依吹(2)


 でももしハルとの最初のあの夜を過ごさなければ、いやそれよりも前に檻を超えてハルの胸の中に飛び込まなければ、違う日本に帰って来なければ、いやもっと根本的なものだ、アニマルサイコロジストになることを目指さなければ、これも違う、そうだ、もしハルと出会わなければ。


 どくんと大きく心臓が脈打つ。


 すべてから逃げ出したくなった。


 車内アナウンスが一凛の降りる駅の名前を告げる。


 このまま一人どこかへ行ってしまおうか。


 ふとそんな考えが芽生え一凛の中で膨らむ。


 このままハルを置いて一人でどこか遠くへ行ってしまおうか。


 でもハルを連れ出したのは自分だ。


 この状況を作ったのは自分なのに、ハルを置いて一人逃げようとするのか。


 残されたハルはどうなるのだ。


 ハルが暗い部屋に座っている姿が瞼に浮かんだ。


 あの狭い空間でいつまでも帰ってこない自分をじっと待つハルの血の滲んだ背中。


 その背中は次第に小さく萎み干涸びる。


 それとも部屋から抜け出し自分を探して町をさまようだろうか。


 子どもの頃ニュースで見たオランウータンとハルが重なった。


 激しい抵抗と空気を引き裂くような叫び声、麻酔銃を打ち込まれ倒れる様は哀れで、生き物としての尊厳のかけらも与えられていないように見えた。


 息ができなくなった。


 懸命に呼吸しようともがくと涙が溢れた。


 涙は止まらなかった。


 次から次へと一凛の頬を伝った。


 自分では気づかないうちに嗚咽を漏らしていたらしい。


 周りにいた人がさりげなく一凛を見ている。


 向かいの白人の男が席を立ち目の前に立った。


 一凛の肩に手をかける。


「ダイジョブ デスカ?」


 長く白い綺麗な指と腕だった。


 ハルの血の滲んだ肌とは違う。


 電車の扉が開いた。


 一凛は男の手を振り払い走り出た。


 ハル、ハル、ハル。






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