20.九月二十五日、彼岸参
「もし調子がよければ、おでかけにつきあってくれない?」
真昼にやってきた安蘭が、初めて食事以外を提案した。僕は病院食のサラダをちょっとむせる。安蘭はアップルパイを手に引き下がる。
「だめ? 静かなところへ、お外へ、作品のための取材にいくだけなのだけれど。運転は私がするし……」
「いや、驚いただけです。良いですよ」
今日はやや体調が良かった。喘息止めをちゃんと持ち、助手席に乗っているだけなら平気だろう。墓の民の僕が陽光を恋うことはないが、安蘭が僕を何処へ連れて行くつもりなのかは興味があった。
食後の回診に来た主治医に相談すると、案外簡単に許可が出た。体調が崩れたらすぐ戻る事だけが条件だった。医師の指示で看護士が点滴を抜く。針は刺したまま残し、ガーゼで管を覆ってテープで留められる。安蘭はずっと興味深げにその様子を眺めていた。
「歩くと疲れちゃうでしょ。車椅子を使いましょ」
安蘭が言い、横目に見ると看護士が車椅子を取りに行った。人の遣い方を知る、神の目。
重い金属の車椅子。僕は自力で漕ごうと車輪に手を掛ける。しかし安蘭が後ろに回ってハンドルを取った。ゆっくりと動き出す床に、僕は不安と安堵を同時に抱く。
自動ドアから出ると、優しい曇天が空を覆っていた。シルクのようなミルクのような白。八月末のそれは、さながら夏から秋に衣装替えする空のカーテン。仰ぎ見る僕に気付いたのか、安蘭がこぼす。
「眩しくなくていいわね」
それ自体がドライブであるかのように、ゆっくりと車椅子を押す。
空を仰ぐ僕の肩から検査着がずり落ちる。入院生活で、痩躯に僅か残っていた筋肉も落ち切ってしまった。安蘭が問う。
「寒いね。寒くない?」
「少しだけ」
「上着使う? 私のカーディガンだけど」
襟にレースの這ったそれを羽織る自分を想像し、丁重にお断りした。安蘭は一度ハンドルから手を離し、肩にかけていた赤いストールをマフラーのように巻き直す。そっちを貸してくれればいいのに。
誰かの自転車に埃が積もっていた。サドルの土埃が秋風に散る。僕の自転車はどうなっただろう。次に乗るのはいつになるだろうか。
駐車場には真赤な高級車が控えていた。僕ひとりであれば一生乗る事もなかったであろうそれに、乗り込む。
安蘭は運転免許を持っていた。酒匂青年との再会を警戒したが杞憂だったようだ。安蘭が腰をひねり、後ろ向きに出庫する。彼女の横顔に向け、エンジン音をBGMに僕は問う。
「何処へ行くのですか」
「お墓」
「はい?」
「お墓」
「へ?」
「墓地」
思わず繰り返し聞きなおしてしまった。それは女子大生が向かうにはあまりに陰気すぎる。死に関する作品でも構想しているのだろうか。僕の困惑をよそに安蘭は鼻歌まじりでハンドルを取る。
五分も経たず、車は寺院の駐車場に滑りこんだ。駐車場は空だった。盆でもない真昼から墓参りする者もいないのだろう。
車を降り、安蘭が楽しげに墓地へ向かう。手水舎も本尊も無視した。
安蘭の後について、白黒モザイク、花崗岩の迷路を進んでいく。風が通り一面の卒塔婆がガタガタ鳴いた。物音こそすれど人の気配なき、しめやかな静寂。燃え残った線香が舞い上がって僕らを撫でる。穏やかだった。
安蘭は何かを探すよう見回しながら歩を進めていく。彼女にとってここは陰気でも不気味でもないのだろう。僕がこの静寂と穏便を愉しむように、彼女も何かを楽しんでいる。
安蘭は墓地の最奥まで進んだ。
敷地の果て、まだ分譲されていない数メートル四方を、
「これが見たかったのよ、これが」
そして安蘭は笑い出す。空に向かって大きく笑う。呼応するように風で揺れる曼珠沙華。
安蘭は曼珠沙華畑に踏み入った。ぼこぼことした球根、屹立する花々、それらの間に立ち、両腕を大きく広げ、廻りだした。
安蘭が廻る。伸ばした腕は
僕に芸術は分からない。分からないからこそ、彼女にとっては絵を描くのも、彫刻を作るのも、歌うのも話すのもそして踊るのも全て同じなのではないかと思った。感じたことを全身で表出しているだけ。その無垢なる率直が人の眼を奪うのではと。
安蘭の笑い声が墓地を満たす。
広がる真円スカートから覗くしなやかな腿、曼珠沙華の茎みたいに真直ぐで艶やかな腿に、欲情しなかったと言えば嘘になる。しかし不思議と手折って僕の物にしようとも思えなかった。触れたい、その疼きをこそ愛おしく思った。それに触れようものなら彼女の強烈な毒で全身が痺れてしまいそうだ。僕の知らぬ安蘭の――女性の身体は怖い。
このまま廻り続けて彼女も曼珠沙華になってしまう。そんな錯覚に襲われた。寧ろ彼女は最初から曼珠沙華の化身だったとすら思える。生きながら死の香を纏う僕に焦がれ、群れ咲き乱れる赤い花。実を結ぶ気もないような、ひたすら綺麗なだけの徒花。その美で生者を惹きつけつつも、強烈な毒で遠ざける。彼女に好かれた僕は毒に侵され、日に日に腐って死んでいく。
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