14.九月十三日

 炎天下、駅前広場の時計が三時五十五分をさしている。滲んでくる汗を袖で拭う。自転車を日陰に止めればよかったが、駐輪場まで戻る時間もない。

 氏井はまだ来てないようだ。マスクが見当たらない。

 と、街路樹の木陰から青年が歩いてきた。

「先輩、こんちは」

「その声、氏井?」

 僕はいささか驚愕する。

 目の前の好青年、その目元と声は確かに氏井のものだ。流行の服で爽やかに装っている。そして氏井はマスクをつけていなかった。

 その口元には、痣も傷痕もなかった。

「マスクは?」

 僕は思わず尋ねる。

「女性を前にマスクはちょっと。店は煙草臭いからつけてただけっす」

 はにかむ氏井。

 僕の中に落胆が広がった。氏井の整った顔立ち、艶やかな肌の隣に立っているのが恥ずかしくなってきた。僕は俯く。僕の擦り切れたスニーカーの隣に、氏井の磨かれた革靴があった。僕より一回り大きな足だ。今まで一度も気にした事なんてなかったのに、今日に限って彼の方が十五センチ背高なのが辛くなった。

「陽石さん」

 相変わらずの、弾むような歌うような声かけ。僕は振り向かず、氏井は振り返った。

「こんにちはっス、酒匂さん」

 心なしか普段より明るい語調だ。普段はマスクに隠れている口元が、完璧な弧を描く。

「こんにちは。陽石さんのお友達?」

「バイト先の後輩っす。先日はハサミのお買い上げありがとうございました。もし良ければ、今日ご一緒しても良いですか?」

 安蘭は口ごもった。予想外の反応だ。大喜びで巻きこむかと思ったのに。しかし一瞬後にはあの人慣れした声となり、僕に問うた。

「陽石さんが良いなら」

「僕は勿論。僕が誘ったのですから」

 街路樹にもたれたまま僕は淡々と応えた。安蘭の表情を見ずに。見れば氏井を誘った事、後悔しそうで怖かった。

 安蘭は僕らを近場のカフェへ連れていった。僕ひとりでは絶対に入らない、看板を読みもしないような店だ。プランターに夏の花が並べられている。機嫌が沈む一方の僕を嘲笑うように、風にふらりと揺れている。

 店に入ると、昼食を抜いてきた僕はドリアを、氏井はフルーツサンドを頼んだ。安蘭は紅茶を一杯注文した。それだけだった。いつもなら食事や甘い物をモリモリ頬張ると言うのに。それほどまでに、食事を邪魔に思うほどに、氏井と話したいのだろうか。

 氏井は話し上手だった。ずっと安蘭の相手をしていてくれた。安蘭と居ながら考え事ができるなんて今までにない。どれだけ頭をフル回転させて安蘭と向き合っていたか、再確認させられるようだ。

 しばらく談笑した後。いや、僕がぼんやりと観葉植物みたいに過ごし、氏井と安蘭が談笑して数時間経った後、安蘭が伝票を取った。

「そろそろ帰りましょうか」

「酒匂さん」

 氏井が急に改まって言う。

「もし良ければ、連絡先を教えていただけませんか?」

 一瞬だけ安蘭の視線が泳いだ。

「そうね、陽石さんのお友達だもの」

 安蘭が名刺を出す。僕の名前が出ていながら、僕の関係ない会話。凝った名刺を褒める氏井を、映画の一場面みたいな心持で眺める。ひと息つけた安心感と、一抹の不穏に挟まれ、じっと黙っていた。

 レジ前では安蘭と氏井、どちらが会計を持つかで問答した。僕は気配を消してそっと外へ出る。乾ききったエアコンの空気を抜け、湿った夕風に包まれる。風は服の隙間に入り僕の矮躯を撫でていく。木々を草花を揺らし、遠くの噴水を少し傾け、僕の頭の中まで空っぽにしていく。

 背後から、店を出た安蘭と氏井の話し声が聞こえる。

「途中までお送りしますよ」

「えっ? えっと、じゃあ、そこまで」

 安蘭が押され気味なんて珍しい。ラジオのように他人事、二人の気配だけ伺う。安蘭が僕の方を見た。縋るような目にも見えた。氏井が素敵に手をあげる。

「じゃあ、陽石さん、またバイトで」

 僕は氏井からも安蘭からも目を逸らして「じゃあ」と応えた。

 氏井は安蘭を連れて去った。僕から離れる影だけが足元に見えていた。

 すぐ帰ればよかったのに、僕は手近なベンチに腰かけた。

 少し寒気がしていた。風邪気味なのかもしれない。その他にも重く暗い何かが胸の内を這っていたが、正体は分からなかったし、分かりたくもない。空が朱から紫になり、藍になり、黒になるまで僕は座っていた。

 それから駅の売店でビールを買った。

 買ってそのままトイレに入った。個室で便器に脱力し、ビールのタブを引く。

 酔えっこないのに、呑めば楽になるような気がしていた。アンモニア臭に包まれたビールはいつもより苦い。ちびりちびり飲み進めたが気持ちも身体も冷えていくばかりだ。少しも癒されない。天井の蜘蛛の巣から死にかけのカナブンがぶら下がっていた。

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