事件(2)


 すぐに中にいたスタッフは顔をあげる。


 以前ハルの移動計画の説明をした時に一凛に声をかけてきた若い女性スタッフだった。


 彼女は驚いた顔をして一凛をじっと見たが、すぐに目をそらした。


 一凛はもう一度窓ガラスを叩く。


 彼女は何も聞こえないかのように黙々と壁をこすり水を流す。


 一凛は苛立った。


 一体どういうことなのだ。


 ハルの移動を手伝ってくれと頼んできたのは動物園側ではないか。


 自分はしぶしぶ承諾したのだ。


 それをゴリラの檻で重大な何かが起こったというのに、この対応はあんまりだ。


 一凛は立ち去ることもできず、スタッフの女性を睨みつけるようにして窓ガラスに顔を押し付けた。


 ふいに目の前に黒い影が現れ驚いてガラスから離れる。


 一頭のメスのゴリラだった。


 ゴリラは何か訴えるような眼差しを一凛に送ってくる。


「ねえ、何があったの?」

 檻の中にいるゴリラに自分の声は聞こえないと分かっていても問いかけずにはいられなかった。


「ハルはどこにいるの?」


 メスのゴリラの口が動いた。


 この時ばかりは生態系型展示の作りが恨めしい。


 ああ、少しでも中のゴリラと話すことができたら。


 普通のゴリラでも何が起きたか推察できるくらいの会話は充分にできる。


 デッキブラシを動かす女性スタッフに目を向ける。


 彼女には聞こえているはずだ。


 中のメスのゴリラが何を言っているのか。


 目を輝かせて一凛を見た彼女に怒りを感じた。


 動物が好きでこの仕事についたのではないのか?


 彼らを守りたいと思ったのではないのか?


 彼女は頑なに一凛に背を向け、掃除を終えると扉の向こうに消えた。


 一凛は事務所に向かった。


 案の定、園長は不在で事務所にいる誰もが一凛を見るなり顔を背け、会話を避けようとしているのが明らかだった。



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