30.十月十日、夜
車に乗り、洸青年の返信を待つ安蘭に、僕は思いつきをこぼす。
「安蘭さんのお父さんの家に泊まるんじゃ駄目ですか?」
その方が安蘭も安心だろうと思っての提案だった。
安蘭は黙っていた。指が無意味にスマートフォンの表面をなぞっている。
「御父様には、あまり、会いたくないわ」
語調が固かった。相変わらず液晶に指をぐるぐる滑らせながら、安蘭は何事か考えこんでしまった。長い人差し指がインフィニティを描く。
謝った方が良いだろうか。僕が思案していると、安蘭は不意に携帯を放り出し、ハンドルを取った。
「行くだけ行ってみましょ」
「え?」
「もしかしたら何処かへ出かけているかもしれない。御父様は旅行好きだから」
ぐるりと巡るハンドル。応じて回転する視界。車は公園を出て、住宅街に戻った。
三十分くらいは走っただろうか。徐行とはいえ車だ。結構な距離になる。安蘭は僕を探して何度も公園へ通ったと言っていた。安蘭にとってはこの道も苦にならなかったのだろうか。それとも、この距離を乗り越えたいと思うほどに、僕の自傷に魅せられていたのだろうか。
がくん。急ブレーキに首が揺れた。運転席の安蘭を見るが、何事もなかったように運転を続けている。がたん。片輪が縁石に乗り上げた。衝撃を全身に受ける。こんなに荒い運転をする安蘭は初めてだ。
今になってやっと、安蘭が養父に「殴られもした」と言っていたのを思い出した。あの時は、本当に普通の出来事のように言い流したものだから、僕もそう受け止めてしまっていた。でも、安蘭の受けた暴力は、多分ちょっとやそっとじゃない。無配慮の罪悪感がじわじわ胸に昇ってくる。
今からでもやめていいですよ。
そう言おうと思った途端、車は
車は扉がほとんど開かないほど端に寄せられていた。真の前にある金属の柵にぶつからぬよう、痩躯を駆使して滑り抜ける。
僕の身長の倍はありそうな、派手に装飾された金属の柵。王家の囲いみたいだ。安蘭が正門前に立つ。その大仰な程の高さも、幅も、重さも、玄関までの遠さも、その奥にある塔が二つ付いた豪邸も。本当に王宮を意識して作られたのかもしれない。
ゆっくりと門扉を押す安蘭はとても小さく見えた。門は軋みもせずスムーズに開いた。
僕と安蘭が真夜中の石畳を進む。視界の端まで褐色の芝。マゼンダ色の箒木が、人魂のように僕らの足元を薄く照らしていた。鼓膜を打つ静寂に思わず足音を忍ばせる。この家の人の案内で来ているのだから、そんな事をする必要などないのに。
樫か胡桃か。重そうな木彫の扉の前に来た。僕は圧倒され、思わず上から下まで目を走らせる。びっしりと、細かい彫刻がほどこされている。
安蘭はそのノッカーには触れず、右に逸れた。僕も後を追う。
途中、カーテンが閉じかけの窓の前を通った。僕は思わずその中を盗み見る。
壁一面に長短の銃が飾られていた。どれもこれも磨き抜かれ、闇より深い黒や茶の光沢を放っている。
「それ、御父様のコレクション。よくそれで殴られたわ」
心なしかやや小さめの声で安蘭が言った。歩みを止めず窓の前を過ぎる。
「御父様は、銃でうつより銃で殴るほうがお好きなの」
僕は何も言う事が出来なかった。安蘭の後ろ姿は、ストールが表情をも隠しているようだ。
「ある夜、小さいのを一つ盗んで、知りあいにもらった弾をこめて、ライフルを振りかぶる御父様につきつけた。弾が逸れ、天井を壊す音をきいて、かけつけた洸さんはやっと、私が夜毎どんな目にあっているか知った」
安蘭は小さな塔の前で止まった。鞄から取り出すのは、いつか見た鍵だ。キーホルダーに下がっているのは、血染めのカッター片がぎっしり詰まったアクセサリー。自傷の雫が揺れる。
「それから一週間もせず、洸さんは引越しさきを決めて私を逃がしてくれたわ」
差しこまれる鍵。かちゃり、軽く錠が廻る音。安蘭は僕を振り向いて微笑む。
「ね、問題をおこせば、だれかが助けてくれるのよ」
「……助けてくれる人がいれば、でしょう?」
僕は囁く。安蘭の幸は、その音を聞きつけてくれる人がいた事だ。僕がどれほど泣き叫ぼうと、駆けつけてくれる人は――。
孤独に酔いかけた僕と、安蘭の目が合った。
「ね」
安蘭は微笑み、人差し指を口に当てた。慎重に扉を引く。五センチの隙間から、耳を当て、中の音をうかがう。
数秒後、安蘭はそっと扉を閉めた。
「御父様、いるわね。ホテルにいきましょう」
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