さよならを決めかねている

南部休み

さよならを決めかねている

「今日は何をして遊ぼうか。」


誰もいない夜のビル街は街灯の明かりだけに照らされている。私は一番明るい交差点でそばかすだらけの、背の低い女性と合流した。整った顔立ちとはいえないが愛嬌があった。開口一番に待ち合わせに彼女しかいなかった理由を教えられた。もともと今日参加したいとほのめかしていたほかの二人が、結局当日になるまでうやむやな返事しか送ってこなかったらしい。よくある話だ。

「せっかくの機会なのにもったいないね。」

とまるで心からそう思っているかのような身振りで彼女に話すと、そうだね、と彼女もまた愛嬌のある笑顔で返してくれた。私と彼女は道中どんなところを歩いてきたか全くわからなかったが、気づけば途中で投げ出されたままの高速道路の工事現場のような場所までたどり着いていた。等間隔で並んだ照明が夜であっても足元の道路をはっきりと映し出していた。もちろんここにも私と彼女以外誰もいないからとても静かである。高速道路の橋を私と彼女は楽しくおしゃべりしながら進んでいった。橋がなくなっているところまで二人たどりつくと、4mほどの感覚で並んでいる、道路の支柱を飛び移って遊び始めた。地面までは20m以上あるだろう。工事ででた廃水なのかしらないが、青いビニールシートが敷かれた地面にはおそらく1mほどの深さの水がはっていた。少し恐々とした心持で飛び出すと、なんてことはない、いとも簡単に支柱へと飛び移ることができた。昔どこかで見た月面で歩く映像のようであった。もし落ちたらという恐怖感はこのとき多少薄れた。私がこの重大な決断を行っている間に彼女はもう3つか4つ、私の向こう側にいた。私がそれに気づく間にも、嬌声を上げながら彼女は飛び移っていく。私も追いつこうとして、彼女の通った柱を続いて飛び移った。追いかけっこのような形になって5分ほどたっただろうか。彼女は不意に支柱のないところをめがけて勢いよく跳ねた。この時私は、あ、と口に出したと思う。一瞬ばかり飛び上がった彼女の体は見る見るうちに地面に吸い込まれていった。ざぶんと音を立てて彼女は水にぶつかった。透明な水はしぶきをあげ、数秒の間波紋が消えることはなかった。彼女はどこにもいなくなっていた。私にはとてもまねすることはできなかった。落ちても平気だと感じていたが、高さという眼前の現実感が体をこわばらせ、私に彼女の真似をすることをためらわせていた。


 後日、帰省した折に私はその時の映像を家の映写機で映し出していた。同じ顔をした妹と妹と妹と妹がそれをケラケラと笑って見ていた。窓のない部屋は映像を映すために電気を消してあったため薄暗かった。おしゃれな妹たちは今日何を着るのか相当迷ったらしく、床には脱ぎ散らかした衣服が散乱していた。私は特別それが厚く重なった部分を座布団代わりにして、ひざを立て、猫背気味の姿勢で座っていた。やがて映像が全部流れ終わると、ニュース番組に切り替わった。白い瓦礫だらけの場所で、作業服姿の人々が懸命に倒壊した建物に埋もれた人の救助活動を行っていた。シーンが切り替わって、同じ瓦礫をバックに始まったインタビューには、私が幼い頃から知る友人の母親の姿が映し出された。4人の子どもの内、既に3人が遺体として発見されたらしい。残り1人が無事に見つかることを願っていると涙ながらに話していた。痛ましい出来事だ、と心の中でつぶやいてみたが、そこには何の感情も湧き上がってこなかった。私は普段こういった類のニュースを見ると決まって胸が締め付けられるような悲しみを覚えていたはずだったが、ただそういった出来事があったのだと冷静に受け止めるばかりだった。そのとき胸の奥にかすかに痛みを感じたような気がしたが、あえてそれは無視することにした。自分にとって不快な感情を呼び起こさせるような何かに今わざわざ思いをめぐらせることは不毛だと思ったからである。考えるのはやめようと心の中で反芻させながら、上下スウェットの私は出かける準備をすることにした。県外の大学に進学してからしばらく会っていない友人たちと食事をする約束があるのだ。彼らとは何でも話せる仲だった。久しぶりの再開に私は胸を躍らせて、いや、躍らせているのだと自分に言い聞かせて、手持ちで一番暖かいコートを羽織って家をでた。後ろのほうで妹たちの笑い声がまだかすかに聞こえていた。


 居酒屋がどんなものだったか忘れていたので、私と友人たちは曇り空の下、アパートから道路までの入り組んだ通路で食事を取っていた。車一台がやっと通れるような広さの場所で、山の斜面に作った土地だったのでわずかに傾いていた。景色は何もかもが灰色だったが、気心の知れた友人との楽しい食事である。場所は関係なかった。90分間の飲み放題、食べ放題のコースだったので、私たちは遠慮なしに注文をしていた。それをどうやって行ったかはわからない。しかしテーブルにはたくさんの料理が並んでいたから、きっとそれは正しくできていた。友人の一人が、私が一口も酒を飲んでいないことに気づいたようで、真っ赤な顔をして、お前も飲めと強い口調で言い出した。私は彼がこのことを指摘するのを心待ちにしていた。高校を卒業して以来一度も会っていなかったから、彼らが私の体質について何も知らないのも無理はなかった。私は18のとき、サークルの飲み会でほんの少し飲酒しただけで全身に蕁麻疹が出たというエピソードについて、まるで台本でもあるかのように雄弁に語った。では蕁麻疹が出るのを我慢して飲め、と友人がまた呆れるような反論をした。しかしこれもやはり呆れるまでが予定調和で、私は飲み会の後で蕁麻疹が治るまで非常な苦しみを味わったのだと、やはり雄弁に話した。言葉に詰まることもなく、私の主張は想像しうる完璧なものだと言えるだろう。しかめ面の友人は返す言葉がなくなったと見え、私の顔を見つめながら口をもごもごと動かした。私も彼も真顔でにらみ合っていたのでだんだんそれがおかしくなってきて、どちらからでもなく馬鹿馬鹿しくてふきだした。やはり友人たちと過ごす時間は楽しい。そう思いながら私と友人たちはひとしきり笑いあった。よほどおかしかったからか、友人の目からは涙さえこぼれた。やがて胸の中の楽しさをひとしきり吐き出して落ち着いたとき、私は気づいた。先ほどまで笑っていた友人の涙が止まらないのである。友人もなぜ涙があふれてくるのかわからないといった表情であった。しばらくすると友人は口を開いた。

「俺、今日どうやってここまで来たっけ。」

私はその言葉に青ざめた。必死に笑顔を取り繕って、相当酔いが回っているなと軽口を叩いた。だが彼は私を見て続けた。

「俺には、お前と今日こうして会っている時以外の記憶がない。俺は誰だ。」

私は楽しい時間が気づかぬうちに終わりを迎えていたことをようやく察した。今度は私の方が彼に言い返すことができなかった。私も彼の名前を知らないからである。それどころか今日集まった友人たちの誰の名前も私は知らなかったし、今この場に何人が集まっているのかもわからなかった。友人たちは全員私の方を見ていた。その視線から逃れるように、私はその場を後にした。


 家に帰ると平静を装って帰り支度を始めた。それに気づいたようで一番大きい妹が私に声をかけた。

「お兄ちゃん、もう帰るの。」

その言葉に私は胸が締め付けられるような思いがした。私はなるべく普通に妹に返した。

「休みもそろそろ終わるし、大学の勉強をしないと。」

話し終えて妹のほうを向くと、彼女は目に涙を浮かべていた。

「そうなんだ、私も次、帰省するのはいつになるかわからないから、しばらく会えないね。」

彼女の様子を見かねてとっさに私はそれを否定した。

「次の正月にはお前も帰るだろう。あっという間さ。」

むなしい響きだった。妹とはもう二度と会えないという確信があった。私は彼女に別れを告げると、涙をこらえて駅へ歩き出した。駅へ続く道の途中、私は瓦礫を直視したくなかったので、なるべく右側を見ないようにした。地震も事故もなかったし、そこで犠牲者が出たわけでもなかった。ただ来たるべき時が来たから町は瓦礫となっていくのだし、人も消えていくのだ。皆それに気づいていたが、あえて気づかないふりをしていた。私は駆け足で進んでいった。左側の廃墟では、数時間前の私と同じように、知らない誰かが仲間と机を囲んで談笑していた。私は歩みをやめなかったが、その光景を見つめ続けた。遮蔽物が一瞬彼らと私の間をさえぎり、もう一度その光景が見えたとき、廃墟の彼は机にただ一人だけとなって声を出して泣いていた。それをなぐさめる仲間など、どこにもいなかった。


 おそらく電車を乗り継いで、私は下宿先の町まで帰ってきた。駅の屋根から静まり返った町を見ていた。誰もいない夜のビル街は街灯の明かりだけに照らされている。そばかすの女性さえ、もうどこにもいなかった。私はむなしくなって屋根から下りた。すると不意に後ろから、誰かが私に声を掛けた。

「この美しい夜に、君はなにを見出すかね。」

その声に私は聞き覚えがあった。同時に記憶が次々と蘇ってきた。こんなキザったらしいしゃべり方をする友人が私にはいたではないか。その女性の名前は、たしかツバサだった。私は確かに彼女の名前を覚えていた。その事実に私はうれしさを隠せなかった。

「君は、夕食はもう食べたのかい。」

私より背の高い彼女と、並んで歩いた。彼女の顔だけがどうしても思い出せず、そこだけが墨で塗りつぶされたように真っ黒だったが、夜闇のせいだと思うことにした。街灯もそこそこに、暗い道を進んでいく。私は顔を思い出せないのと気恥ずかしいのとで、ほとんど足元を見て歩いた。進んだ道を私の目はなぞっていった。どこまでも暗いと信じていた道が、突如明るくなる境界線で私は歩みを止めた。あたりを見回すと、突然線引きされたようにはっきりと、そこで夜と昼が別れていた。空もビルも道路も、そこで真っ二つに塗り分けられていた。進むのが怖かったが、ツバサがどんどん進んでいってしまうので私は昼に踏み出した。不安になって振り返ると、そこに夜はどこにもなかった。その瞬間、急に心に怒りがこみ上げてきた。

「おい、夜だっただろうが。」

ツバサに聴こえるかもしれないというのにおかまいなしで私は続けた。

「夜だっただろうが、いいかげんにしろよ!夜に戻せよ!」

やるせない思いを吐き出すように、私は無我夢中で叫んだ。だがもうそれも失われてしまったということは明白だった。世界が急速に閉じていくのを感じた。自分も消えてしまうのだろうか。そんな考えがふと頭をよぎった。自分がここにいたということが何も残らず、誰も私のことを思い出すこともないのだと思うと、急に怖くなってきた。私はツバサのほうを見た。30mほど離れた場所にその姿があった。私は彼女のほうへ走りだした。そして彼女に追いつくとその勢いのままその体に抱きついた。彼女のにおいをかぐためにその背中に鼻を目一杯おしつけて、手は乳房を探した。だがそれはむなしい努力であった。私は彼女のにおいも、その胸の感触も、知らなかったからである。気づけば彼女はどこにもいなくなっていた。それでも私は消えてしまうのが怖かった。風船が視界に入った。とっさに私はその中に飛び込んだ。中には私のほかに5人ほどの人物がいた。入ってすぐのところに立っていた女性が私に優しく声をかけた。

「大丈夫、ここはコロニーになっているから、私たちは守られるのよ。」

見知らぬ女性のこの一言にひどく安堵感を覚えた。風船の口が完全に閉ざされると、それは急速に膨らんでいった。ゴム膜の外側の世界が激しく光っているのがわかった。そのまぶしさに目をつぶると、そのまま意識を失ってしまったのである。


 目覚めると、そこは真っ白の空間だった。私のほかに3人の男女がおり、中央には人が入れるほどの大きな箱が置かれていた。箱の上にはエレベータのように何かの数字をしめす表示板が取り付けられていて、3、2、1、と小さい数字に向かって点灯していった。箱の最も近くにいる、肩まで髪を伸ばした若い男性が腹立たしげに言った。

「2人は下の階層に逃げたんだ。ここより下に何かがあるはずもないだろう。」

男性の話の意味を完全に理解することはできなかったが、直感的に風船の中で見た5人のうちの2人がどこかへ行ってしまったのだと感じた。あの時声を掛けてくれた女性の姿もなかった。男性と私の向かいで、やや小柄な50代ほどの女性と、若くたくましい長身の女性が会話をしていた。若い女性のほうは金髪であった。彼女は写真を示しながら、もう一人に語りかけた。

「私と彼女は愛し合っているのです。」

それに対して中年の女性は怪訝な顔をして反論した。

「私はそれを好ましいことだとは思わないわ。やはり女性は男性と愛し合うべきですもの。」

そんなことを話してもなんの意味もないだろうと思うと同時に、そうした個性や思想を話すことだけが、もはや彼女たちがそこにいることの証明なのだとも感じた。長髪の男性はいらだたしげに、話し合う2人に声を掛けた。またそれと同時に箱を開いた。箱の中は真っ暗で、底がないように見えた。側面に彫られた複数の溝の1つに、消しゴムのようなものがはめ込まれていた。男性ははめ込まれていたものの位置を動かすと、ためらいなく箱の中へ飛び込んでいった。やはり底はなかったらしく、箱の中にすいこまれて男性は見えなくなった。その様子に気づいたのか、2人の女性も、多少ためらいつつもそれに続いた。箱は3人が入るとひとりでに閉じた。表示板は今度は数字が大きいほうに点灯していった。その様子を眺めながら、私は上の階層にいっても、そこに世界があるという保障はどこにもないのに、と思った。ついに箱と私だけが取り残された。そのほかには何もなかった。そんな状況になってもなお、私はこの世界に別れを告げる方法を決めかねていた。

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