33.十月十二日

 どれくらい座っていただろう。部屋が冷えてきて、僕はエアコンをつけた。エアコンの稼働音がやけに大きい。

 立ったついでに湯を沸かし、茶を淹れた。一人分だけ。飲みたかった訳ではない。手持無沙汰で口寂しかった。

 足元に安蘭の携帯が落ちていた。しばらくは拾う気にもなれず無視していた。

 茶を飲みながらぼうっと眺めた。なんだかRPGの、画面の向こうのアイテムみたいだ。

 カップが空になり、手指が温まった頃、やっと僕は携帯を取り上げた。赤い背のスマートフォンだ。起動の仕方が分からず、しばらく画面を突き回した。

 側面のボタンに触れると、液晶に光が灯った。ナンバーロックがかかっている。僕は適当に数字を打ち込んでみた。解除されるはずもない。

 もしかしたら僕と初めて会った日になど設定しているかもしれない。だとすれば、考えても分かるはずもない。彼女と僕の「出会い」は極めて一方的だったから。




 まだ新しいシーツの上で僕は目を醒ます。エアコンだけが微かに唸っている。室温は温く怠惰。墓の名に相応しい虚ろな夜明けだ。

 何もかも元に戻るだけだ。僕は最初から孤独で、最期まで孤独なのだ。この墓に満ちた曼珠沙華の気配も、冬が近付けば枯れ果て消える。少し息を潜めていればいい。すぐ静けさが戻る。

 僕らの関係って何なのでしょうね。

 なんでそんなことを聞いてしまったのだろう。後悔しそうになっては、振り払う。

 起きていれば何か考えてしまう。感じてしまう。僕は再び瞼を下ろす。次に起きたら時計の針が何十周も巡っている事を祈りながら。



 しかしその怠惰な逃避も、すぐ破られた。

 ドアの軋み。剥き出しのコンクリでパンプスを脱ぐ気配。そして、流しに放置していたカップを洗う音。

 水の流れに耳をすませながら散々迷っていた。狸寝入りをするか、起きて安蘭を出迎えるか。閉じた瞼の暗闇に、僕をうかがい怯える彼女が思い出された。混迷を直視するのが辛くなり、僕は目を開けた。身体が上手く動かないので起きなかった。

 蛇口が閉まる軋み。流水音が止んだ。僕は目を開いたまま息を潜めていた。どうしたいのか自分でも分からなかった。机の上に安蘭の携帯が置きっぱなしになっていた。彼女はこれを取りに来たのだろう。

 ただただ携帯を直視していると、視界に赤が舞い込んできた。携帯を取り、バッグに滑りこませる。

「あ、おきてたんだ」

 安蘭が言った。まるで昨日何事もなかったかのような調子だった。表情を見る勇気はない。僕はたった今目が醒めたみたいにのろりと上半身を起こした。寝ぼけ眼を繕ってタオルケットの端を見る。

「昨日言いそびれちゃったんだけど」

 他人事みたいな柔らかな水色。視界はぼんやりと、しかし冴えわたる聴覚で安蘭を聞いていた。

「おおきな仕事がきたのよ。海外で公園をひとつ作るの。国の名前はわすれちゃったんだけど、ヨーロッパだって洸さんがいってた」

 少しだけ声が震えていた。掠れていた。すぅと深めに吸う息は潤んでいる。喉に閊えた物を零すように、安蘭は言った。

「五日後、この国をでるね」

 後ろ姿にスカートのフリルが舞い、花弁に見えた。


 何時間くらい宙を見ていただろう。僕は真後ろに倒れて眠った。


 寝て、起きて排泄、寝て、起きて排泄、それだけを無為に繰り返した。昼も夜もわからぬまま睡眠と排泄を重ねる。いくらでも眠れる気がした。人間的な何もかもが麻痺していた。

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