32.十月十一日、午前、失策

 朝を待たず、止血だけ待ち、僕らはビジネスホテルを出た。

 暁に黄ばむ空の下を、日常に向かい車が走る。安蘭はもうカーナビをつけてすらいない。方向音痴の対義語は何だろう、そんな他愛もない思索を巡らせながら、助手席に身を委ねていた。

 途中、サービスエリアに寄った。大型トラックが数台ぽっちの駐車場、安蘭の高級車は爛々と浮いていた。安蘭がピンヒールに履き替え、伸びをしながら歩き回る。僕はそれを遠巻きに見ながら、喘息止めの吸入薬を使った。

 山積みの落ち葉から甘いような、発酵したような匂いがしていた。風が吹くと視界は暖色モザイクに染まった。擦過ノイズに満ちる中、安蘭のストールが膨らんでいく。蝶のはねにも花托かたくにも見えた。強く長い風に気分を良くした安蘭は、ストールの端と端を持ち大きく腕を広げた。薄絹がはためく。僕を惑わす真紅の蝶、僕を導く曼珠沙華。安蘭の赤を前にしては、いかなる紅葉こうようも色気ない。

 

 安っぽいウドンの朝食を済ませ、僕らは再び車に乗り込んだ。

「いまのうちに言っておくけれど」

 安蘭はギアを握りながら言った。

「貴男と遠出できて嬉しかったわ。またどこかいきましょう」

 帰路へ叩き込まれるギア、光るDの字。

 僕は声を出さず、唇だけで問いかける。

 ――本当に?

 安蘭は自分の陰を幸福で塗り潰すひとなんじゃないか? 

 辛い事や悲しい事を押し殺すひとなんじゃないか?

 そう思うと安蘭の言葉、表情、僕に向ける全てが信じられなくなってきた。



「安蘭さん、運転お疲れ様です。 少し休んでいきませんか?」

 真昼前。墓前まで来た車の中で、僕はさり気なく提案する。

 安蘭は喜んでシートベルトを外した。僕の悪意も知らないで。

 墓の階段を昇りながら、鈍色の感情がかさを増していく。

 今から安蘭の本音に踏み込む。

 墓へ入るなり紅茶を淹れようとする安蘭を、僕は制止する。不思議そうな安蘭を少し退かし、冷蔵庫からチューハイを出して見せた。安蘭は困ったように笑う。

「私、お酒よわいのよ」

「いいじゃないですか。きっと疲れが取れますよ」

「でも……」

「酔いが抜けるまで休んでいけばいいんです」

 半ば強引に安蘭を追いやり、いつものデスクに座らせる。僕は冷蔵庫にあった五本のチューハイを全て机に並べた。

 安蘭はカシスオレンジを選ぶ。プルタブの弾ける小気味よい音。僕も手近なのを開けながら、安蘭の唇に当たる缶を見ていた。

「甘くておいしいけれど。うーん、どれくらい飲めるかな」

「呑み切れなければ僕が始末しますよ」

「そうね」

 そう言って甘くて薄い毒を口に含んでいく。酒に弱いのは本当らしい。面白いくらい、どんどん頬が紅潮していく。

「すこしきもち悪い……」

 僕は、水道水を汲んできた。グラスは無いのでいつも安蘭の使うカップに注いだ。

「水飲めばもう少しイケるんじゃないですか?」

「うー、そうかな? じゃあ……」

 安蘭の喉が波打つ。僕は薄暗い笑みを隠すように淡々とチューハイを飲んでいた。

 三本目、四本目。五本目もほとんど全て安蘭に呑ませた。墓の空気が酒の匂いに満ちる。最後の缶が空になる頃、安蘭の目はもう、ピントが合っていなかった。

「安蘭さん」

「はい?」

 返事だけはしっかりしている。良い潰れ具合だ。カップに水を足しながら、僕は問う。

「安蘭さん。僕、お金なくなっちゃいましたけど、どうしましょうね」

「私のお金つかえばいいんじゃないかな」

 即答の後、何かを早口で口走った。

「ごめんなさい、つい英語が……。私の稼いだお金を私の好きなようにつかってるんだから、いいのよ」

 好きなように、ねえ。

 僕は机に水のカップを置いた。安蘭が跳びつくようにそれを取って飲み干す。僕はベッドの縁に腰かけ、その口元を眺める。安蘭は上唇の水を舌で拭い、言った。

「むしろ……ねえ、貴男これで私から離れられないね」

 安蘭の手が伸び、僕の手に重なった。驚く僕に、潤みを帯びた視線が絡みついてくる。ぎんと緊張する自己を感じながら、それでも僕の気がかりは、この薬剤漬けの体臭だった。こんなに近づいて、触れて、安蘭に嫌われはしないかと。嫌がられはしないかと。今更のように。

 しばらく黙って安蘭に見上げられていたが、やがて僕は苛立ちすら感じ始めた。酒に痺れた理性が、ずっと触れなかったベールに手をかける。

「安蘭さん」

「はい?」

「……僕らの関係って何なんでしょうね」

「うーん」

 安蘭がぐいと顔を寄せてきた。

「わからないわ。でも、離れたくない」

 アルコール色の吐息が僕の鼻にかかる。瞳が揺れる。

 数十センチの距離で安蘭の唇が動いた。

 み す て な い で。

 ぞわりと全身の毛が逆立った。脂ぎった汗が噴く。僕はぎりりと奥歯を鳴らす。身体が震え始めた。

 安蘭が何故そんな事を思うのか分からなかった。安蘭は美しい。安蘭には才能がある。安蘭を必要とする人は何処にでもたくさんいて、愛してくれる。誰が彼女を捨てようか。こんな、醜く何も無い僕と違う、花の如き安蘭を。

 傲慢だ。その不安は傲慢だ。許しがたき傲慢。

「ねえ陽石さん」

 ついと安蘭の声のトーンが落ちる。注目せざるを得ない、吸い寄せられるような真摯。安蘭は真っ直ぐ僕の眼を見た。

 脳裏に曼珠沙華の幻影が揺れる。

 一瞬前には分かっていた。安蘭が何を言おうとしているのか。僕に何が起こるのか。

「私、陽石さんを愛していると思う」

 叫びそうだった。

 最も聞きたくなかった甘美が鼓膜を突き抜け、胸を揺らしていた。快くはなかった。泣きそうだった。溶岩のような醜い、粘性の感情が口を突く。

「おい、ふざけるなよ」

「私は真剣よ」

「ふざけるんじゃねぇよ!」

 僕は安蘭の手を振り払った。安蘭がバランスを崩す。椅子が倒れる音、身体が床に堕ちる音。揺らぐ残香。全てが非現実だった。ありったけの色鉛筆を握ってぐちゃぐちゃ描き殴ろうと、僕の混乱を表せはしないだろう。見開かれる安蘭の眼だけが現実だった。かつて安堵に似ていたカフェオレ色の瞳が、恐怖に澱んでいる。

「いい加減にしろよ! 僕なんて必要ないだろ! 好き勝手しやがって。あんたと恋愛なんかしたら、僕がどう言われるか考えてもみろよ! 不倫だとかヒモだとか寝取りだとか言われるのは御免だ! ただでさえ悪く言われ続けた僕が! 僕を! あんたが余計にダメにしていくんだよ!」

 腕を大きく振って空を掻く。そこに安蘭の縋りがあるかのように。壊れかけの天秤みたいに何とか保っていた自分のバランスが、安蘭の重い重い一言で、崩れてしまった。

「出ていけ、出ていけよ! 何もかも滅茶苦茶にしやがって! くそ、どうしてこんな事に!」

 僕は拳を振り上げた。

 安蘭が腕で頭を覆う。

 初めから僕は自分の膝を叩くつもりだった。安蘭に手を上げる気など更々無かった。驚いて拳を止めたのは失策だった。まるで怯える安蘭を見て思い留まったような形で、僕は固まっていた。

 安蘭が腕の隙間から僕を見る。と、バッグを掴んで部屋から飛び出した。傾いたバッグから携帯が落ちたが、安蘭は振り向かなかった。高いヒールが階段を叩いて遠ざかる。

 部屋に静寂が戻った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る