27.十月九日、夜

 安蘭が帰った後。僕はベッドの縁に腰かけ、延々迷っていた。

 僕のゆえは故人の。僕にこの名を与えた誰かは、僕が要らないのだと思っていた。それは恐らく両親の片方で、下手すりゃ止めなかった他方さえ、僕の死を願っていると信じていた。もしそうでないなら。

 ベッドの縁に座ったまま、机の最下段の引出しに手をかけた。中では書類が地層を成している。最上部に今日の控え。大学の入学時のあれこれや、電気水道のそれ、墓の契約のそれ。僕と社会を繋ぐ証拠、その数々を掻き分ける。

 一番底にあった。メモが一片だけ入ったクリアファイル。数字が書き殴られている。

 これは、実家の電話番号だ。

 携帯を取る手が震えていた。

 子供が親に電話をするなど普通の事ではないか。そう自分を奮い立たせ、一つ一つ、ボタンを押していく。液晶が示す僕の実家の番号を、恐れるように畏れるように、何度も確認する。

 通話ボタンを押して耳にあてがった。喘息とは違うふうに胸が締めつけられている。

 数回のコール。

 直ぐに女性の声が聞こえた。

『もしもし』

「母さん? 故だけど」

 声が上ずってしまった。しばらくの沈黙があった。僕は気まずさを埋めるように言う。

「突然ごめん。退院の報告と、休学を決めた事を言いたくて」

『……、番号、間違ってない?』

「え?」

 耳から電話を離し、改めて番号を確認する。間違いない。僕は実家のアパート名と部屋番号を告げてみた。

『確かにこの部屋はそうだけど……。もしかして前に住んでいた家族のお知り合い?』

 そんな事を聞かれても困る。

「そうかも、しれません」

『だよねぇ。この部屋、電話とか家具とか置きっぱなしだったのよ。ちょうどいいから使っちゃってるけど、最初は変な手紙や貼紙が多くて大変だったわ』

 僕が次ぐ言葉を探していると、電話向こうは言った。

『大家さんに連絡取るのはやめた方がいいよ。長く家賃を滞納して逃げたとか、ひどく怒っていたから。責任を取りたいなら別だけど』

「……ご親切にありがとうございます」

 僕は丁重に謝罪して通話を終えた。

 お金が足りなくなって、僕の学費を全部持って、逃げた。そんな根拠ない筋書が浮かんでくる。引越しの際キャッシュカードを忘れたのは気付いていた。通帳だけで事足りるからと放置したのは迂闊だったな。

 一片(ひとひら)の期待を持たせた安蘭に小さな怒りを抱いていた。知っている。これは八つ当たりだ。安蘭は何もしていない。冷静になろうとすればする程、自分を遠くから見ているような、現実味のない心持ちになっていく。自分の世界が空虚で無意味な物のように思えてくる。無理矢理鎮火した怒り、悲しみ、嘆きの全てが脆く崩れ、大穴に変わったみたいで。

 僕は椅子に座り、カッターナイフを手に取った。

 手首を深めに裂く。血がじわりと流れだす。その雫を電話番号メモの上に落とした。赤が数字を染めていく。電話番号が完全に潰れるまで、滴る血を見ていた。そうしていれば僕の空虚が綺麗な赤で埋まるみたいに。

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