22.九月二十八日

 例の真っ赤な高級車で僕を墓まで送ってくれるという。この墓は曼珠沙華咲く墓地ではなく、僕の家のことだ。

 入院生活で使った物の片付けも、運搬も、何もかも安蘭がしてくれた。僕は椅子を見る度に休憩を挟みながら、送迎ロータリーに歩いていくだけで良かった。

 革張りの助手席に沈む。安蘭がエンジンをかける。

 女の子が運転しているのはなんだか不思議な気分だ。こういうのは男の方が得意なイメージがある。

「運転、何年くらいしてますか」

 決して巧い運転ではないが危なっかしさもない。安蘭は軽快にアクセルを踏みながら答えた。

「八年くらいかしら。ほとんど洸さんまかせだけれど」

 あれ? 僕は指折り数える。ずっと気にしていなかったが。

「安蘭さん、もしかして、年上ですか?」

「そうね。貴男の三つ上だわ」

 あまりに無邪気だから年下のような感じがしていた。今更に気恥ずかしくなってくる。しゃんと座り直す僕にその気配を見たのだろう、安蘭はくすくす笑った。


 墓に着くと安蘭はせっせと荷物を運び、往復する彼女を横目に僕はゆっくりアパートの外階段を上っていった。

 疲れると階段の途中に座り、彼女の脚を見ていた。あんな踵の高い靴でよく転ばずにいられるものだ。引きしまった両脚はしなやかに、よろける事もなく段を蹴り上げる。力強い。たくましい。このまま空にでも駆け上がれそうだ。

「大丈夫? 手をかす?」

 安蘭がタオルの山を抱え、振り向いて尋ねる。僕は反射的に大丈夫だと答えた。でもその手を取れば本当に舞い上がる程の強さを貰える気もして、少し惜しい。

 僕は壁にすがって立ち上がる。彼女の背を追って固い階段を一歩ずつ踏みしめていった。

 やっとでのぼりきり、二階の真ん中の部屋の、ドアノブを回す。

 僕の墓は清潔に保たれていた。入院中も安蘭か、安蘭に頼まれた誰かが掃除してくれたのだろう。

 僕は靴を脱ぎ捨てベッドに倒れこんだ。シーツが柔らかい。その感触を楽しんでいると、情けない事に眠りこけてしまった。その程度の無礼など安蘭自身は気にも留めないだろうが。


 尿意をもよおして目が醒めた。時計を見ると帰ってから二時間経っていた。

 安蘭は墓の隅、押入れにもたれて膝を抱えている。眠っているのだろうか。僕の看病と仕事を両立し、彼女も疲れているのかもしれない。

 僕は足音を立てぬよう小用を済ませた。そうしている間にも湧き上がる欲望に苛んでいた。病院ではとてもできなかったこと。

 僕は便所を出ると何度も安蘭を盗み見、その瞼が重く降りているのを確認する。音を立てぬよういつもの椅子に座る。

 もう、我慢できない。

 服を捲る。それだけで心臓の拍動が期待に早まるのを感じる。

 僕はカッターナイフの刃を出した。

 古い傷の瘡蓋は剥がれ、白い跡となっていた。僕は過去をなぞるよう切っ先をあてがう。高鳴る胸に酔いながら、僕はひと息に直線を刻んだ。

「うっ」

 久々の強烈な快楽。思わず声が出た。

 割れた皮膚から漏れる血がぬめり照る。まるで赤く光るようだ。

 僕はしばらく傷口を眺めていた。やっと墓に還ってきた実感が腹の底を満たす。安堵が溢れて胸を広げる。

 高揚した僕は再びカッターを一閃。二。三。

 すると、ガタン、背後で押入れの戸が揺れた。

「見ないで! ふりむかないで、見ないで見ないで、でも見せて……っ!」

 僕を牽制する安蘭。その熱く甘く上気した声色から、語尾に孕んだ喘ぎから、彼女が何をしているか推せた。僕は自らの手首に視線を戻す。

 自然と淡く暖かな微笑みが零れてきた。もう一度肌を切りつけると、安蘭が体を震わせる気配がした。僅かに残った理性に縛られながらも快楽に悶える彼女がいとおしい。もっと僕の手で乱したくなって、更に刃先を滑らす。言葉にならない声が漏れ聞こえる。安蘭の反応を愉しみながら幾重も腕を削る。夢中に深く裂き過ぎた一つから血が溢れ、肘を伝い落ちていった。デニムの腿に赤い染みができた。連動する僕らの快楽が部屋を妙なる匂いで満たす。

 僕らの関係は一体何なのだろう? 剥がれ落ちた理性が問うていた。性を結合するまでもなく僕らは愉悦を共にしている。病の面倒を見てもらい、部屋に上げた。何度も食事をした。交わした会話の数は他の誰より多い。疑いようもなく彼女は僕を好いている。僕も彼女に全幅の信頼を預けた。でも、恋なんて水色の言葉で呼ぶのは違うような、ざらざらした奇妙さがあった。僕らの間をどう呼ぶか、これが終わったら彼女に尋ねてみるのも一興かもしれない。疲労に震えてきた腕を眺めながら、上がり切った安蘭の吐息と痙攣を聞きながら、そう思った。


 しばらく余韻を交わしてから、僕はカッターを安全刃折器に突き立て折った。安蘭が肩越しにガーゼタオルを渡してくれた。それを傷にあてる。

「ねぇ、私、六年くらい前まで別な街に住んでいたのよ」

 彼女は聞き慣れた街の名を口にした。僕も高校時代までを過ごした故郷だ。

「中学二年生の秋。御父様に叱りとばされて、泣きながら日暮れの街を歩いていたわ」

 不意に始まった過去話。御父様とは養父の芸術家、酒匂 浄のことだろう。

「めずしいことじゃなかったの。御父様は私の才能を愛してくれたけれど、いい作品をしあげないと、捨てるぞとおどしながら叱った。殴りもした。そんな毎日に疲れていたの。愛されないのは怖かったけど、芸術しつづけるのにも限界を感じて、死んでしまおうと思った。その日は死に場所をさがしていたの」

 僕はタオルを見たまま、安蘭は押入れの傍に戻って続ける。

「百円で買ったなわとびを持って、公園にいったわ。公園には誰もいないようにみえた。私はいい枝ぶりの樹をさがして、いけがきのうらを歩いていた」

 僕はもう結末を察していた。その公園は恐らく、いや確実に、僕が子供のころ隠れて自傷していた公園だ。誰にも見られていないと思っていた。誰にも知られていないと信じていた。

「薄暗がりのなか、月光からも街灯からも隠れて、ナイフをふるう貴男は美しかった。私は貴男のすがたに夢中になった。貴男のその行いを、いつまでもみていたいと思った。その瞬間、私の中から死にたさが跡形もなく消しとんだの」

 正気を取り戻した傷が焼けるように痛み始める。まだ滲む血を押さえながら、子守唄のように安蘭の独白を聞いていた。少しだけ英語なまりの、不思議なイントネーションが過去を描く。

「貴男に焦がれて、なんども公園にいった。逢えることもあったし逢えないこともあった。寂しくなるとその衝動で作品をつくった。貴男と貴男の行為をなんとかして再現しようとしたの。私が斬新な造形にめざめたって、御父様は心から喜んで、より私を愛してくれた。そのあとはトントン拍子に名前が売れて……」

 恍惚と語る安蘭。僕は血が止まらない腕をグイと圧迫しながら、精一杯優しく囁く。

「だから僕を追いかけていたんだね」

 大きな安心が僕を包んでいた。僕にとって不気味な正体不明者だった安蘭。しかし安蘭にとって僕は幼馴染も同然、そして確かに命の恩人だった。僕は彼女の死を止め、芸術家として開花させたのだ。理由を知れて、疑惑の種は砕けて、僕はようやく肩の力を抜き、安蘭と向き合える気がした。

「貴男が大学生になって、公園にこなくなって、ほんとうに寂しかったの。いろいろな人に調べてもらって、勇気をだして同じ大学にいってみてよかった。私をみつけてくれて、ありがとう」

 僕が何と返そうか迷っていると、安蘭は短く「ふふ」と笑った。

「でも本当はね。貴男を再現したアレコレは、誰にも見せるつもりじゃなかったのよ。つくったものはクローゼットに隠してた。隠しきれなくなって御父様の眼にふれたときは、顔から火がでるほど恥ずかしかったわ。今は慣れたけど」

 僕は椅子を回して振り向いた。

 安蘭は押入れにもたれたまま小さく笑った。まだ服が乱れていた。ストールは落ち、白いブラウスの胸元が大きく開いている。赤いギンガムチェックのスカートの、腰のファスナーが開けられ、下着の紐が見えていた。白い手が床に丸まった上着を探り、リップクリームを取り出す。

「貴男にこだわる理由、今となってはそれだけじゃないけれどね」

「何?」

「まだ、ないしょ」

 意味ありげに微笑み、唇にあてるリップクリーム。そこにはいつか僕が寝ぼけてつけた歯型がくっきり残っていた。

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