ニヒル
「これ、アヒル口ですよね?」
「いや、ニヒル口だけど?」
スーツ姿に眼鏡の男の頭に3つほどクエスチョンマークが浮かぶ。結婚相談所に来た40歳半ばのジーンズ男が提示したただ一つの条件、それは年収でも出身でもなく「ニヒル口」であることだった。
「……というのは?」
「えー、仕方ないなあ。じゃあ、君彼氏役やってよ」
「なぜそんな漫才みたいなことを」
「いいからいいから」
スーツの男は襟元を正して、コホンと軽く咳払いをした。
「あ、愛してるよ?」
「愛なんていらないわ。死んだら何も残らないのに……」
ジーンズの男は伏目がちに消え入りそうな声で答えた。
「みたいな。痺れるでしょ?」
「全く共感できないのですが……」
「えー仕方ないなあ。じゃあもう一回やってあげるから。ほら」
ジーンズ男が顎で合図をすると、スーツは嫌そうな顔をしながら答えた。
「……今日はどこ行きたい? どこでも連れて行ってあげるよ?」
「遠くに行きたいな。そう、いつか行くあの空の向こうへ」
「死にたいんですか? 結婚したくないんですか?」
「いやいやしたいよ? とっても」
「残念ながら、そんなことじゃ一生独りのままですよ……」
スーツは真顔になって手元の書類を整えながら小さくつぶやいた。薬指の指輪が小さく光る。
「……君、悪くないね」
「は?」
スーツが顔を上げれば、ジーンズ男は恍惚の表情を浮かべている。
「うん、素質あるよ。君でいいや。僕、性別の条件もないしね」
「なっ」
確かにもう一度書類に目を通すと、丸で囲まれているはずの性別欄がそのままになっている。
「僕ね、こう見えて金もある、権力もある。欲しいのはニヒル口だけ、いやちょっと違うかな。僕は自分でニヒル口を作るのが楽しいんだ。だからね君のこと、きっと振り向かせてみせるよ」
―――「アルマーニの時計も、黒塗りのベンツも、社会的地位も何もいらない。妻がいなくなった今、この世界には何の意味もないのに……」
一年後、ジーンズ男好みのニヒル口が一つ、この世に誕生していた。
★ニヒル(nihil)
虚無主義的な様子。暗い影のあるさま。胸糞悪くてごめんなさい。書いてる本人がニヒルになってしまいそう。次は明るい話にしよう……。
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