依吹(3)
一瞬でもハルを捨てようとした自分が恐ろしくて心の中でハルの名前を何度も叫んだ。
終わるときは一緒だ。
ハルだけひどい目にあわせるようなことは絶対にしない。
一凛は走った。
喉がかすれて口の中に鉄の味が広がる。
雨にけぶる道が一凛には光って見えた。
その先にはハルが待っている。
険しい道だったが一凛だけにはその道は光って見えた。
点いたり消えたりする蛍光灯を恨めしげに依吹は見上げた。
「これいい加減新しいのに変えた方がいいんじゃないか」
そう言って、自分一人だけが研究室に残っていることを思い出す。
誰もいない部屋ではやけに雨の音が大きく聞こえる。
白衣のポケットに手を突っ込みひねり潰したタバコの箱を取り出すと、小さくため息をついた。
部屋の隅にあるゴミ箱めがけて投げると見事に外れて培養中のシャーレにこつんと当たった。
慌てて駆けより拾う。
依吹。
ゴミ箱にタバコの箱を捨てたとき、名前を呼ばれたような気がして振り返る。
入り口のところに誰かが立っているように見えた。
暗くてよく見えない。
「依吹」
今度ははっきりと聞こえた。
「一凛か?」
暗がりから明るいところに歩み出た一凛を見て依吹は目をしばたたく。
一凛は闇と同化するような黒いコートを着ていた。
「一凛、いったい」
問い詰めそうになるのをこらえる。
大声を出したり安易に近づくと一凛は消えてしまいそうだった。
動揺を隠し落ちついた声で話しかける。
「まあ、座れよ。今コーヒーでも入れるからさ」
一凛はコートを着たまま依吹がさっきまで座っていた椅子に腰かけた。
依吹のコーヒーを入れる手が小さく震える。
その手を強く握りしめ深呼吸をする。
差し出されたコーヒーカップを一凛は両手で受け取る。
「それにしてもよく逃げ切ってるな。あんなハルの巨体を連れて」
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