35.十月十四日、死出
首を吊る手間が省けてよかった。
戻りかけの意識でそう思った。思いながら、思えるのだからまだ生きているんだなと、少し混乱していた。
重い瞼を上げる。
雑居ビルの一フロア。そんな印象だった。がらんどうの真四角空間、その埃まみれの床に転がされていた。後ろ手に縛られている。身体の下敷きになった手首が痛い。転がると、遠くに出入り口が見えた。その傍に一人。もう一人は何処へ行ったのだろう。
「着いたか? へいへい、お迎えにあがりましょうね」
背後から小馬鹿にした声が聞こえた。入口の男が頷き、部屋を出ていく。
「安蘭を呼んだのか?」
僕は背側に問うた。空腹のせいか、殴られた頭のせいか、力が抜けて上手く声が出ない。
「安蘭に手を出すな」
その瞬間、腰に激痛が走った。遅れて、安全靴の先が骨に食い込む感覚。
「人質は黙ってろ」
言われるまでもない。僕は痛みに歯を食いしばり、のけぞっていた。ざらざらした床に頬が擦れる。額に脂汗が滲んでくる。
音もなく扉が開いた。
まず男、そして赤より紅いコート。安蘭だ。いつになく真剣な表情だった。無表情と言った方がいいかもしれない。感情を抑えた顔だ。
安蘭を部屋の中央に立たせ、案内男は扉に寄りかかった。
安蘭は僕を一瞥する。苦悶に顔を歪める僕は彼女にどう見えただろう。眉すら動かさないものだから、全く推せなかった。
「ここに」
淡泊に言い、安蘭がポケットから紙を取り出した。一見しただけでは数え切れぬ程の零が並んでいる。初めて見たが小切手という奴だろう。
「服を脱げ」
僕の背後からの、下賤な要求。ドア前の男も口角を上げている。
安蘭がコートのボタンに手をかけた。
やめろ、やめろ。
言おうにも、痛みに阻まれ声が出ない。身動ぎ一つできない。噛み締めた唇から血の味が滲む。無力感に全身が引き裂けそうだった。いっそ裂いて欲しい。誰か、誰か。
紅い革のコートが床に落ちた。頽(くずお)れるように。
悲鳴にならない絶望が僕の喉を震わせ、喘ぎとなって漏れてくる。
安蘭の手がワンピースのポケットに入る。
再び現れた左手には、芸術を紡ぐ指先には、短銃が握られていた。
部屋の空気全てを退ける破裂音。衝撃波が僕の全身を打つ。背後で肉の倒れる音がした。
安蘭は踵を揃えてターンする。遠心力に引かれるスカートも、真直ぐのばされた腕も、肩と背を渡すストールも、満開の曼珠沙華みたいだ。羽虫に弾かれる雄蕊のように、安蘭の左腕が跳ねあがる。先程より小さな衝撃波に僕は瞬きする。汚いシャツはドアに一筋の赤を残して倒れた。
鈴が鳴ったかと思った。安蘭の足元で金属の筒が跳ねていた。薬莢が転がる。
安蘭の靴が再びこちらを向いた。いつもの曼珠沙華色のパンプスだ。衝撃に痺れ、耳鳴りがして、近づく靴音は聞こえない。
安蘭が耳栓を引き抜いて投げ捨てる。それと共にストールが靡いた。
陽石さん、大丈夫?
安蘭がそう問うのが分かった。
僕の視界がじわり曇る。
僕に残された全てが、声となり言葉となって流れ出す。
「殺してください」
内臓丸ごと吐きだすように、僕は訴える。
「僕を殺してください。お願いです。もう嫌です。何も考えたくありません。何も感じたくありません。だから僕も殺してください。死なせてください。苦しいんです。辛いんです。ごめんなさい。僕も殺してください。お願いします。殺してください。殺、して」
涙が溢れ、鼻を乗り越え、頬を濡らす。耳に流れて髪をも濡らす。
「殺して。殺して。殺してください」
僕は繰り返し訴える。言葉と涙だけが止めどなく流れ続ける。
「殺して……殺して……」
だらしなく懇願を続ける僕。そうしているうちに耳鳴りが引いてきた。
安蘭が僕を見下ろしている。
安蘭は言った。
「わかったわ」
安蘭の右手がポケットに入る。そこには短いナイフがあった。安蘭は拳銃を落とす。重い金属が目の前で揺れる。
ナイフを左手に、彼女の利き手に持ちかえて、安蘭は屈みこんだ。
疼痛と悲嘆でもう何も分からない。やっと解放される。そう思うといよいよ涙が溢れてきた。嗚咽を漏らす僕。当てがわれる刃。
ぶつり。
鈍い音。縄が切れ、手首が解放された。その反動に僕は仰向ける。
数十センチ先の、カフェオレ色の瞳。
「わかったわ。殺してあげる。貴男の自主性を殺しましょう。貴男はもう何も考えなくていい。感じなくていい。貴男は私のものになる。ものになるのよ。貴男の尊厳、私が買い取るわ。好きなだけ死んでいなさい」
安蘭の手が僕の頬に添えられた。冷たい長い指先が注射針のように、僕の脳髄に刺さり、毒が注がれる。
今度こそ、僕は全てを手放した。安堵と共に僕は痺れて溶けていく。
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