29.十月十日、午後、炎
微かなエンジン音に揺られ、しばらく眠っていたようだ。目が覚めると車は停まっていた。
しばらくぼんやりとフロントガラスの外を見ていた。赤い。空は暗い。
やっとその
極大の炎が渦巻いていた。太陽のような澄んだ明りではない。澱み、濁り、穢れ、そこにあった全てを熱に変える混沌。それが轟々と唸りを上げている。遠くに消防車のサイレンが聞こえる。誰かの咽び泣きも聞こえた。
業炎を前に安蘭が立っていた。首に巻いた真紅のストールが靡いている。彼女も炎の一部、いや、炎を司る者みたいだ。
安蘭が振り返った。表情はニュートラル。横顔が炎の揺らぎに合わせて明滅している。
「外にでないほうがいいわ。ひどい煙」
運転席に戻った安蘭はそう言った。ドアの隙間から流れ込んだ空気で、僕は咳きこむ。
「安蘭さんが、火を点けたのですか?」
今燃えているそれが実家のアパートだと、気付いていた。安蘭はちょっと苦笑する。
「そんなわけないでしょ。来たら燃えていたのよ」
だんだん車の周りに野次馬が増えてきた。安蘭はアクセルを踏み、クラクションを鳴らす。散った人垣を割って、車は実家だった炎に背を向けた。入れ違いにけたたましくサイレンを鳴らしながら消防車が入ってきた。
だらだらと徐行で住宅街をゆく。ブロック塀や生垣に阻まれた視界を、探るように進んでいく。懐かしい道だ。僕が育った街。僕が通った道。それが他人事のように窓の外を過ぎる。火事の騒音はやがて遠のいて消えた。
数十分後、停まった駐車場にも見覚えがあった。僕らはどちらからともなく車から降りる。秋の夜長の冷気が身を裂いた。
「なつかしい」
安蘭が嬉しそうに言い、かけだした。
公園。かつての僕が人目を忍んで自傷し、それを安蘭が盗み見た公園だ。生垣以外の木々は葉を落とし、まるで死んだようになっている。街灯が壊れていた。仰げば高い星空があった。
今更のように火事を思っていた。僕の生まれ育った家、そこにあったはずの全てが燃えて消える。物だけでなく寄る辺も、想い出も、絆も、本当に全てが焚き上げられたような気分だ。この腕に何一つ残っていない。今見上げている空気みたいに透明で、重さがなくなってしまった。
安蘭が手を振る。ストールを揺らし、滑り台の上から僕を手招きする。
僕は鉄板剥き出しの階段を上る。思いの外小さなそれに足を滑らせそうになった。
天辺まで上り、安蘭の隣に立つ。安蘭は空ではなく目下の公園を臨んでいた。
「ねえ、どんな気持ち?」
何の悪意もない問いだ。僕は空笑いして答えた。
「よく分からないです」
「じぶんの気持ちなのに?」
「安蘭さんにもそんな事、あるでしょう?」
安蘭は口元に手をあてて考えこんだ。その頭が僕の肩にしか届いていず、僕はちょっと驚く。彼女の足元を見る。ドライビングシューズ。あの長身は、パンプスのヒールが作る紛い物だったのか。
「じぶんの気持ちがわからないこと、ね。……あるけれど、表現はできるわ。色で、線で、形で、質感で。表現におとした瞬間それは『わかるもの』。いいえ、『わかられるもの』になる」
小さな安蘭が大きな手を広げる。
「私が創ったものに、いろいろな人が解説をつけるわ。それは私の意図と離れていることもある。でも、触れて感じたからには、それも正解なのよ。その人にとって私のこの感情はそういう言葉になる、ってだけ。でも」
安蘭がツイと振り向き僕の手を取った。僕は足を踏み外しそうになる。
「でも、私、貴男のことは極限まで精確に把握して、おなじ気持ちになりたいの。だから、ねえ、今どんな気持ちだか教えて。心臓の鼓動はどんな? 体温は? 呼吸は? 汗はでている? 震えてる? どこか疼く? 快楽はある? 苦痛はあるかしら? なにか欲しくなってる? 捨てたくなっている? 今まで似たような気持ちになったことはあった? 初めてならどういうふうに初めて? 色でいうとどんな? 形ならどう? 質感は? 音は? 言葉で無理なら方法はなんでもいい。描いても歌っても踊ってもいいのよ。ねえ、教えてよ、ねえ」
安蘭が身を乗り出してくる。ふわりと香る、赤い花の印象。
「ねえ、貴男はあまり感情を口にださないけれど、私はとっても知りたいの。もっと精緻に精密に貴男を再現したいのよ。だから、ね、教えて。対価なしではだめよね? 何をすればいい? いくら出せばいい? 貴男の全部、私が買い取るわ」
僕の視線を絡め取る瞳。息も心臓も止まりそうだ。
と、不意に安蘭が手を離した。ポケットを探る。
「洸さんかしら」
言いながら取り出すのは、真っ赤なスマートフォンだ。電話に出る。
「洸さん? 今どこって? 御父様の家のちかくよ。陽石さんもいっしょ」
どうして正直に言うかな。僕は暗殺される覚悟を決めた。
「うん、夜遅いけど大丈夫。ちゃんと運転して帰るわ。……え? 隣町のお祭りで渋滞? まあ仕方ないわね。がんばるわ。……? 仕方ないなぁ。洸さんは心配性ね。じゃあ待ってる」
安蘭が電話を切った。真っ赤な携帯が真っ黒な上着に仕舞われる。
「夜中だし道路がこんでて危ないから泊まっていけだってさ」
「あ、はい」
夜中、もうそんな時間なのか。車内で寝ていたせいか感覚が狂っている。低い空にオリオン座が見えた。
間もなく洸青年から折り返しの電話があった。
「ビジネスホテルしかとれなかったって? 別にいいけど……」
洸青年の事だから高級ホテルのスイートでも取ろうとしたのかなぁと思った。安蘭は洸青年を宥める。
「大丈夫よ、海外ならたまにあるじゃない、そういうホテル。お祭りがあるなら仕方ないわ。もういる人をお金持たせて追いだすほどには疲れてないし」
今までそんな事してたのかよ。
「電話番号を送ってくれればナビでいけるわ。それじゃあ、おやすみなさい洸さん。だいすきよ」
通話を終えると、安蘭は僕を見て微笑んだ。
「車にもどりましょう」
言いながら公園をぐるり一望する。僕が階段を下りていると、まだ天辺の安蘭がぽつり呟いた。
「カッターを持ってくればよかったわね」
僕が振り返ると、安蘭は滑り台を駆け下りた。
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