15.九月十四日
昼過ぎに起きれば、案の定やや熱っぽかった。僕の墓に体温計はない。測らない事で不調から目を背け、僕は今日もアルバイトに赴く。明日もし高熱となっても自分のお金で病院へ行ける、その安心のために。
ファミリーレストランの裏側、一面銀色の厨房。真空パックに入ったハンバーグやステーキを、注文の数だけ鍋に放りこむ。大きな泡に押されて踊るパック。湯気で曇る視界で、熱に澱む思考で、必死に何かから目を逸らしていた。
汗がこめかみを伝っていく。痣の上を流れ、顎でとどまり、僕の呼気に耐えかね床に落ちる。神経が過敏となり、同僚が皿をぶつける音や機器のブザーがやけに大きく聞こえていた。思考は鈍麻したまま三時間、鍋の前に留まった。
調理着を脱ぎ、そのまま自転車に乗ってコンビニへ。
何がどうなったかなんて気にならない。何がどうなったかなんて知らない。僕は関係ない。
熱に外れかける理性を必死に圧していく。
控室に入ると、直前のシフトを終えた氏井が着替えていた。僕は目を合わせぬようにエプロンを取る。
「先輩」
びくり、身体が動いた。
「黙って見てるなんて随分すね」
「何が?」
本当に分からなかった。氏井の方を見る。氏井はマスクを外しながら言った。
「安蘭さん、結婚してるじゃないですか。俺の勘違い、面白かったですか?」
「……まさか口説くつもりだとは思わなくて」
明らかに嘘だった。
でも氏井が傷つけばいいなんて欠片も思ってはいなかった。言うタイミングが分からなかっただけなのだ。
……ほんとうに? いつでもよかっただろう?
甘い苦味のある安心が沁みていた。初めての感覚に、どうすればいいか分からない。
氏井がそっけなく言う。
「俺、今月でバイト辞めますから」
「え? なんで?」
食い気味になってしまった。氏井は淡々と続ける。
「貯金も増えましたし、そろそろ友達との時間を大切にしたいんスよ。若いうちにもっと遊びます」
面接みたいな、冷たく親しみのない語調。
氏井も僕と同じで、誰にも愛されない人間なのだとばかり思っていた。僕らは孤独を分けあっていると思っていた。友達も、余所にもいると解ってはいたけれど、遊びに行くほどの仲であるとは知らなかった。
僕はどちらかと言えば他人の一人に過ぎなかったのだ。
氏井が店を出て行く。氏井の連絡先を知らない事に気付いたが、今更聞く気にもなれなかった。
勤務時間が済むと、店の棚から焼酎を取って会計した。
ビニール袋にも入れず直接自転車のカゴにぶち込む。
道の凹凸で泡立つのも気にせず、真夜中過ぎの街を自転車で駆け抜けた。何もかも寝静まった中で蛾だけが元気だ。僕の顔にぶつかっては墜落する。錆びかけたチェーンがやけに大きく鳴いている。
一升瓶を片手に、削れて丸まり切ったコンクリの階段をのぼり、墓へ戻る。
後ろ手に鍵を閉め、靴を脱ぎ捨てる。キッチンで蓋だけ開ける。王冠が跳んで何処かへ消えた。自分の墓への供物に器など要らない。ぐいと瓶を傾け、口に蒸留酒を流し込んだ。糠臭さと粗雑な苦味が舌を、食道を、そして理性を焼いていく。
僕は毒が好きだ。刺激と呼ぶ方が適切なほど際どい味が僕の心身を壊していくのを感じられるようで、この苦悩に満ちた生の残り時間を縮めてくれているようで、毒は快楽だった。ぷはぁと息を吐けば粘膜から熱が奪われていく。僕は延々とアルコールを胃に送り続ける。
思考がピンボケしてくるが、宴会で周囲の見せる酩酊とはかけ離れている。気分よく酔えれば、狂えれば、どれほど楽しいだろうか。理性で抑えていた孤独の感度が上がるばかりで、嬉しくもなんともない。僕は揮発した本音を吐き出す。
「僕なんて居ても居なくても同じなんだろ」
肯定する者も否定する者もいない。
一瞬だけ、安蘭がこの場にいたら何と答えるだろうと考えた。チラつく真紅の幻影を振り払うよう、僕は頭を揺らす。
その拍子に手が滑った。瓶が倒れた。
透明な毒が壁を伝い、ベッドの縁を流れ床に落ちる。僕は大きく溜め息した。放置したかったが壁や床がカビても困る。
僕は古びたタオルを持ってきた。ベッドを引きずって壁から離す。足に力が入らず苦労したが、なんとか動かした。どれくらい濡れただろうか。僕はベッドと壁の隙間を覗き込む。
コンセントに三叉プラグが差さっていた。
この電源は全く使っていないはずなのだが。そもそも三叉が必要なほど家電がない。
僕は戯れにそれを抜き取り、掌で転がしてみた。
――盗聴器。
突然の天啓に僕は手を止める。どうすればいいか散々迷った。
「安蘭?」
酒に鈍った思考は、あろうことか、語りかけるのを選んだ。
ポケットで携帯が震える。メールだ。
『みつかっちゃった♪』
「へっ?」
思わず変な声が出た。何度も見直したがやはり安蘭からのメールだ。
小さな純白のスパイから、安蘭のクスクス笑いが聞こえた気がした。
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