34.十月十四日、旅支度

 麻痺したままの方が良かったのかもしれない。しかし空腹に耐えかね、遂に僕は寝床から出た。

 活性屍のように手を前に突き出して納骨室を進み、冷蔵庫に手をかける。中は空だった。嘘みたいな冷気が指先を冷やす。僕はまた椅子やベッドの端にぶつかりながら部屋に戻り、机の上に手を滑らせ財布を探した。カッターナイフが床に落ちた。

 財布と携帯をポケットに捻じこんで外へ出た。

 その清浄に目が眩んだ。夜明けだ。遥か彼方まで透き通った空気の果てで、金色の空が光っていた。薄布のように雲が伸び、輝きを添えている。全てを照らす朝陽が僕の思考をも耀かがよわせていく。

 大学へ行こうかと思った。行ける気がしなかった。バイトを探そうかと思った。働ける気がしなかった。誰かに逢いに行こうか。そんな相手などいない。何処かへ遊びに行こうか。そんな当てはない。

 とりあえずコンビニへ行った。財布が空だったのでまずATMに寄った。操作しながら、ここも空である事を思い出す。空腹極まり頭が回っていないのだろう。自分に失笑し、現実を確かめる為に暗証番号を押した。弾き出されるエラー。

 押し間違えただろうか。思いながらパーカーのポケットに左手を入れると、携帯を床に落としてしまった。のろり、拾おうとする。着信ランプが灯っていた。この僕にメールなんて誰が。もうバイトも全てクビになったはずなのだが。開いた画面には安蘭のアドレスが踊っていた。

『0820』

 題名もなく、本文はそれだけだった。僕は何を思うでもなく、それをATMに打ちこんだ。認証。数年は暮らせそうな残高がそこにあった。

 最後に見た安蘭の後ろ姿が、舞う花弁の印象が過ぎる。手切れ金か。何故だか大きな溜め息が漏れた。数枚の紙幣だけ引き出し、僕はコンビニを出た。

 墓に向かって歩いていると、走馬灯じゃないけれど色々な事が思い出された。秋深み、枝から花骸(はながら)が落ちるように、一つずつ、僕の居場所がなくなっていった。最後に残った安蘭の愛をも退けた。僕はもう本当に誰にも守られていない。冷たい空気が矮躯を撫ぜ、感覚が砥がれる。

 なんと苦しいことか。寄る辺の無さは。この世界の歯車にも成れない気持ちは。きっと毛布に包まり紅茶を手に、どれほど身体を温めようとも意味が無い。心の芯が冷え切っている。悲哀を漏らす相手もいない。そのせいだろうか、涙も出ない。

「僕は誰にも必要とされてないんだぁ」

 呟くと、おかしいほど情けない声が出た。腹を抱えて少しだけ笑う。足元がふらついて転びそうになった。コンクリート剥き出しの壁に縋る。僕を拒絶するような冷たさ。

 アパートの階段を昇りながら、力なく口を開け、高い空を仰いだ。終焉を望めど僕はまだ若い。この苦痛が死ぬまで続くと思うと。

 ふと気付いた。終らせてしまえば良いのだ。

 僕を待つ人はいない。つまり。

 僕が消えたところで悲しむ人はいないのだ!

 なんのしがらみもなく、死ねる!

 僕はドアを前に踵を返す。生まれてこのかた、これほど力強い足取りだったことがあろうか。階段を順調に降りていく。墓を本当の墓にする為、僕は数か月ぶりの自転車に飛び乗った。

 軋むチェーンを鳴らして走る。行先は百円均一の店だ。死出への旅路、感情は秋風と同じ色に清んでいた。今なら全てを赦せる気がした。生まれた理不尽も、生かされた苦痛も、僕を害した運命も。

 風に紅葉が舞い踊る。僕の世界を真紅に染める。息が上がってきたが気にならない。いま僕は自由へ漕ぎ出そうとしている。そう、自由だ。自由を手に入れるのだ。醜い身体に縛られ、人との関わりに囚われ、苦痛に喘ぐ此岸(こがん)からの解放。僕は紅葉風より軽やかになる。

 僕はずっと死にたかったのかもしれない。いや、死にたかったのだ。断言できる。やっと気付いた。死への憧れをこそ抱き、人波に揉まれては小さな部屋に逃げ帰り、夜毎震えて待っていた。この生命の糸が何かの拍子にぷつりと切れるのを。百年の苦痛が終わるのを。

 二十四時間営業の百円均一に駆けこむ。曼珠沙華色の真赤な縄跳びを探したが、無かったので、桃色を買った。店を出るなり包装を剥いて屑籠に押し込んだ。この手にしな垂れるビニールの縄は、蜘蛛の糸なんかよりずっと確かな救済だ。

 墓へ帰りながら、向かいながらと言った方が妥当だろうか、安蘭のことを考えた。

 首をくくる前にメールを出そうと思う。怖がらせて悪かったと。庇ってくれて助かったと。今なら素直に言えると思った。この穢土を離れる間際、僕の陳腐な自尊心など、もう要らないから。

 僕も安蘭を愛していた。確かにそう思う。曖昧で輪郭の無い、在るとも言い切れない、熱だけの気持ちだ。愛しているという言葉で正しいのかは分からない。欲情の気配だけはくっきりと感じる。けれど、今更その縁をなぞろうなんて思わなかった。このままで良いと思えた。

 死出への階段を駆け上がる。いつか安蘭が力強く駆け上った幻影と共に、今から僕は自力で天へのぼる。

 安蘭が何度も逢いに来た扉。薄い扉を勢いよく開ける。

 一抹の違和感。

 かけたはずの鍵が開いている?

 気付くと同時に、振り下ろされるスパナを見た。

「え?」

 衝撃。視界が弾ける。回転する。

 ぐらぐら揺れる意識の浅瀬で知らない声が吐き捨てる。

「こんな早朝に出やがって」

 僕は床へ横倒しになっていた。鈍痛に痺れ、声も出ない。消えかけの視界に男が二人。

「芸術家のヒモって言うからどんな色男かと思えば、なんだこれ」

「いいじゃねぇか。運びやすくて」

 嘲笑が巡る。ぐるぐる沈んでいく思考の中で、拉致されると察していた。彼らの足元にはピッキング道具があった。

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