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 威嚇用とされている一発目の空砲だが、俺はこう考えている……これは、俺たちの理性だ――


 それが、望月さんが初めて教えてくれた事だった。

 まだまだ青臭い十代の頃、卒配されたばかりの職場で教育係となってくれたその人は、ホルスターに収められたSAKURAに手を置いてそう小さく呟いたのだ。誰かを守るための力は、使い方を誤れば誰かを殺めるための道具となってしまう。それを携帯する事を許された俺たちは、引き金に指をかける時は覚悟を持て……衝動のままに撃ってしまったら、弾丸が飛び出る事のない一発目の銃声と反動を身体で感じれば、頭も冷えるだろう。

 武器を振り回すうつけ者になるな。

 そう言って、望月さんはゴツゴツした大きな手で頭を撫でた。子ども扱いしたとか、折角セットした髪がぐしゃぐしゃになったとか、色々ともやもやしたものはあったがその行動は不思議と嫌ではなかった。

 望月さんとは兄貴以上父親未満ほど歳が離れていたが、気が付いたら俺は、教育係とか上司とか以上に彼を慕っていたし、望月さんも俺を可愛がってくれた。望月さんだけじゃなく、奥さんの乙女さんにも随分と世話になった。いつもコンビニの飯を食っていた俺を見かねて弁当を作ってくれた時は、「2人分も3人分も変わらない」と言って綺麗に笑った時は思わず赤面してしまい、望月さんに小突かれた。

 上司にも人間関係にも恵まれ、仕事にも自信を持ち始めた時期だった。お前は迷子捜しの天才だなと言われて、照れ臭くも誇らしかった。腹の中に反抗意識を溜め込んだクソガキから脱皮して、徐々に大人として認められたと感じていた。

 この頃は、そこが天職だと思っていた。

 でも結局、俺は檻に入れられた動物だった。特に大事ではないけれど、いれば使い道がある息子として巨大な檻の中で自由にさせられていただけだったのだ。

 だから、俺は脱出した。望月さんを見殺しにし、乙女さんを泣かせた組織なんてクソ食らえと吐き捨ててノアまで流れて来た。

 前の職場からちょろまかして来たSAKURAの一発目は、空砲を装填する。野に放たれた獣にはならない、これは俺の理性だと……望月さんの教えと、自身の中に立てた信念に芯を通すために、俺はSAKURAに引き金に指をかけた。








***








 机上の空論を実現させてみませんか?

 日神豊と言う男が、私の研究援助を申し出て来た。

 学会後に開かれた交流パーティの場で、酒が入った状態の笑い話として語った夢物語に食付いて来た時は、随分と酔狂な人物だとは思った。しかし、自分の脳内の理論を現実のものにしてみたいと感じるのが研究者の性だ。

 私は日神氏の申し出を受けた。

 メロウもそろそろ1歳になる。安定した環境に定住して育てたいと思っていたところだったので、彼が管理する土地に屋敷を建てられる条件はありがたかった。


 ノアが天井に覆われた。巨大な都市を丸ごとドームで包んでしまうなんて発想、誰も思い付かないだろう。

 しかし、日神氏は私たちの研究の応用とこの国の優れた技術によって実現してしまった。このドームから発せられる光は、有害な電磁波や紫外線、放射線を無効化する事ができるためいざと言う時は都市全部が人類を守るシェルターの役目を果たしてくれる。

 私たち夫婦が作り上げた光だ。目に見えないけれど常に寄り添い守ってくれる。メロウにもそんな存在を与えたい。

 最近は、強風と雷雨を伴う大荒れの日は怯えてばかりだ。あの子の不安を取り除きたい。


 遂に、鱗片が見えてしまった。

 全ての機械――電気で動く機器の総称とする――の機能を混乱させ、全てを停止させる金色の光だ。仮称としてGOLTと命名した。妻が生まれた国の言葉で「金」を意味する。

 まさか、こんなに早く実験が成功するとは思いもしなかった。これは、使い方を間違えれば世界に恐怖と混乱をもたらす光だ。


 日神豊から逃げられない。

 あいつが「娘さん、大きくなりましたね」と言いながら、メロウの写真を何十枚も出して来た。メロウを人質に取られている。私たちがゴルトの研究の手を止めれば、娘の身に危害が及ぶ。

 本当に世界を滅ぼす気か。荒廃した世界の唯一の楽園を支配する神にでもなろうと言うのか、あの男は。


 ゴルトの研究を中止する事はできないが、ゴルトを破壊するための何かを開発できないかと妻が言って来た。だが、新しいプログラムを作ろうとすれば日神に嗅ぎ付けられてしまう。既に私のコンピュータはあいつの監視下にあるのだ。

 しかし、再び妻が妙案を出した。新しく作るのではなく、元からあるプログラムをゴルトの破壊プログラムとして応用できないか、と。

 それなら、作れるかもしれない。


 テンペストには重責を負わせてしまった。

 破壊プログラムの容量を鑑みると、彼のAIのアルゴリズムを応用するしかなかったのだ。だが、彼は受け入れてくれた。私たちの身に何かがあった時は、メロウを守るためにゴルトを破壊すると約束してくれた。

 罪滅ぼしにもならないかもしれないが、私たちはテンペストに人間とそう変わりないボディを用意した。犬のぬいぐるみから小さなロボットへ、メロウと同い年の自動人形へ器を変えた彼は、最終的に美しい青年の姿となった。


 遂に、ゴルトが完成してしまった。

 私たちは最後まで、ゴルトを封印しようと日神に訴えたが聞く耳を持たない。もしかしたら、私たちは日神に消されてしまうかもしれない。メロウもテンペストも。

 メロウだけはなんとしてでも守らなければ。A国への伝手を使って、メロウが亡命できるように手続きをしたが、A国の奴らもゴルトを欲しがった。ゴルトを作動させるための鍵となるメロウの声と、ゴルトを破壊する唯一のプログラムであるテンペストを無事に引き渡す事を条件に、亡命は認められた。

 メロウの肉声が鍵となっている以上、日神はあの子に危害を加える事はないだろう。


 メロウ、テンペスト、すまん。

 こんな父親で、お前たちに過酷な運命を背負わせてしまって。

 どんな手を使ってでも良い、ノアから逃げるんだ。

 日神の支配から脱出して、幸せになってくれ――




 愛神アイガミ彦麿ヒコマロの手記より、一部抜粋。

 尚、最後のページは涙でインクが滲み、殆どが解読不能となっていた。




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 ゲストルームのクローゼットの中にあった姫系ワンピース各種の中で、メロウが選んだワンピースは確か真っ白だったはずだ。ハイネックで胸元を隠し、背中部分はベルベットの白いリボンで編み上げて清楚な中に可愛らしさを備えている。他のワンピースに比べれば丈の短い物であったが、ひらひらと翻るシルクの裾にはレースがあしらわれ、真っ白な絹色で薔薇が刺繍されていた。

 蝶よ花よと育てられた両家のお嬢様が着るに相応しい可憐な服は、土埃とメロウの血によって怪我された。


「……っ、……!」

「ふむ、まだ痛めたりないか。生娘を啼かせるのは私の趣味ではない。できれば、痛みの悲鳴を上げてくれ。それが一番楽だ」

「……!」


 日神に叩かれ、蹴られ、メロウの身体は何度もコンクリートの地面に打ち付けられる。叩かれた頬が腫れて熱を持ち、転倒した衝撃で口の中を切ってしまったため咳き込んで吐き出した唾には血が混じっていた。

 機動力を重視して選んだ丈の短いワンピースが仇になってしまった。剥き出しの膝もワンピースの袖口から覗く腕も擦り剝け、その血が真っ白なワンピースに染み込んでしまって赤茶色い汚れがあちこちにできてしまっている。

 日神の上等な皮靴がメロウの身体を転がすと、今度は腰の部分に黒い靴底跡ができてしまった。この“痛み”は、メロウが声を出すまで与えられる。

 苦痛に耐えかねた彼女が悲鳴を上げて、泣き叫んだその時点で彼女は用済みとなり、世界は日神が楽しみにしていた混乱の渦に巻き込まれてしまう。ゴルトが、発動してしまう。


「杉原、今、何時だ?」

「あと3分で、17時になります」

「時間がかかり過ぎだ。予定では、既にゴルトを発動させていたはずだったのに」

「申し訳ありません。愛神様のお世話のためにスケジュール管理を怠っていました」

「まあ、良い。君さえ鳴いてくれれば全て予定通りだ。今の内に声を出しておくのは、君のためでもあるんだよ。ほら、見たまえ……美しいだろう」

「……っ」


 金色の円柱に光が灯る。地面に倒れ込んだメロウの目の前にあるゴルトの円柱は、内部で液体が循環するように小さな光の気泡が溢れ金色が徐々に紅潮してプラチナピンクの輝きに変貌した。

 光の中から浮き上がった円柱の内部には、三角柱――プリズムが内蔵されている。ゴルトは光を利用して電子機器をジャミングする兵器だと、両親から聞いていた僅かな情報を思い出した。

 このプリズムから発射される光が、世界を混乱に陥れる。美しくも妖しい、この光が。


「ゴルトはいつでも起動できる。後は、君の声が必要なだけだお嬢さん。君の肉声によって、ゴルトの封印は解かれ本来の光り輝く姿を取り戻す……そして、その光が全世界へと降り注ぐ。想像してごらん、何と美しい光景ではないか」

「……!」

「だから、可愛く鳴いておくれ」


 そう言って、愛人を可愛がる時のための優しい手つきでメロウの顎を持ち上げると、再び彼女の頬を叩いた。メロウの身体が地面の上を滑り、膝からの出血が白いコンクリートの上に赤い掠れ線が走る。

 たった一声、短い悲鳴の一つでも口から出せばこの痛みは終わるが、それに屈する事はできないのだ。

 膝の痛みに顔を顰めながら、メロウは自身の腕に齧り付いた。腕に歯を立て白い肌に歯型を残すほど強く噛み付いて、声が出ないように口を塞いだのである。

 手負いの猫の吐息に似た荒い呼吸では、ゴルトはメロウの声とは認識せず発動しない……自身の身体を傷付けてでも日神に屈しないと訴えたメロウの行動に、日神は面白くなさそうに舌打ちをした。


「父親と同じで、強情な娘だ。無垢な少女のまま素直に言う事を聞いたら、もっと可愛がってやったが……しょうがない」

「……っ」

「啼かせてやろうか」


 日神の腕がメロウに伸びて、彼女の身体を起き上がらせようとしたその時、光に包まれた静寂な空間に銃声が響いた。しかし、銃声はしたが日神の腕に銃弾は撃ち込まれていないし、外れ弾がゴルトの円柱の一本に命中した訳でもない……この銃声で撃ち出されたのは、空砲だ。

 このノアで一発目に空砲を装填した銃を撃つ人間は、警察官か『逃がし屋』――彼しかいない。


「メロウ!!」

「っ!!」

「……『逃がし屋』か。黄金隊は何をしている。呑気に茶でも飲んでいると言う訳では、ないだろうな」

「ちゃんと仕事していたよ。俺が有能すぎただけだ……メロウをこっちに寄越せ。一発目は空砲だが、残り四発はフルメタルジャケットの実弾だ」

「……っ」

「後ろ、凄えな……袋から飛び出た乾パスタか? あれが、ゴルトか」


 SAKURAを構えた藤次郎がそこにいた。片桐から譲られたカードを使って警備員用のエレベーターで、一気に最上階まで登って来る事ができたのは嬉しい予定外だったが、メロウの現状を目にしてしまったらどうしてもっと早く此処まで来なかったのかと後悔の念がせり上がって来る。

 ノアで最も空に近い塔――バベルの屋上は、妙な光景になっていた。藤次郎は袋から飛び出た乾燥パスタとしか感想を抱かなかったゴルトの円柱が、ヘリポートを中心にして地面から左右対称に生えていて、しかもいつでも発動可能のチャージ100%状態。

 プラチナピンクの光はいっそ神々しいほどの異質さであったが、その光に照らされている傷だらけでボロボロのメロウと、歪んだ笑顔で彼女へ腕を伸ばした日神では少女に対する淫虐な場面にも見える。青少年なんちゃらの事例だ、おまわりさんこっちです。

 SAKURAの引き金に指を引っ掻けたまま、ざっと辺りを見回して警戒するが此処には4人の人間しかいないようである。

 メロウと日神と、藤次郎と、彼の乱入に我関せずと言いたげな態度で一度視線を向けただけの美寧子。浮羽がいないのはありがたいが、この後にその他大勢の人間が雪崩れ込んで藤次郎を包囲するなんて展開はゴメンなので、さっさととっととメロウを連れて逃げなければならない。

 ノアから脱出しなければならないのだ。


「メロウを引き渡せ」

「ただの裏通りの『逃がし屋』が、私の城に乗り込むなんて所業を犯すとは。素晴らしい勇気だと褒め称えたい気持ちもあるが……小娘1人に、何故そこまで。お前もゴルトが欲しいのか? 彼女の声によってもたらされる、世界を破滅に導く光が。それとも、彼女の訴えに絆されて私を止めに来たとでも言うのか。正義の味方か」

「一つ目に対しての答え。いらねぇよ、んな物騒なモン。パスタよりはラーメン派なんだよ。そして二つ目、俺は正義の味方なんて崇高な存在じゃねぇ。世界の危機だって、頼まれても救いたくない。俺の知らないところで勝手にやれ。俺がメロウを取り返しに来たのは、まだ逃がしの依頼が達成されていないからだ。それに……そいつとは、約束があるんだよ」

「っ!」

「約束を守るなんて、ガキでもできる事だ。大の大人が、指切りげんまんを破っちゃ示しが付かないだろうが。だから、此処まで登って来た」


 日神の頭の中がどうなっているのか、一体どんな野望を抱いてゴルトなんぞの開発を依頼したかなんてどうでも良い。黙って世界の滅亡を受け入れる気はないが、積極的に首謀者の元へ殴り込みに行く正義感はこれっぽっちもない。

 メロウただ1人のために、声を封印した少女をメトロポリスから脱出させて指切りを交わした“約束”を守るためだけに、カミサマへ喧嘩を売りに押しかけたのだ。


「日神豊……メロウを、返せ」

「……約束とは、破るためにあると言う言葉。若い頃の私は、何度もそう吐き捨てられたな」

「話を聞けと、とも言われなかったのか……!」

「っ!!」


 再び、銃声が鳴った。それと同時に、SAKURAから弾かれたフルメタルジャケットが日神の腹部へと命中する。その瞬間を目にしたメロウは、短く喉を鳴らしたが両手を口に当てて悲鳴を必死に飲み込み、日神の身体がぐらりと揺れるのを目にしてしまった。

 そしてまた、銃声が鳴る……藤次郎がSAKURAの三発目、二発目のフルメタルジャケットを発射したのかと思ったが、音が微かに違う。SAKURAが奏でる発砲音よりも甲高く、乾いた短い銃声が響いた次の瞬間に小さな弾丸が藤次郎の左上腿を貫通したのだ。


「っ!?」

「な……っ、杉原、美寧子」

「いざと言う時のための護衛も、業務内容に記載されているので」

「やはり君は有能だな、杉原。用意してくれて、助かったよ。撃たれた反動は驚いた」


 弾道を辿った先にいたのは、秘書の美寧子。大振りの万年筆のペン先を藤次郎に向けて、ヘッド部分に指をかけた状態で書類を朗読するかのような口調でそう言った。あの万年筆、ペン型の拳銃だ。

 そして、撃たれたはずの日神は涼しい顔で出血もしていない腹部を撫でると、仕立ての良いスーツのジャケットを肌蹴させて下に着込んでいた防弾チョッキを藤次郎に見せ付けた。

 三発が残るSAKURAの銃口は日神に向けたまま。しかし、「それが何の役に立つ?」とても言いたそうな顔で、ビル風にジャケットの裾をはためかせている。

 嗚呼、やっぱりカミサマってこんな感じだよな。地を這いずり回るちっぽけな人間が天まで昇って来て反乱を起こそうとしても、カミサマにとっては可愛らしい駄々にしか見えないのだ。

 ちょっと手を捻ってやれば素直になる。心の底からそう信じている視線に冷や汗が滴り落ちた藤次郎は、痛む左脚の膝を着いてその場に崩れ落ちてしまったのである。




***




 化け物――早薙が初めて、浮羽を遭遇した時に抱いた感想がそれだ。

 梟を意味するステッカーを貼ったHONDAシャドウで、真夜中の大都市の隙間を梟の狩りのように音もなくすり抜けて目視できないほどの遠方から獲物を狙う、ノアで一番の狙撃手(多少の誇張あり)。と称された早薙が、唯一狙撃場所を勘付かれて襲撃もされた相手が浮羽である。

 天然か人工かは解らないが、犬並みに鼻が利いてしかも地獄耳と言うスペックの上に、非効率的でインパクトだけは大きいパイルバンカーなんて武器を容易く扱うこの男は駆逐しなければならない化け物にも見えた。早薙が一旦身を隠した貯水タンクをパイルバンカーで破壊して、盛大に噴射した水の向こうから乗り込んで来る……盛大に噴射した水の向こうから現れた浮羽の姿は、本当に化け物としか言いようがない。


「この、女相手にしつこいぞ浮羽!」

「小五月蠅いネズミも、全力で狩るのが仕事だ」

「だから、梟と蜘蛛だって言ってんだろ!」


 遠距離狙撃とは言えない距離まで迫って来る浮羽へSV-98で弾丸を撃ち込んでも、回避されるか左腕に装備されているパイルバンカーの鉄杭で弾かれてしまう。だが、早薙も負けてはいない。素早くビルの屋上を動き回ってサイレサーが装着されたデザートイーグルの弾丸を回避しまくっているため、広大面積とは言えないビルの屋上でしつこくしつこく鬼ごっこを繰り広げている。

 だけど、この鬼ごっこが通用するのはほんの数分だけだ。決着は、一瞬で付けなければならない。

 早薙が、水浸しになってしまったこの場と隣り合っている同じ階数のビルの屋上へ飛び移ると、当然浮羽も彼女を追って来た。そして、浮羽がサイレンサーの銃口を再びこちらに向けた瞬間、早薙が地面に転がした六角形の筒から白煙が噴き出したのだ。

 分厚い白煙は視界を全て塞いでしまうが、こんな煙幕は鼻も耳も利く浮羽には無意味ではないだろうか。微かな息遣いでも聞き取られ、一度嗅いだ臭いは忘れないと言わんばかりに嗅ぎ取られて居場所を特定されてしまう……実際、浮羽が煙に隠れた早薙を発見するのは造作ない事であった。

 ほんの数秒で彼女の気配を察知し、今度は逃げられないようにとパイルバンカーで頭部を狙ったのである。

 煙幕越しでもはっきりとそのシルエットが捉えられるほど接近したその時、早薙の顔が正面にあった。だが、彼女は小さな袋を手にして嫌味ったらしく笑いながら、その袋を裂いて中身の液体を浮羽の顔にかけたのである。


「っ! がぁぁぁ!!?」

「ラーメンは味噌派? 醤油派? それとも、激辛マニアだったりするか? どうよ、カップラーメンとは思えないほど唐辛子とニンニクをたっぷり使って油もギドギドなスープのお味は。食べた後の臭いが気になるなら、ほらよ」

「っ、や、止めろ! 鼻が……!」


 早薙が浮羽に振りかけた袋の中身は、カップラーメンの液体スープの小袋。浮羽が破壊した藤次郎の隠れ家にストックされて無残にも床に散らばった、激辛キムチ豚骨ニンニク増量(5分)と言う、臭いが凄まじくて口臭ケア用品なしには食べられないと一部では有名なラーメンのスープに、浮羽は悶絶して口輪を掻き毟ったのだ。

 お次に、臭いが鼻にしつこく残ってかけ過ぎれば吐き気を催すと不評な、ティーン向けの安価な香水を至近距離で吹きかけるとこれまた苦痛の表情で地面に突っ伏した。普通の人間でも顔を顰める臭いなのだから、鼻が利く浮羽にはひとたまりもないだろう。

 しかも早薙が追い打ちと言わんばかりに耳を劈く甲高いアラームを鳴らせば、今度は耳を押さえてのた打ち回った。そして浮羽は口輪の耳元をごそごそ弄繰り回すと、荒い呼吸をしながら殺気の籠った視線で早薙を睨み付けたのだ。


「やっぱり、ただの人間が犬並みの能力を持っている……て、訳じゃなかったみたいだな。その口輪が、音と臭いを収集する道具か。集音機と集臭機? を合体させた凄い版、みたいなものかな。化け物の面の皮、剥ぎ取ったり」

「何故、この口輪に気付いた」

「気付いたのは藤次郎だよ。メロウちゃんがアラームを鳴らした時、お前は不快そうに顔を顰めたって言っていた……耳が効く分、音に弱い。臭いもまた同じ。ならば、その口輪は効きすぎる聴覚と嗅覚を抑える装置かもしれないって。だけど、実際は逆だったな。お前が日神の飼い犬でいられたのは、口輪のお陰だった」

「黙れこのアマぁ!!」

「ヤダ、黙らない」


 アラームの音が脳に突き刺さって頭はガンガン、唐辛子とキムチとニンニクと、ついでに甘くしつこい香水の臭いで不快感MAXの状態で、すばしっこい梟を狩れる訳がない。それに、狙撃戦と言うのは狙撃手と監視者の2人一組で行う方が成功率は高いのだ。弾正姉妹は蜘蛛と梟の双子……早薙が正面にいる時は、早弓が背後にいると考えれば良い。

 デザートイーグルを捨て去り、パイルバンカーで早薙に殴り掛かってきた浮羽だったが、奴は背後から狙撃された。後ろを振り返れば、そこには誰もいない。いたのは、蜘蛛を模した八本の脚と狙撃機能が搭載されたドローンだったのだ。


「どうせ防弾チョッキとか着ているんだろ」

『だったら、容赦なく撃っても良いよね』

「至近距離で7.62mmのR弾を撃ち込まれたら」

『痛いよね』

「っ」


 銃口初速820m/s、射程距離は1,000mもある癖に、SV-98の銃口は浮羽の身体に密着したまま十発の弾丸が撃ち込まれたのだ。

 SV-98を手にした早薙が狙撃手となり、ノア全体の監視カメラをクラッキングして視界を乗っ取り、時には遠隔操作でドローンを飛ばす早弓が監視者となる。それが、弾正姉妹の仕事の常套手段だった。

 狙撃……と言うか射撃の反動で後ろによろめいた早薙だったが、それ以上に浮羽の身体が大きく揺れて後退した。そしてそのまま、屋上の縁を踏み外して下へと真っ逆さま。そのまま、コンクリートの地面に追突してしまったかと思いきや下は木々が密集したグリーンスペースだった。枝と葉がクッションになるから死ぬ事はないだろう、だけど、しばらくは這い上がってはこれないはずだ。

 背中に早弓のドローンで一発、そして早薙のSV-98で一気に十発全部を撃ち込まれたら防弾チョッキを着込んでいてもダメージを与えられたのだろう。一先ず、先日折られた肋骨の借りはこれで勘弁してやるか。双子には、まだ二発の仕事が残っているのだ。


『随分と時間ロスしちゃったよ!』

「解ってる! さっさと終わらせよう!」


 早弓の急かす声をイヤホンで聞きながら、早薙はビルを下りて次のポイントへと急ぐ。快晴を映していたノアの空は、いつの間にか美しい人工的な黄昏時に変わりつつあった。

 あの空にもう二発、弾丸を撃ち込むのが今回の依頼だ。これが終わったら、悔しいが全部任せるよ。


「『藤次郎!』」




***




 世界の風は、全て自分に対して追い風となっている。順風満帆。幸運の女神はこちらへと微笑んだ……日神の現状は、そんな陳腐な言葉で表現できた。

 ゴルトを使って、全世界を混乱へと導くための計画は唯一ただ一つのピースの狂いを覗けば、殆どが日神の目論み通りに進んだのだ。だけど、その狂いももう直ぐ正される。

 当初の計画書の予定に、気配すらも見せなかった乱入者も出て来たがほれこの通り。ノアに娯楽と歓楽を提供し、日神に稼ぎをもたらしてくれた『逃がし屋』は美寧子の攻撃で蹲っているだけだ。


「……っ!」

「おっと、行かせはしないよお嬢さん。君には、一番の特等席を用意しているんだ。世界にゴルトの光が降り注ぐ美しい光景を、最も間近で見る事ができる席だ」

「っ!」


 倒れた藤次郎へ駆け寄ろうとするメロウの腕を掴んで地面に放り投げた日神は、最上階屋上の中心点に立つと天を指差した。ノアの中央に位置するバベルの中央、つまりノアの中央。そこから見える天はすなわち、ノアを包み込むドームの真ん中だ。

 日神が指差したその真ん中の空は黄昏色になりかけて、人工の空もそろそろ夜へと切り替わる。美しいが味気ない橙色の映像がパラパラと剥がれ落ちて変形すると、精巧にできた映像の空の真ん中に半透明なレンズにも似た何かがあったのだ。


「ブリリアントカットを模して造らせたんだ。あのレンズを通り、ゴルトの光は全世界へと拡散される」

「……っ」

「君の両親が造り出した光景だ。見たいだろう……だから、早く鳴いてくれないかねぇ。あの男が撃たれた瞬間に悲鳴を上げていたら、まだ可愛げがあっただろうに」

「……」

「では、最後の仕上げと行こうか。実は……サブタワーの最上階に、厄介な不法投棄があったそうだ」

「っ」

「ツギハギだらけの、異形の自動人形だかアンドロイドだか解らない人形が放置されていたと、警備の者から連絡があった」


 メロウが唇を固く閉ざして睨み付けて来るメロウから絶望の悲鳴を上げさせようとしているのか、日神はジャケットのポケットから大振りのスマートフォンを取り出すとサブタワーの警備員から送られて来た画像をメロウの眼前へと突き出した。その画像に写っていたのは、メロウの記憶にある彼とは随分とかけ離れてしまったツギハギの異形だった……だけど、決して見間違える事はない。

 何かの機械にもたれかかって動かなくなっている、テンペストの姿がそこにあったのだ。


「っ!?」

「ちっとも動かないらしい。高性能AIを搭載したアンドロイドも、流石に此処まで壊れてしまったのなら、壊れたのだろうな」

「……、……っ」

「泣きたいなら泣けば良い。大声を出して、大切な者の死を嘆きなさい……我慢は、いけないよ」

「……っ」

「……女を泣かせる男は最低だって、先輩に教わらなかったのか」


 小さな嗚咽が漏れる口を手で押さえたメロウに、日神があまりにも優しくそう囁いたが、彼女の口から出そうになったのは悲鳴ではなく驚きだった。弾丸が貫通した左脚からは真っ赤な鮮血がとめどなく流れていたが、その脚を引き摺りながら身体を起こした藤次郎の目は、まだ死んでいなかったのだ。


「日神! メロウを解放しろ……さもなくば、このバベルが崩れる事になるぞ」

「ほう、爆弾でも仕掛けたか」

「ああ、このスイッチ一つでドガンだ」

「やってみるが良い。どうやって仕掛けたかは知らないが、私の塔はそんな爆弾で崩れるほど柔な設計をしていないよ」

「じゃ、やってみる」


 そう言った藤次郎は、手に持っていた爆弾のスイッチを押すと……轟音を伴って、ドームの真ん中が爆発したのだ。

 爆発音は全部で六つ。最初の一発目から間髪入れずに連鎖的に起きた爆発はドームの真ん中に六角形の亀裂を入れると、ブリリアントカットが施された拡散レンズの破片が落下して来たのだ。


「なっ……!」

「誰もバベルその物に爆弾を仕掛けたって言ってねぇよ! ドームの破片でバベルが崩れる事になるからな!!」

「貴様! よくも私のレンズを……!」

「テン!! レンズもドームも破壊したぞ! やれ!!」


 弾正姉妹に依頼してドームの天井へ撃ち込ませたのは、アッキーに注文した大量の火薬を凝縮させて作った小型の爆弾だった。テンペストからの情報で、ゴルトの光を全世界へ拡散するための方法もそのために用いられるレンズの存在も知っていた藤次郎は、そのドームの天井ごとレンズを破壊しようとしたのである。

 早弓と早薙の正確な狙撃によって被弾した爆弾によって、ノアを覆い囲むドームと言う名の檻にはぽっかりと穴が開き、その穴の向こうにはしばらく見る事がなかった本物の空が見えた。今日の天気は曇りだったようだ。灰色の雲が漂う藍色の空の隙間からは、薄らと白い下弦の月が姿を見せている。

 だけど、本物の空を眺める余裕もなく藤次郎は出血する脚をぶん殴って日神へと駆け出した。その手にはSAKURA、銃口は日神へと差され引き金には指がかかっている。

 弾丸を通さない防弾チョッキを着込んでいると言うのに、無駄な事を……SAKURAの銃声を聞いても、こんな事態となっても、藤次郎に対して彼の愚直な姿への嘲笑とドームを破壊された事に対する苛立ちが混ざり合った状態の日神へ、三発のフルメタルジャケットが命中した。

 一発、二発、そして三発。どれも防弾チョッキの守備範囲内にある胴体に当たり、日神の身体は微かに揺らぐだけ。藤次郎のSAKURAは五発、一発目は空砲なので実際に撃つ事のできる弾丸の数は四発、全てを撃ち終わった彼は新しく装填し直さないと次の攻撃手段がない。先ほど、空砲を含めて二発を撃ってしまって装填もしていたいため、残っているのは三発だけ……そう考えて、警戒も何もしていなかった。

 覇者の怠慢が、カミサマへ喧嘩を売りに来た敵を“敵”とも認知しなかった傲慢な目には、藤次郎の掌に隠れた二丁目の銃の存在は映っていなかったのだ。SAKURAとも違う、美寧子の持つ万年筆に偽造した拳銃とも違う発砲音は、天から降って来るドームの瓦礫の音に紛れて消えてしまったけれど、その衝撃は日神の身体に響いていた。先程まで撃たれた四発の弾丸とは違う、骨身が痺れて全身が痙攣するこの痛みは……拳銃によって与えられる痛みではなかったのだ。


「ぐあぁぁぁ!?」

「良かった。その防弾チョッキ、絶縁性じゃなかったんだな」

「っ!」

「本当に、お前は何度も俺を助けてくれるな……メロウ」

「い、今のは……っ、愛神の」


 藤次郎の掌から出て来たのは、メロウが浮羽に連れ去られた現場に残して行ったデンリンジャー型のスタンガンだった。日神の防弾チョッキは弾丸を完全に防いでも、最大まで電圧を上げたスタンガンの電流までは防ぐ事ができなかったらしい。

 電流が迸る弾丸を防ぐ術もなく、日神の身体はその場に崩れ落ち、支配から抜け出たメロウは藤次郎へ抱き着いた。そして、スタンガンによる狙撃が合図だったかのように、日神を取り囲むゴルトの円柱から光が失われ始めたのだ。

 天井とレンズを破壊された事によって降って来る瓦礫が何本かの円柱を倒壊させたが、そんなちゃちな破壊で全ての光が消失するものか……外部的な破壊が原因ではない、内部から破壊されていた。


「っ!?」

「テンが、自分の中にあるゴルトの破壊プログラムを起動させた! ゴルトは完全に破壊される!」

「させるか、させるかぁ! 杉原ぁ! 奴らを止めろ!!」

「……申し訳ございません、日神様。定時です」


 時刻は、17時17分。美寧子の就業時間は17時15分のため、とっくに定時になっていた。突然の残業はやらない主義である。


「本日は残業を申し付けられませんでしたので、これにて失礼します」

「杉原あぁぁあぁぁぁ!!」

「っ! っ!!」

「メロウ、気持ちは解るが逃げるぞ!!」


 本来ならば、この場からは一目散に逃げなければならないが、メロウは藤次郎の腕を引っ張って必死にこの場に留まろうとした。その理由は、テンペストだ。彼がゴルトの破壊プログラムを起動させたと聞いて、嫌な予感がした……日神に見せられた、動かなくなった彼の画像と、この場にいない彼。

 メロウは、テンペストの中にある破壊プログラムの存在を知らなかった。当然、それを使用してしまったらテンペストがどうなるかも。

 嫌な予感ほど当たってしまう物だ。光が消失して色褪せるゴルトと動かなくなったテンペスト、彼はこの場にはいない……必死に唇を噛みながらテンペストを捜すメロウが円柱の一本にしがみ付くと、そこに、彼はいた。浮羽によってスクラップにされる前の、人間然とした美しい青年の姿をしたテンペストのホログラムが、円柱の中に現れたのだ。


『……お嬢、様』

「……!」

『破壊プログラムの、存在を隠蔽してしまい、申し訳ありませんでした』

「……っ」

『私は、このボディを捨て、AIデータごとネットワークに移行させ、今はバベルのコンピュータの中に、存在します。このまま創造主夫妻の願いに、従い……ゴルトを破壊、します。しばしのお別れになって、しまいますが、悲しまないで下さい』

「っ! ……!!」

『藤次郎と一緒、に、逃げて下さい。ゴルトはもう直ぐ、爆破されます』

「メロウ!」

「……! ……、っ」

『お嬢様』


 器を捨て精神と破壊プログラムだけをネットワークの海に沈めたテンペストに、メロウは納得が行かないのは当たり前だった。テンペストのホログラムが映った円柱を叩いて殴り付けて、でも彼には手が届かない。それでも、時間がないのだ。

 内部のプログラムを破壊し終わったゴルトは、今度は物理的な意味で木端微塵に、二度と再現されないように破壊しなければならない作業が始まるのだ。光を失った円柱が次々に爆破して、ドミノのように重なり合って倒壊して行く。度重なる爆発音によって、メロウに呼びかける藤次郎の声もかき消されてしまうその状況でも、メロウはテンペストの前から離れず口を開けて声を……出して、彼の名前を呼ぼうとしたのだろうか。

 ホログラムでは、切り落とされた両腕も健在となっているテンペストの右腕が持ち上げられると、プラズマが内蔵されたゴルトの円柱越しに彼の右手でメロウの口が塞がれてしまった。


『お嬢様、声を出してはなりません』

「……っ」


 テンペストの姿が映る円柱も爆破されようとするその時、藤次郎がメロウの身体を俵担ぎにしてそのまま屋上から飛び降りたのだ。藤次郎の肩の上にいるメロウは、大きく口を動かして何か叫んでいるようにも見えたが、彼女がパイプオルガンだと称した円柱の爆破が連鎖的に発生し、その轟音によって音はなにもかもがかき消されてしまった。

 ゴルトの爆風によって再び崩れるドームの天井の瓦礫が地上に落ちて来る音も、一連の爆発に驚愕して騒ぎ立てる人々の騒ぎ声も、藤次郎の背中の荷物のレバーを引いてパラシュートが開いた音も、耳の鼓膜を突き破るほどの爆発音によって呑み込まれてしまったのである。

 ほどなくして、全世界は混乱に呑み込まれる事となる。ノアを包み込むドームの天井に大穴が空き、シンボルであるカジノタワーの屋上で盛大な爆発が起こり都市全体を震撼させた。そして、ノアのカミサマが邪な欲望を企ててICPOに逮捕された……あの後、藤次郎とメロウがバベルの屋上から飛び降りた後、ドームに開いた穴からヘリコプターがノアに侵入して来たのだ。

 ゴルトの円柱は全て爆破されてプラズマの破片が散乱したヘリポートへ、爆風が止むのを見計らったかのようにゆっくりと着陸すると、物々しい表情をした男たち――ICPOの捜査官たちが、令状片手に日神の前に現れたのである。


「日神豊、各国主要都市に向けたテロ活動及ぶ贈賄、その他諸々! 叩けば叩くほど埃が出て来るお前の罪状を全て、突き付けてやろう。逮捕する」

「昨夜の戯言だけで、令状を取ったつもりか」

「いや、証拠は全てこちらにある……ご協力、感謝します」


 捜査員たちが頭を下げた先にいたのは、完全に帰り支度を終えた美寧子だった。

 今回の、ゴルトを使用した計画の情報管理は彼女に任せていた。つまり、最も中枢の傍にいた人間に裏切られてしまったのだ。


「日神様、定時ですので失礼します。あと、こちらの受理をお願いします。今日限り、辞めさせて頂きます」

「……君は、最初からそちら側の人間だったのか?」

「いいえ。ただ、このまま定年まで職務を全うした場合、貴方に雇われるよりはICPOに就職した方が、生涯賃金や定年後の利益が上でしたので。今までお世話になりました」


 テンプレートな会話をして丁寧に頭を下げた美寧子が置いて行ったのは、楷書体のフォントで『辞表』と印刷された書類だった。

 どうやら、『逃がし屋』が参戦しようが傍観しようが、ゴルトが発動されると言う未来に日神は到達できなかったのかもしれない。もう何もかもどうでも良いと言わんばかりに、美寧子の辞表を手にして小さく微笑んだカミサマは、国際的な警察組織へと連れて行かれ人として裁かれる事となる。

 この日、メトロポリスが陥落した。




***




「おじょうさま、起きて下さい。きしょう予定時間を、4時間もオーバーして、います」

「……」


 テンペストの声が聞こえた気がした。そんな訳がない、彼とはあそこで別れてしまったのだ。

 ノアのカジノタワー・バベルの88階屋上で、彼はゴルトを破壊するために……寝ぼけた頭でそこまで思考してから、メロウの瞼が開いて本物の太陽が眩しく飛び込んで来る。ノアから脱出していたのだ。

 藤次郎に担がれてバベルから飛び降りた後の事はよく覚えていない、だからメロウは現状をよく理解できていなかった。日神の暴力によって負った傷は治療されており、腕や膝には包帯が巻かれて顔は絆創膏だらけ。藤次郎のジャケットを羽織った状態で寝かされている場所は、ふかふかしているがベッドの上ではなく、何故か彼女は狭い空間に詰め込まれたぬいぐるみの山の中で眠っていたのだ。

 前方の扉が開いて光が入って来ているところを見ると、此処はトラックの荷台やコンテナなのだろう。藤次郎はどこだろうか?先程聞こえたテンペストの声は、流石に空耳だろうけれど。


「おはようごさいます、おじょうさま。ひろうが溜まっていたのでしょう、ぐっすり眠っておられました」

「……?!」

「こちらです、お嬢様」


 空耳ではない。今、確かにテンペストの声が聞こえた。

 メロウの記憶にある彼の声よりは随分と幼く舌っ足らずな声を求めて、ぬいぐるみの山を掻き分けて捜していると、メロウの直ぐ隣に“彼”はいた。二足歩行の犬のぬいぐるみが、テンペストの声を発しながらメロウの隣にいたのである。


「……!」

「こんなボディで申し訳、ありません。きゅうごしらえです」

「メロウ……お、起きたか」

「!!」

「落ち着け。先ず、此処はノアの外だ。ドームとゴルトを爆破した時の混乱に紛れて、計画とかそんなもんはこれっぽっちも立てないでゲートを突っ切って、力技で脱出してやった。そしてこれは、モーリーのトラックの荷台。縫い針が混入していたとかなんとかで、回収して廃棄されるはずだったゲーセンのぬいぐるみたちがこいつらだ。本来の持ち主のモーリーは、あっちでカミさんに電話している。で、テンの事だろ。大丈夫、こんな姿でもこいつはテン――テンペスト本人だ」

「正確に言う、と。ちょっと過去の私です」

「?」

「あのな、ゴルトに破壊プログラムを使う直前に、テンのAIのメモリーを外部のネットワーククラウドにコピーして、さっきこのボディにインストールしたんだ。問題なく動いているみたいだな」

「だな」


 ゴルトの破壊のためにはテンペストを犠牲にしなければならないのかと諦めかけていたその時、早弓の言葉に衝撃が走る。


「……それっ、て。テンペスト君のメモリーを外部ネットワークのクラウドにコピーして、全部が終わった後に別のボディにインストールしたらイケたりしない?」

「っ!!」

「……イケ、そうです」


 目から鱗が落ちるとはこの時の事を言うのだろう。何百枚もボロボロと落ちた気がした。

 口で言うのは簡単だったが、実行するのには大変だった。バベルで外部のネットワークに通じているのはサブタワーの最上階にあるコンピュータルームだけだったし、メモリーのコピーに随分と時間がかかった。なので、早薙の狙撃も終わって藤次郎もエレベーターと言う突入手段を得ても、テンペスト待ちでしばらく行動できなかった時間があったのは事実である。

 でも、上手く行って良かった。クラウドから引っ張り上げたぽんこつのへっぽこAIのメモリーは、こうして元気に犬のぬいぐるみの姿で動きまわっていた。


「でも、ごめんな。一回、テンと死に別れたみたいになっちまって」

「私のメモリーはコピー、なので、バベルで何が起きたかは記録されていません。ですが、私はおじょううさまのためにつくられた、テンペストです」

「……っ」


 嫌な予感がした。永遠の別れになってしまうかもしれないと感じて、必死に縋り付いたが結局は離ればなれになり……でも、こうしてまた会えた。ゴルトの爆発に彩られたあの場所で別れてしまったテンペストとは、少し違うかもしれない。でも、彼は紛れもなくメロウのテンペストだった。

 柔らかいぬいぐるみの身体を抱き締めで、何度も何度も大きく頷いた。始めて出会った時のテンペストの姿を思い出しながら、小さな涙の雫を落としてメロウの胃が可愛く鳴って空腹を訴えたのだ。


「~~!?」

「おじょうさま、もうお昼になります。お腹が空かれたでしょう」

「だな、行こう」

「?」

「約束、したろ。みんなでラーメン食べに行くって」


 メロウの腕から抜け出したテンペストが藤次郎の肩に飛び乗り、藤次郎はぬいぐるみに埋もれたメロウに手を伸ばしてトラックの荷台から降ろしてくれた。

 今日の天気は、晴れ後曇り。ところにより、冷たい雨が降るでしょう。傘があれば安心ですね。白い雲が浮かぶ空を見上げると、ノアの空の何百倍も高い空が広がっている。

 この空の下、どこへ行くのだろうかと首を傾げれば、藤次郎は無精髭が生える顎を撫でながらそう笑ったのだ。


「行こうぜ、メロウ」

「行きましょう、メロウおじょうさま」


 自分の手を取って名前を呼んでくれる2人に、また、涙が落ちそうになった。

 小さく唇を開けて、大きく息を吸って、鈴のように可憐な少女の声が彼らの名前を呼んだ。


「……っ、……、…………テンペスト、藤次郎――」




END


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メトロポリスからの脱出 中村 繚 @gomasuke100

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