依吹(1)


 一凛の向かいの席で白人の男が本を読んでいる。


 電車に揺られながら一凛はこれから先のことを考えていた。


 イギリスに渡って訪ねるべき人の顔を思い浮かべる。


 本当に力を貸してもらえるだろうかという不安がよぎる。


 もし誰もが首を縦に振らなかったらその時はどうする?


 独りで闘うしかない。


 自分にできるだろうか?


 急に怖くなった。


 上から自分を見下ろすように客観的になると、背筋に冷たい汗が流れた。


 今さらながら思った。


 自分はとんでもないことをしているのではないか?


 ハルを動物園から連れ出して今まで無我夢中だった。


 非日常の中にずっとにいてまともな感覚が麻痺してしまっているのではないか。


 まともな感覚。


 笑ってしまう。


 そんなものにまだ未練があるのか。


 ハルと軀を重ねた瞬間からもう以前の自分には戻れないのだ。


 でももしハルとの最初のあの夜を過ごさなければ、いやそれよりも前に檻を超えてハルの胸の中に飛び込まなければ、違う日本に帰って来なければ、いやもっと根本的なものだ、アニマルサイコロジストになることを目指さなければ、これも違う、そうだ、もしハルと出会わなければ。


 どくんと大きく心臓が脈打つ。


 すべてから逃げ出したくなった。


 車内アナウンスが一凛の降りる駅の名前を告げる。


 このまま一人どこかへ行ってしまおうか。


 ふとそんな考えが芽生え一凛の中で膨らむ。


 このままハルを置いて一人でどこか遠くへ行ってしまおうか。


 でもハルを連れ出したのは自分だ。


 この状況を作ったのは自分なのに、ハルを置いて一人逃げようとするのか。


 残されたハルはどうなるのだ。


 ハルが暗い部屋に座っている姿が瞼に浮かんだ。


 あの狭い空間でいつまでも帰ってこない自分をじっと待つハルの血の滲んだ背中。




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