪気な明るさと、時折見え隠れする宇宙の深淵を見つめたような憂いとが混じりあい、かすかな光すら遮るぼくの心の底にまで、ふっと届いてしまった。
それだのに、このとき僕が思っていたことといえば。いままで必死に生きてきて今この世界で苦しんでいるのに、その世界が僕をあきらめないなんてそんな勝手なことあっていいんだろうかという、少し手前勝手な考えだった。あきらめたくないのはこっちのほうだった。なぜ生きるのか、聞きたいのはこっちのほうだった。
それでも――。マヌーの言葉は波紋のように、僕のほの暗くて静まりかえった安全な世界を確かに揺らした。苛立ちすら感じるほどに。なぜって、いつも見守ってくれてると思っていた大きな存在が実は自分の足元にいて、それどころか、良いとこばかりではない自分のことは嫌いかとしくしく泣いてるのだから――。僕は困ってしまった。途方に暮れてしまった。それでも、しくしく泣きはじめた僕の心の中の小さな友人をそのままほっておくのは、何かちがう気がした――。
『―――しょうがないなあ』
いまや小さな肩を震わせて泣きだした友人を一瞬だけでも笑顔にしてあげたいというただそれだけの思いで、僕はおどけたように言った。心のなかの小さな友人に。マヌーがくれたあの無邪気な明るさのある笑顔で、僕はその小さな友人を、そっと撫でた――。
こうして僕は、マヌーに出会えた喜びと、思いもよらず現れた心のなかの小さな友人への戸惑いを感じながら、満月のようなマヌーの瞳をただ見つめていた。
琥珀色の瞳の奥で、あの懐かしい眼差しが、燐光を放っていた。
少し風が強くなったようだった。
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