26.十月九日、午後、落葉

 控えを渡され手続きは済んだ。パーカーのポケットに財布と電話と喘息の発作止めだけ入れてきたから、ファイルも鞄もない。ものすごく邪魔だ。本当なら握り潰して屑籠に入れてしまいたいが、そうもいかない。

 僕はふらふらり、自分の名前を中折りにして、大学をさまよう。

 廊下は清潔で健康な人々が行き交う。見知った顔ともすれ違ったが互いに声などかけない。目もあわせない。僕には、友達など、いない。

「不倫だって」

「やだー」

 女学生の会話に背筋が凍る。振り返ると二人は舞台女優の話をしながら遠ざかっていった。無駄に息が上がっている。

 僕には友達などいないが、名前と顔を知り面白半分に罵る者ならいる。たくさんいる。誰にも庇われない僕を笑い者にするのは楽しかろう。僕は幼少から何度もそうやって的にされてきた。そして今もきっと。

 歩き疲れて適当なベンチに座った。

 用務員が掃除用具の台車を押しながら通る。大学は掃除がゆきとどき、僕だけが不潔だ。休学届を出した今、僕はもう異物なのだろう。あの大きなゴミ箱に入っている方がお似合いかもしれない。

 用務員が過ぎ、その向こうの大鏡を見ながら、呟く。

「……汚い」

 焼けただれ鈍く照る頬。左右で形の違う目。骨ばった手指は、棒切れの方がまだ立派だ。袖の隙間から手首の傷が見えていた。この傷を求めてくれるのは、安蘭だけ。

「陽石くん?」

 全身がぎゅっと固くなる。僕は大鏡の下あたりを見たまま黙っていた。

「顔色悪いよ。こんなところでどうしたの?」

 千葉さんが傍に立つ気配がした。来るな。来るな。親切を装った好奇心など要らない。目の前だけの気遣いなど要らない。

「最近大学来てなかったよね。何かあったの?」

 どうせ答えたらまた噂話のネタにするんだろ。

「どうせ答えたらまた噂話のネタにするんでしょう?」

 僕は顔を上げる。真紅のストールを肩に羽織った安蘭がいた。高らかにヒールを鳴らし、挑発的な笑みを浮かべ、歩いている。ヒロイン然とした姿に僕は嬉しくなった。

「講義お疲れ様です。どうしてここが分かったんです?」

 安蘭は携帯片手を軽く振ってみせた。

「GPSってあるじゃない?」

「普通、他人の携帯のGPS機能は勝手に使えません」

「お金払えばつかえるでしょ」

 誰に払ったのかな……。

 そんな事より、と言わんばかりに安蘭の視線が千葉さんに注がれる。

「こんにちは、千葉 緑さん」

「……こんにちは」

 千葉さんの態度が、急に固くなった。やはり安蘭の前は気まずいのか。しかし違和感がある。

 千葉さんは安蘭を睨んでいた。流行の化粧品で光る唇が真一文字に結ばれている。

 一方安蘭は微笑んでいた。笑んだまま、冷たい目で千葉さんを見下ろしている。今までに見た事のない、感情の消えた目だ。いつか酒匂青年が僕に注いだ視線に似ている。

 安蘭は言った。

「大学中へかってな噂をながしてくれたお礼に、サインでもあげましょうか?」

 何か言おうとする千葉さんを遮る。

「興信所に出所をしらべてもらったから、言いわけ無用よ」

「勝手な噂って?」

 千葉さんが言う。こんなに尖った声の千葉さん、初めて見た。

 安蘭はいつもの凛と麗で答える。

「いつ陽石さんが私と不倫したって?」

「それが不倫じゃなければ何なの?」

 千葉さんの手が固く握りしめられていた。微かに震えている。それでも睨んだまま、千葉さんは早口に安蘭を責めた。

「陽石君を連れまわして、お金で翻弄して、変な噂のもとになって、ついには学校にも来られなくさせちゃって。慈善事業のつもり? 陽石君のことダメにして楽しい? 責任取れないのに?」

「ダメになんかしてないわ。責任もとっているし、責任以上のことをしているのよ」

 安蘭は腰に片手を腰にあて、もう片手をひらひら振った。解ってないわね、とばかりに。

 千葉さんが食いつく。

「もう結婚しているのに責任も何もないでしょ! 陽石君はペットじゃない。飽きたら捨てれば済むものなんかじゃない! 陽石君がどんな目で見られているか分かってる? 可哀想じゃない! 大学来られなくなったのも、あんたのせいなんじゃないの?!」

 引っくり返る語尾。

 僕は息をのんだ。千葉さんの目には、涙が溜まっていた。

「こんなにこんなに苦労して頑張って、それでも一人で大学に通ってた陽石くんを、お金の誘惑でダメにした! 堕落させた! 一人で生きていけなくさせた! それでも結婚はしませんって、無責任にも限度あるじゃない。そうでしょ? 違うなら何か言ってみなさいよ!」

「……話がつうじないわね」

「話が通じないのはあんたの方よ! 陽石君、こんな麻薬みたいな女、早く離れなよ。ずっと渡そうと思ってたんだ。返済不要の奨学金リストみつけて」

 千葉さんが半泣きでクリアファイルを取り出す。

 その傍ら、安蘭は鞄から白い封筒を取り出した。封筒を大きく振りかぶる。

 待って。

 声は出なかった。

 一閃する封筒。弾かれる千葉さんの顔。

 乾いた音が廊下一面に反射し、残響を残す。

 千葉さんは廊下にくずおれた。頬を押さえ、涙目で安蘭を見上げていた。細い指の隙間から、赤くなった肌が見える。

 安蘭は冷たく笑んだまま、封筒から札束を引き抜く。

「はい、慰謝料。これだけあれば充分でしょ」

 万札が床に撒かれる。黄金の羽毛のように舞い散る。

「いきましょう」

 魅力的な、それはそれは魅力的な笑顔で安蘭が囁く。

 千葉さんは歯を食いしばっていた。今にも涙が落ちそうだった。安蘭も僕も見ず、ただただ泣くのを堪えていた。

 このまま立ち去ってしまったら、大切なものを失くしてしまう。

 僕は千葉さんのクリアファイルに手を伸ばす。

 その手を、安蘭が掴んだ。

「コンビニに寄るって言っていたわよね。いきましょ」

 抗えなかった。

 僕は安蘭に引かれるがまま万札を踏み越えていく。足が少し滑った。考え疲れた頭の中で、ここは沼みたいだと思った。

 かなり歩いてから振り向いてみた。千葉さんは泣きながら万札を拾い集めていた。

 安蘭は鼻歌を歌っていた。知らない曲だ。きっと彼女の故郷たるアメリカの歌なのだろう。歌を背景に、千葉さんへの感情がゆっくり濁って消えていく。


 僕らは連れ立って学生寮を横切っていった。銀杏並木は途絶え、枯れた桜並木をくぐり、常緑樹の抜け道にさしかかった。枯れない緑の木。しかし深まる秋の気配にやや疲れ、色褪せているように見えた。

 薄暗い緑に包まれるうち、木枯らしが僕を落ち着けていった。冷静になった僕は安蘭の横顔を盗み見る。安蘭は樹冠を仰ぎながらご機嫌だ。

 安蘭はさっき「いつ『陽石さんが』私と不倫したって?」と言っていた。主語は僕だった。こんな飄々としているけれど、噂の煽りを受けたのは、入院していた僕より大学へ通い続けた安蘭のはずだ。

 僕に不倫のつもりはない。少なくとも爛れた関係でなければと願っているし、安蘭に手は出していない。

 では、安蘭は、どう思っているのだろう。

 千葉さんの声が途切れ途切れで蘇る。何が正しいのか、もう分からなかった。考えたくなかったし、考えられなかった。

 安蘭が小声で歌っている。それを聞いていると、この子が嬉しいならそれが全てなのではとすら思えてしまう。

 ふとストールが舞い、安蘭が立ち止まった。

「それじゃ、お買いものしていてね。私、車を回収してくるわ」

 数メートル先にコンビニを見て、安蘭が引き返す。送ってくれたのか。振り向いてみると、大学の並木を歩き、安蘭のヒールは落ち葉と泥まみれだった。

 道路を渡ってコンビニに入る。

 大した用ではない。久々の晩酌をしたかっただけだ。本当なら酒屋で喉を焼き切る強い何かを買いたかったが、体調を崩さぬ自信がなかった。

 缶チューハイを、少し迷い、五本ほど買った。安蘭が酒を嗜むか知らないが、もし荷物の内容を問われれば酒盛りに誘おうと考えた。あれだけのプライベートを切り分けた今、そろそろ麻痺した理性で少しだけ本音に近い話を交わすのもいいだろう。

 会計を済ませる。コンビニを出際、ATMが目にとまった。開いた自動ドアを前にたたらを踏み、踵を返す。そうだ、これも用事だったんだ。

 残高を確認し、安蘭と入院費の話をしよう。酒が入れば、もしかしたら安蘭の金に対する本音を引き出せるかもしれないし。

 通帳を入れ、残高を照会する。

「……あれ?」

 残高は、なかった。

 何かの間違いか。操作をやり直した。

 やはり残高がない。

 放心のまま通帳を引き抜く。挿入口の抵抗がやたら強く感じた。

 なんだこれは。

「どうしたの?」

 いつの間にか安蘭が傍に来ていた。空の口座。湯水の如き安蘭の散財。安蘭が僕に握らせていた金はもしや。そんな疑惑がふってわいた。僕は濁す。

「少しお金が足りなかったんです」

「言ってくれればあげるのに」

 安蘭は僕の心中も知らず朗らかに笑う。まるで、洗濯板なんて使わないで洗濯機に入れればいいのに、とでも言うように。

 その微笑みを横目に、通帳をポケットへ押し込む。

 数秒じっと考え込む。

 とりあえず、このまま様子を見てみよう。安蘭の金払いが急に悪くなったり、僕の通帳をいじる素振りを見せないかどうか。

「ねぇねぇ、そういえば、それ何?」

 安蘭は僕の持つ休学手続の控えを指した。僕は思わず丸めてコンビニの袋に押し込む。

「なんで隠す、の?」

 存外に深刻そうな顔をされ、僕はたじろぐ。そう言えば彼女は興信所を使い、僕の本名などとっくに知っているのだった。僕は諦めて控えを見せる。

「ただの書類じゃない」

「ええ。僕は名前を見られるのが嫌いなんですよ」

「どうして? いい名前じゃない」

 僕は失笑する。

「『故』って、意味分かっています?」

「もちろん。『由緒や風情がある』って意味でしょ」

「……え?」

「貴男の名前を知ったとき、ちゃんと辞書でひいたもの」

 誇らしげに笑む安蘭。

 僕は声を出せずにいた。ずっと失くしたと思っていた物が、この腕の中に落ちたような。やっとこの手に触れたような。少しずつ鼓動が早まっていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る