28.十月十日、午前

「そういう訳で、入院の費用は払えないんです。申し訳ありません」

 僕は深々と頭を下げた。済まなく思うのは本当だ。安蘭がどう応えるかは分かっていた。

「いいのよ。貴男の役にたてて嬉しいわ」

 僕はまだ床を見ていた。安蘭はきっと笑っている。

 正直な所、安蘭の気持ちなど、どうでもよかった。金を返せない事で傷ついたのは僕のプライドだ。バイトの給料も同じ口座に入れていた。僕はもう、無一文だ。安蘭に看病されながら、いつか金だけは返せる、それだけが僕の最後の最後の男性性だったのに。

「ねえ」

 思わず顔を上げる。やはり安蘭は笑んでいた。幸福そうに。豊かそうに。暖かい笑顔だった。

「さがしにいく?」

 予想外の提案。僕は言葉を詰まらせる。

「せめて本当にいなくなっちゃったかどうか、たしかめにいく?」

「でも」

「お金なら私がだすわ」

 そういう問題でも無い気がするが……。

 安蘭は言った。

「お金をだすこと、運転すること。それ以外、なにもしないわ。貴男の好きにしていい。見ているから」

「……僕が問題を起こしたら、どうします?」

 僕は意地悪を言ったつもりだった。安蘭は即答した。

「私がお金をだす」

「いや、そうではなく」

「たいていの問題はお金で解決するわ」

 それも真理ではあるが。

 数秒考え、僕はもっと明確に問い直す。

「例えば、貯金を奪われた事に腹を立てた僕が、再会と同時に両親に殴りかかったら、安蘭さんはどうします?」

「見ているわ」

 僕は絶句した。安蘭は真剣な顔で僕につめ寄る。

「だってそうしないと、貴男のなかの問題は、解決しないでしょう? 問題をおこさなければ、問題は、問題にすらなれないまま貴男を苦しめるわ。いくのだから問題をおこさなきゃ」

 椅子から身を乗り出し、僕に人差し指を突きつける安蘭。カフェオレ色の瞳が凛と説教を飛ばす。

「いい? なぐったら慰謝料を払わなければならない。逆にいえば、慰謝料を払えば人をなぐってもいいのよ」

「それはどうかな……」

「うまくいけば札束でもう一発なぐれるわ」

 これは洸青年の教育なんだろうな。僕は彼に札束で横っ面を叩かれたことがあった。それを安蘭が見ていたか、見ていなかったか知らないが。

「そうと決まれば今からでもいきましょう。善は急げよ」

「安蘭さん、大学は」

「サボるわ。単位もお金で買えるもの」

 それ以上は聞かない方が良い気がした。


 各種の薬と空っぽの財布、今となってはただの診察券ケースだ、を鞄に詰める。安蘭に連れられ、赤い高級車に乗りこむ。革張りの座席もいいかげん慣れた。

「まず興信所からもらった資料をとりに、家に戻るわね」

 安蘭はそう言って知らない道へハンドルを切る。景色が商店街から一変、大きなマンションが並ぶ区画に出た。

 安蘭が車を止めたのは横長なマンションの前だった。二階までしかない。扉を見る限り四世帯分しかない。その代り横にも奥にも広いようだ。エントランスの植木も丁寧に手入れされ、深まる秋で赤や黄色に化粧している。

「まっていて」

 安蘭は言い、エンジンをかけたまま一番左の扉をくぐった。

 五分も待たず安蘭は封筒を抱えて戻ってきた。運転席に座り、封筒の中を指で探る。とても重そうな封筒だ。はち切れそうなほどの紙、紙、紙の束。その中の、ダブルクリップで留められた一つが引き抜かれる。

 僕の実家周辺の地図、そして住所が書かれていた。安蘭はそれをカーナビに打ち込む。手持ち無沙汰の僕は徒然つれづれに問う。

「この家には洸さんも浄さんも住んでいるんですか?」

「洸さんだけよ。御父様はここを知らない」

 安蘭がギアをドライブに叩き込む。

「洸さんが御父様から私をかくまうために買った家だもの」

 発車し、モニターに赤い線が浮かび上がる。従順そうな女性の声が案内開始を告げた。

 

 澱みなく、誤りなく、ルートガイドをなぞる車型のマーカー。車はやがて高速道路に入った。ETCのゲートが開く。

「長旅になるし、寝ちゃっていいわよ」

 安蘭はドライビングシューズでアクセルを踏む。キックダウン。周囲の景色が加速する。

 地平線へ伸びる高速道路の果ては、夕焼け。熟柿色の雲が爛れる。紅葉色の風が散る。常緑樹の色も一日の終わりを前に無力で、まるで黒のように翳んでいた。安蘭は容赦なくアクセルを踏む。百五十キロはゆうに超えている。僕らは赤の中へ突っこむ。こうして身を委ねていれば、安蘭は僕を何処へだって連れて行ってくれる。打ちのめされた矮躯わいくを、萎縮した運命を、神の指先が優しくねじ曲げる。

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