13.九月十二日
安全刃折器に二枚目の刃を落とす。上がった息が熱く漏れて散る。未だ快楽に痺れた脳は痛みを感じない。
左の腕は肘の方まで紅い縞模様に染まっていた。いつもなら一、二本切れば満足するのだが、今日は物足りない。僕は右の親指を滑らせ、新たな刃を突き出す。その磨かれた光沢を眺めているだけで恍惚が降りてくる。僕は服の袖を引き上げ、二の腕を晒した。
食事を終え、墓に還って数時間。ずっと安蘭の姿が瞼の裏にあった。血が付着したカッター片のアクセサリを見て、僕は恐れるべきだったのだろう。或いは怒るべきだったのだろう。でも不思議と彼女に負の感情を抱けなかった。模範的な感情を抱けない自分に苛立って切っているのかもしれないし、常識を捨てて彼女の笑顔を想いたいから切っているのかもしれない。
勿論まだ安蘭は怖い。絶対に騙されていると思う。でも今は今だけは未来に待つ失望など忘れていたかった。自分の気持ちがよく理解できない。ただ高揚を高揚のまま高揚として感じる為に、僕はカッターを握る。
二の腕を裂く度に全身を巡る苦楽。真夜中の部屋に満ちる鉄の香。遠くに踏み切りの音。
安蘭がどうやってこの部屋に入ったのかは分からない。一度くらい鍵の閉め忘れがあったかもしれないし、彼女お得意の札束を重ねればピッキングしてくれる人間もいるのだろう。それまで僕一人死んでいく場だった墓が荒らされ、生の気配が残った。いつか花の一つも供えて貰えるのだろうか。自分の肌に真紅の線を咲かせながら考えていた。
夢中なうちにバイトの時間が迫っていた。
止血を待つ暇はない。僕は薄灰のシャツを脱ぎ捨て黒色の物に変えた。これなら赤色が染みても目立たないだろう。布地が擦れて初めて傷が痛んだ。
曇天に自転車を飛ばして滑り込みセーフ。午前零時五十九分三十四秒。珍しく遅刻寸前の僕を氏井が横目に見る。エプロンをつけながらむせこみ、ふらつき気味にレジへ出る。
夏の夜は涼みに来る不審者が必ず数人は居るものなのだが、遠くで雷が鳴っているせいか、ここ数日でいちばん客足がまばらだった。午前二時にもなると店内に誰も居なくなった。
僕はレジに手をついて咳き込む。すると横からマスクが差し出された。
「具合悪そうっすね」
氏井がマスクの下から言う。
保湿してどうなるものではないが、彼の気遣いが嬉しかった。ペアルックになるのも悪くない。僕はマスクをつける。
また数度咳をすると、腕の傷まで一緒に疼いた。
「例の芸術家に毒でも盛られてるんじゃないっすか」
安蘭ならやりかねない。
「というかググってみたんですけど、酒匂 安蘭って人、あまりに有名すぎて怪しいですよ。本当に本人なんすか?」
「やっぱり有名なのか……」
氏井が売れ残りの新聞を引き抜く。広げた芸術面の大きな写真。黒い板を何百枚も連ねたようなオブジェの前で、安蘭が妖艶に微笑んでいた。いつも会う時に着ている清楚なカーディガンやスカートではない。胸元まで大きく開いたドレスだ。いつもの赤いストールもなく、華奢な肩と腕が惜しみなくさらされている。脚にも大胆なスリットが入り、つややかな腿がのびていた。
「この娘で間違いないよ」
記事は新しい美術館のオープン記念式典の話だった。そのコンセプト・オブジェを作ったのが安蘭なのだという。オブジェは『瞑想の中で時を忘れ望むまま迷子になることを表すうねりと共鳴するよう部分的に磨かれたその光沢は緻密に計算されているが彼女の出自から語るに現代美術としてよりアウトサイダー・アートとしての扱いが』……。僕は目眩を覚え読み飛ばした。安蘭の作品があると客が道に迷わないそうだ。本当だろうか。女子大生として僕と同じ大学に通っていることも書かれている。
安蘭へのインタビューを流し読む。
『記者:創作のモチベーションは何ですか?』
『酒匂:友達と過ごす時間です。やはり人から刺激を受けるのが何より大切ですね』
『記者:お友達とはどんな事をして過ごすのですか?』
『酒匂:食事をしながらお喋りします。誰かとする食事は何倍も美味しいものです』
僕が会っている安蘭からは考えられないマトモな対話だ。もしかしたら洸青年が原稿を用意したのかもしれない。
と、入店チャイムが響いた。僕は慌てて新聞を畳む。
「いらっしゃいま……せ」
氏井の語尾が萎んだ。違和感を覚え、顔を上げる。
その理由はすぐに分かった。僕を見、少し微笑む長身。真っ赤なワンピースと光る金髪。安蘭だ。
僕はレジ休止中の札を立て、フライドポテトを揚げはじめた。
任せたぞ氏井。
氏井はレジで棒立ちしている。
「こんばんは」
安蘭が氏井に微笑みかける。
カウンターを盗み見ると、ハサミがひとつ。真夜中二時に何の急用でハサミを買いに来るのかは知らないが、僕の様子を見に来ただけにも思える。油にポテトを沈めながら、僕は聞き耳を立てる。
「こんばんはっス。あの、もしかして酒匂 安蘭さんっスか?」
「そうよ」
「お会いできて光栄っス。この辺に住んでらっしゃってるんですか?」
ピッとバーコードを読む音。緊張して変になっている氏井の声。
「この辺と言えばそうね」
「あ、そうなんスか。こんな近くに有名人住んでるなんて驚きです」
氏井の返答に安蘭はクスクス笑った。ハサミを袋に入れる音。タイマーが鳴り、僕はポテトを油から引き上げる。
「ありがとうございましたー……」
氏井の気が抜けた挨拶と共に、自動ドアのジングルが鳴った。
熱々のポテトに塩を振り、二つに分けて氏井の元へ持っていく。
「おう」
「はい」
言葉少なにポテトの受け渡しをする。
再び客の途絶えた店内でポテトを摘まみながら、しばらく沈黙が流れていた。
夏の夜、時計の秒針音と僕の咳。だんだんと違和感を覚え始めた。
「……綺麗ですね。酒匂さん」
不意に氏井が言い、僕は盛大にむせた。たまらずポテトを手に吐きだす。
確かに安蘭は美人ではあると思う。顔立ちが整っていてスタイルも良い。しかしその不遜な態度と常識の無さがすべてを台無しにしている、と思う。
「酒匂さんとしょっちゅう食事してるんですよね?」
「そうだけど」
「今度ご一緒させてください」
「いいのか? 頼む」
さらり結ばれる共闘条約。最後のポテトを頬張り、嚥下し、僕は改めて問う。
「本気で?」
「本気っす」
氏井の目は確かに本気だった。
僕はぞわりと不穏な物を覚える。胸の奥を掻く薄暗さ。
しかし氏井が居れば、今までほど気を張りつめなくて済むかもしれない。嫌な予感とさっき吐いたポテトをゴミ箱へ放る。
次の約束は明日午後四時だ。試してみるのも、悪くない。
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