19.九月二十二日
やはり休学手続は直接行かねばならぬらしい。今どれくらい体力があるだろうか。僕は試しに病院の外まで行ってみる事にした。
胴回りの盛大に余った検査着を揺らし、点滴台を押し、呼吸器内科の病棟を抜けエレベーターに乗る。ふと壁面の案内図を見る。数階上に精神科の病棟があるではないか。僕の左腕がズタボロでもきっと皆ここの住人と間違え、納得してくれるだろう。入院して数週間、僕の傷はほとんど瘡蓋になり、いくつか白い跡にすらなっていた。
自動ドアをくぐる。外は雨が降っていた。水の匂いにむせ返る。
ずっと清潔な小部屋に閉じ込められていた僕に、自然の香りは強烈すぎた。案の定と言うか、予想外に早かったが、もう息が切れていた。
僕は病院の前、人気の無い送迎ロータリーのベンチに座りこむ。プラスチックのベンチは固く、尻が痛い。喉からの異音が始まっている。膝の上に組んだ手は爪が酸欠の紫に変わりつつあった。僕は肩で息をしながら、力なく下を向いた。
足元を芋虫が這っていた。土色で目玉模様、ずんぐり太く、細い角を持った醜い芋虫だ。胴を伸び縮みさせ、僕の前を過ぎようとしているが、恐ろしく鈍い。こいつもまた愛されない形を持って生まれた、憐れな者なのだろう。
いよいよ呼吸が苦しくなってきた。同時に、むらむらと芋虫を虐めたくなってきた。自分より弱いモノを虐げれば、自分の理不尽が和らぐような気がしていた。
靴先で軽く突いてみた。芋虫はアスファルトにしがみついて粘った。鈍かった歩みが更ににぶった。いじめ甲斐がある。
こいつの死ぬ姿を見たくなった。靴で押し潰してやろうか、点滴台で轢いてやろうか。
「陽石さん」
僕はびくりと顔を上げる。
安蘭が赤い傘を畳んでいた。
早くなった鼓動と共に、罪悪感が湧くのを感じた。僕は再び芋虫に目を落とす。それに気付いた安蘭は言う。
「かわいいわね。こんな場所にいて大丈夫かしら」
芋虫は再び這いはじめている。安蘭は芋虫を摘みあげた。僕は若干のけぞる。
安蘭は片手で再び傘を広げ、雨の中に出た。水煙の向こうで花壇の葉陰に虫を置く安蘭。
改めて傘を畳む安蘭。滴る雫が小さな水溜りを作る。
僕の隣に座りながら、安蘭は言った。
「貴男も。ぐあい悪そうよ」
安蘭の袖が濡れている。それを見ながら僕は黙っていた。沈黙こそ僕の不調の証だと、もう安蘭はよく知っている。
僕の紫色の手を見、安蘭はこう言った。
「握ろうか?」
僕は首を横に振る。俯いていて見えなかったが、安蘭はきっと隣で微笑んだ。
「言いなおすわ。握っていい?」
僕は首を横に振る。
「ね、お願い」
「いやです」
「なんで?」
「いや、その、虫……」
「うん?」
「虫を触った手はちょっと……」
「なんで?」
なんでって言われてもなぁ……。
僕が考えこむ隙を突き、安蘭は僕の手を取った。
「うぉああああああ!」
「そんなにいや?」
僕は安蘭の手を振り払う。
絶叫したせいで咳が出てしまった。涙目になりながら息を整える。
安蘭は首を傾げながらも、荷物からウェットティッシュを出し、二人の手を拭いてくれた。そして改めて、微笑みながら僕に乞う。
「手を握っていい?」
拭いたなら嫌ではない。頼まれれば断れない。僕は頷いた。
僕の右手を安蘭が両手で包む。
暖かかった。酸欠の指先が冷えきっていたのだと、初めて分かった。
「やっぱり。冷たい。つらかったね」
指先が温むごとに苦痛が減っていく。誰かが傍にいるだけで、触れているだけでこんなにも違うのか。恐ろしい事に気付いてしまった。独りを当然としていたのに。
しかしそんな苦痛の頻度もだんだん減っている。あと数日すれば退院出来るとのことだ。そうすればきっと何もかも元通りになる。六畳一間の墓場で穏やかな孤独に包まれる。
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