ハルの記憶(6)
少なくとも他の動物たちは長く生きるためにではなく、今を生きるために生きている。
その瞬間瞬間を生きるのだ。
襲ってくる外敵に細心の注意を払いながら飢えを満たす食物を探す。
タカは大空を舞いながら、クジラは青い海を突き進みながら、ライオンは草原の風をきりながら、今を生きるために無心になる。
それは言葉では表現しがたく、視、聴、触、味、嗅、すべての五感が一つになったかと思おうと一点の強い光に包まれる。
記憶を失ったハルであったが、ふとした時自分の中にある本当にわずかではあるが、その記憶の欠片を感じることがあった。
それは過去に自分がジャングルに生きていたことを証明するものなのだが、それよりもハルにとっては喪失感の方が大きかった。
喪失感はハルを絶望させ、研ぎ澄まされたものをすべて鈍くさせる檻の中での生活はハルには居心地がよかった。
長い寿命を与えられたここでの生活には、それは必要不可欠にも思えた。
そんなハルの前に現れたのが一凛だった。
依吹にリンゴをぶつけたのも、依吹と颯太の喧嘩を制したのも親が娘を守るのと同じ心境なのだとハルは思った。
そう思わなければいけないと頑なに自分に言い聞かせた。
人間以外の動物が人間に恋心を抱くことは、滑稽で微笑ましいことか、または危険で排除すべきもののどちらかだった。
それ以外はない。
またハルには説明のつかない強い思いがあった。
『一凛に近づいてはいけない』
それは魂の叫びにも近かった。
「俺に近づくな」そう言ってハルは一凛を遠ざけようとした。
久しぶりに見る一凛は美しい大人の女性に成長していた。
外見だけではなく一凛のその聡明さにハルは感動した。
もうあの頃の幼い一凛ではない。
心配をすることはないのかも知れない。
一凛は充分大人になっている。
二人を隔てる檻がなくなったとしても見えない檻があることを一凛は分かっているはずだ。
そう思ったところでハルは自嘲気味に笑った。
そんなことを考えることじたいが愚かなのだ。
頭の上で声が聞こえた。
「さっきのは誰だ?」
見上げるとカラスだった。
ハルに無視されてもカラスはしばらく近くの枝に止まって檻の中をのぞいていたが、ぽとりと糞を垂らすと歌いながら飛んで行った。
「人間は人間と、ゴリラはゴリラと、カラスはカラスと〜」
カラスが止まっていた枝が揺れて雨雫を落とすのをハルはじっと見つめた。
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