18.九月二十日

 確実に五日は経った。やっとまともに起きていられるようになって、携帯を確認した。

 バイト先からの留守電が山ほど入っていた。無断欠勤を咎めるものだろう。電話をかけても話せないから、全てのバイト先にメールを送った。持病の喘息が悪化した為しばらく仕事には出られそうにない、と。

 日が暮れるまでには、コンビニからもファミレスからも解雇通告が返ってきた。当然だろう。僕の代わりの頑丈な駒なんて探せばいくらでも居る。倒れた兵は道具ですらない。

 社長からは丁寧な謝罪文が来た。文面から察するに安蘭は企画の見返りとして金銭ではなく、例の盲社員の解雇を要求したらしい。僕が動物アレルギーである事と今回の入院を結びつけたのだろう。正解ではある。そのまま交渉がこじれている様もうかがえた。

 僕は安蘭を宥めておく旨を、そして僕のバイト契約と内々定は破棄して構わない旨を送った。

 今回僕に落ち度があったとすれば、社長にこの体質を説明していなかった事だ。僕が動物アレルギーだと知っていれば社長は彼を雇わなかったかもしれない。僕が倒れる前に警告してくれたかもしれない。

 バイトは何とかなる。問題は大学だ。夏は巡り間もなく秋が来る。休学手続をした方がいいかもしれない。しかし今の僕には大学まで自転車を漕ぐ体力などない。学校に行けないから休学するのに、休学しに行けない、そんな皮肉に苦笑しながら事務室にメールした。ネット上で手続きが出来ないだろうかと。それにしても携帯で書類の編集など無茶だから、安蘭にパソコンを借りる事になるが。

 安蘭は毎日来てくれる。大抵はお昼頃来て一緒に食事をする。昼食中は面会時間外なのだが、彼女にそれを気にする風はない。面会者ではなく付き添いの家族である、とでも言いたげだ。そして彼女は買ってきた物品や清潔な衣服を置き、足りない物を確認し洗濯物を持って帰る。

 本当ならこの役目は家族が担ってくれるのだろう。しかし家族は一度も僕を見になど来なかった。当然連絡は行っているはずなのだが、一瞬でも関わりを持った形跡すらなかった。自身の孤独を再確認した。何という事はない。

 当座の医療費は安蘭が出してくれている。お金のことは、自力でATMまで行けるようになってから相談しようと思う。今は二言三言話すだけでも息切れしてしまうから。自分は長年地中で暮らしていたのではないかと思うほど呼吸が下手になっている。清潔な空気の重さに耐えられない。

 具合が悪くなると、見る見る爪が紫色に染まっていった。指先まで酸素が行渡らなくなっているらしい。何度も酸素マスクが必要になった。普通の空気とは味が違う、弱弱しい僕のための気体を吸いながら、苦悶が退くまで祈るようにリクライニングベッドへもたれていた。苦しすぎて横になどなれない。

 どうして自分はこんな目に遭っているのだろう。物心ついてから何度も何度も考えた事を、苦痛に遠のく意識の果てで想っていた。答など出ない。出てもきっと納得しない。納得しても、それが幸福とは限らない。だから考えずに想うのだ。この理不尽を抑えこむでも解決するでもなく、理不尽だなと意識の虚空に悪態をつく。

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