<14>


 新年会の翌日、昨日のことなどなかったかのように授業が始まった日の放課後、リシアは輝銀に教務室へ呼ばれた。予感はあったが早すぎる、とも思った。それでも心臓が早鐘を打つ。珍しい、と一方でどこか冷静な自分もいた。

 扉をノックした後に「失礼します」と断ってから中に入ると、机の向こうに輝銀が座っている。彼の目の前に、表に向けた自分の課題札が置いてあった。やっぱりか、と思うと同時に胸が急に重くなる。

「珍しい顔だな」

 顔色が変わったのを目敏く見つけ、輝銀は中に入り座るように手振りで示した。

 リシアは彼の前に腰を下ろす。自分でも少し青ざめているのがわかる。

「課題の提出、早すぎないか」

 苦笑しながら輝銀が言った。

「結果が出るのが、早すぎるんだと思います」

「リシアには早すぎるってことはないだろ。一番乗りを狙ってたんだから」

「そうですけど…」

 思わず輝銀から顔を反らす。輝銀は課題の内容も知っているし、リシアが指輪を欲しがっていることも知っている。でも、それだけだ。

「緊張してるのか。成績、早く知りたいだろ」

 リシアは首を戻して、曖昧に頷いた。

 輝銀はそれを意外そうに眺めてから、机の上、リシアの札の上に左手で握った拳を置いた。リシアは無表情にそれを見つめる。

 輝銀がゆっくりと手を開いた。ことり、とかすかに固い物が机に落ちる小さな音がする。

 その音に、リシアが心臓が跳ねた。

「おめでとう、リシア」

 輝銀が手をどけると、そこには指輪が乗っていた。リシアが初めて見る、けれど確かに自分の指輪の一部分だとわかる、細い銀細工の指輪だ。

「どうして…」

 気づいた時には、小さくそう叫んでいた。

「そんなはずない。どうして、どうしてですか。どうして、指輪がここに。これは僕の課題じゃないはず」

 目を瞠った輝銀に、リシアは腰を浮かせて机に身を乗り出し、噛みつくように迫っていた。

「いや、ちゃんとリシアの課題だ」

 輝銀が指輪の下から札を抜いて、裏返して見せた。

 そこにはちゃんと、はっきりと鈴蘭の署名と、リシアの課題の成績はS、と結果を示す文字が浮き上がっていた。

「そんな…」

 翡翠はへたりこむように椅子に座った。怪訝そうに、と言うよりも心配そうに、輝銀は自分の生徒の顔を覗き込む。

「予想と違ったのか」

 リシアは考えの整理がつかずに、何も答えられなかった。

「リシア、大丈夫か」

「はい、大丈夫です…。まさか上手くいくと思わなくて」

 彼は答えたが、自分でなにを言っているのか、あまり良くわかっていなかった。

「本当か? 顔色が悪い」

「たぶん、寝不足です」

 リシアはそう言うと、立ち上がった。これは事実だ。

 結果は出てしまった。そして指輪は自分のものになった。

 彼は力無く腕を伸ばし、机の上の指輪を取ると、無造作にトラウザーズのポケットに入れた。札は輝銀が回収して、成績は後日、他の科目や実習と合わせた成績表になって戻ってくる。

「早く報せてくれて、ありがとうございました。帰って休みます。失礼します」

「そうした方が良さそうだな」

 机ごしに輝銀に軽く頭を下げて、リシアは教務室を出た。

 扉を閉めて廊下を歩き、誰もいないのを確認してから壁に凭れると、そのままずるずると膝を曲げて床に尻をつく。ポケットに手を入れると、小さな金属の感触、それに触れながら、リシアは思い返していた。

 あれは年明け前の、終業式の日だ。



 ホールで式が終わったあと、ばらばらに生徒たちが教室へ戻ろうとする流れの中で、リシアは翡翠に声を掛けられた。ちゃんと顔を合わせるのは一ヶ月ぶりくらいかも知れない。十二月はむしろ、鈴蘭の方が翡翠と会っているはずだ。

 けれど自分たちは今までも、一ヶ月くらいまともに会話しないなんて、珍しいことではなかった。翡翠の方でも普段通りに、

「リシア、期末課題終わった? 提出できそう?」と、隣に並びながら話し掛ける。

「うーん」と、リシアは月曜日の鈴蘭の、新年会に誘われたという彼女の言葉と、興奮した態度を思い出しながら首を捻る。

「結果はどうなるかわからないけど、進み具合としては順調だよ。年明けには提出できると思う。翡翠は? 翡翠ももう課題、始まってるだろ」

「おれも冬休み中に仕上げるよ」

 翡翠はそう言って困ったように笑い、ホールから出ると、

「あと、ちょっと」と、言葉を濁しながら手近な校舎裏へリシアを引っ張った。外は寒く、日当たりの悪い校舎裏の花壇の草木は、今はみんな萎れている。

「すごく余計なお世話だってわかってるけど、リシアに言っておきたいことがあって」

 辺りの様子を窺って、ふたりの他に誰もいないことを確認してから、翡翠が切り出した。

「なに」と、首を傾げたものの、リシアには鈴蘭のことだろうと見当がついていた。

「おれ、鈴蘭ちゃんのこと新年会に一緒に出ようって、誘っちゃった」

「うん、鈴蘭から聞いた」

 リシアが頷くと、翡翠が不審そうな顔をする。

「…いいの?」

「別に、僕がどうこう言うことじゃないし」

 翡翠は彼の顔をじっと眺めて、それから大きく溜め息を吐いた。

「リシア、人付き合いが苦手だからって、ここまでスルーすることないよ。おれは鈴蘭ちゃんを誘ってるんだよ? いくら苦手だからって、自分が好きな女の子が、おれと新年会に出て平気なの?」

「翡翠?」

「学園祭も来ない、誕生会も来ない、まあこっちは鈴蘭ちゃんからも断られちゃったけど。ルチルの試合を観に来てくれたりもしたし、リシアも意地張らないで来てくれれば、もっと鈴蘭ちゃんも楽しめたと思うよ」

「翡翠、ちょっと…」

「今からでも遅くないよ。せめて新年会くらい来ない? 年明けからは、おれたちは忙しくなるんだし、もう少し自分に素直になって…」

「翡翠ごめん、ほんとに何を言ってるかよくわからない。僕が、鈴蘭が、なんだって?」

 その言葉に、翡翠は怒ったような表情でリシアを見る。続けた言葉は衝撃的だった。

「なんだって…、リシア、鈴蘭ちゃんのこと好きでしょう」

「はあ?」

 心臓を鷲掴みにされたような気持ちだった。リシアは思わず声を上げ、それからつい、言ってしまった。

「鈴蘭が好きなのは、翡翠だよ」

 しまった、と思った時には遅かった。けれど翡翠は平然として、頷いた。

「知ってる。だからおれをダシに、鈴蘭ちゃんと仲良くなろうって思ったんでしょう?」

「翡翠、違う…」

「どう違うのさ。見ててすぐにわかったよ。おれが誰とも付き合う気がないって、わざわざ彼女のいるところで言わせたりしてたから、最初は上手くいってると思ってた。なのに、学園祭くらいから、ちょっと変だよ。リシアは苦手だからって避けるけど、人の気持ちなんていつも一定なわけじゃないし、自分の思い通りにいくわけないよ。鈴蘭ちゃんはリシアのことも好きだよ。ちょっとぐらい鈴蘭ちゃんの気持ちが揺れたからって、そんなに不貞腐れなくても…」

「翡翠、違う、ほんとに違うんだ!」

 彼の言葉を遮るように強く言うと、翡翠がまた顔を曇らせた。その表情に、リシアは覚悟を決める。これを言わずに済まされない。

「実は、課題だったんだ…」

「課題?」

 全然理解していない様子で、翡翠が聞きかえす。リシアは頷き、渋々続けた。

「鈴蘭の恋に協力する。それが僕の課題」

「それって、期末課題のこと?」

 少し混乱した表情で、翡翠が言った。

 課題が出たことは話してあるし、内容を詳しくは教えられないと言った時、翡翠の性格から、自分から話さなければそれ以上課題の内容を詳しく聞いてこないだろうと、わかっていた。予想通り、今に至るまで課題の進み具合を聞かれたことはあっても、内容を教えろと言われたことはなかった。

「嘘だろ、それが本当に、リシアの期末課題? いつもみたいに気楽に嘘ついてるんだったら、許さない」

「ほんとだよ。課題のためじゃなかったら、僕だってこんなことしない」

 リシアは両手を振った。翡翠は片手を額に当てて、彼の左手の人差し指に嵌った指輪を見る。彼はそれに気づいて、思わず手を組んで指輪を隠した。

「それじゃあ…」と、翡翠が小さく溜め息を吐く。

「リシアは知ってたんだ。鈴蘭ちゃんがおれを好きなことも、仲良くなればおれが鈴蘭ちゃんを好きになるかもって、彼女が思うかも知れないことも」

「翡翠」

「前に言ってたよね、課題、全部達成したら、お父さんの指輪が戻ってくるって」

 リシアは黙る。翡翠は続けた。

「鈴蘭ちゃんのこと、可愛いと思うし嫌いじゃないけど、リシアが望んでるみたいに好きになることはできないよ」

「…うん」

「それなのに鈴蘭ちゃんに期待を持たせるようなことをして、残酷だと思わないのかよ」

「そういうわけじゃ…」

 リシアはそう言いかけたが、言葉が続かない。翡翠は珍しく皮肉っぽく笑って、

「そういうわけじゃなかったら、どういうわけなんだよ。お父さんの指輪、すごく大切に思ってて、そのために三年間ずっと期末課題を頑張ってるって、去年転校してきたおれでさえ知ってるのに。だから出来る限り協力したいって思ってた。それなのになんだよ、自分のためなら下級生の気持ちも、友だちも平気で利用するんだね」

「翡翠、僕は」

「リシア、たまに嘘つくけどそれは自信のないとこ隠すためだってわかってたし、その分勉強家だし、自分が知ってることは出し惜しみしないで教えてくれるし、なにより天文系の話できるのリシアくらいだったから、けっこう気が合う友だちだと思ってた」

 でも、おれだけみたいだな。

 翡翠は不愉快そうな表情のままそう言って、リシアの言葉を待たずに踵を返すと、怒りも露な足取りで立ち去った。

 あの時リシアは、自分に向けられた背中を眺めることしかできなかった。



 それが終業式の日のできごとだった。

 だからリシアは知っていたのだ。たとえ昨日の新年会で、鈴蘭が自分の気持ちを伝えたとしても、それは失敗するとわかっていたのだ。

 一番に提出しても、成績が最悪なら当然、指輪はもらえない。

 リシアにはそれがわかっていた。全部わかっていたけれど、鈴蘭には言わなかった。

 本当は、言えなかったのだけれど。

 それなのにどうだろう。

 鈴蘭は約束どおり署名して札を提出してくれ、そして翌日の放課後にはもう成績の判定は終わって、

 そして信じられないことに、指輪は今、自分の手の中にある。

 リシアはポケットの中で、人差し指に指輪を引っかけると、自分の顔の前に手を上げる。

そして、最初から人差し指に嵌っている二連の指輪に向かって滑らせた。指輪はまるでそれを待っていたように、ふたつのリングに重なり、ぼんやりと光る。

 リシアは思わず手を頭上にかざした。

 光が消えると、鷹のモチーフが現れる。リシアは小さく息を飲んだ。

 現れたモチーフは、指輪が完成した証明。

 そして銀に光る鷹の姿は、かつて大好きだった父親に見せてもらったモチーフと同じだった。

 ずっと、この瞬間を待ち望んでいた。

 リシアはそう思いながら指を顔に近づける。

 このために学院に入り、期末課題を頑張っていた。指輪を三つ揃えることが出来たら、どんなに気分が良いだろう、とずっとずっと期待していたのに、その瞬間をこんなに沈んだ気持ちで迎えるとは思わなかった。

『リシア、鈴蘭ちゃんのこと好きでしょう』

 翡翠の言葉が、頭の中で甦る。

(誰かを好きになったって、無意味だ)

 親指で指輪に触れながら、リシアは目を閉じる。

(感情に、永遠なんてない。どんなに好きになっても、その好きが永遠に続くことはないんだ)

 他に好きな相手がいながら、父と結婚した母のように。そして、あんなに楽しい日々を過ごしたのに、本当の息子ではないとわかったら、それきり会ってもくれない父のように。

 自分はそんな風にならない。自分の感情に振り回されたりしない。

 それがリシアの望みだった。

 だから誰かのことを、特別に好きになったりしない。そう決めていた。それなのに。

 今、胸に湧く、焼け付くような痛みを、リシアはどうすることもできなかった。



 謝りたい、とリシアがメッセージを送ると、昼休みなら良いよ、と翡翠から返信があった。授業が始まって三日目だが、学院はすっかり通常の授業モードだ。特に三年生は来週から実技や演習の試験が始まるので、緊張感すら漂っている。

 さっさと謝ってしまいたくて、昼休みに入るとリシアは隣のクラスに顔を出し、目配せで翡翠を呼んだ。彼は流星とルチルに手を振ってから、リシアの元にやってくる。

「ごめん、翡翠」

 彼が廊下に出てきて顔を合わせると、すぐにリシアは言った。

「ちょっと話せる?」翡翠が言って、窓の外を示す。

 同じ気持ちだったリシアは頷いて、一緒にまた人気のない校舎の裏へ行った。

 ふたりきりになるとすぐにリシアは、

「ごめん、翡翠。僕が悪かった。確かに翡翠の言うとおり、指輪が欲しくて翡翠に嘘をついてごまかしてた。鈴蘭のことも。許してもらえないかも知れないけど、自分がやったこと、後悔してるって伝えたくて」

 少し先を歩いていた翡翠は、立ち止まると振り返って、リシアに向き直る。

「本当に悪いって思ってる?」

「思ってる。反省してる」

「もう二度としない?」

「しないよ。翡翠だけじゃなく、鈴蘭にも、他の誰にも。結局自分を苦しめるだけだって、わかったから」

「おれもね、あの時カッとなっちゃったけど、冷静になって後で考えてみたら、リシアが鈴蘭ちゃんのこと好きだって思いこんでたの、おれの勝手な早合点だった。それにリシアのためだと思って鈴蘭ちゃんを誘ったりしたのも、余計なお世話だったよね。それなのに勢いで怒っちゃって、ごめん」

 その言葉を聞きながら、リシアは無意識に人差し指の指輪に、親指で触れる。揃ったばかりの指輪に。そしてこれが揃っているということは、気持ちを誰よりも変えたのは、翡翠のはずだった。

「おれはいいから、鈴蘭ちゃんに謝って」

「正直、合わせる顔がないよ」

「そんなこと言わないで、リシアの課題のこと、気にしてたよ」

「でも今は、幸せで僕のことなんか吹っ飛んでるんじゃないかな」

「うん?」

 翡翠がわずかに不思議そうな顔をして、それからちょっと顔をしかめて続ける。

「それは無責任だよ。彼女は二年だし、これからおれたちの試験が始まったら、本当に会う機会なんかなくなるよ」

「学校でちょっと会うくらいならできるだろ。鈴蘭だって無理は言わないと思うし、少しくらい時間作ってやってくれよ」

「リシア? なんでおれが? そんなことする必要ある?」

 今度こそわけがわからないと言う表情で見つめられ、けれどその言葉にリシアの方も、謝ったばかりなのを忘れてむっとする。

「そんな言い方して楽しいか? 確かに翡翠のこと好きな女子はたくさんいるし、こんなの慣れっこだろうけど、決めたのは翡翠だろ」

「なんの話?」

「いい加減にしろよ、鈴蘭から告白されて、受け入れたんだろ? 新年会の時」

 そう言って彼は左手の拳を突き出した。翡翠に指輪を見せつけるように。彼もすぐにそれに気づいて、ぽかんとした表情になる。が、すぐに表情を戻して首を振った。

「されてないよ」

「は?」今度はリシアが目を瞠る。

「告白なんて、されてない。新年会は一緒に出た。楽しかったけど、それだけだよ」

「嘘だろ」

「嘘じゃないよ。おれも鈴蘭ちゃんも、リシアみたいに嘘なんかつかない」

「だったらなんで、指輪が揃ってるんだ…」

 呆然としながら左手を広げたリシアを前に、翡翠がわずかに首を傾げる。それから四日前のことを思い出しながら言った。

「鈴蘭ちゃんには、話したいことがあるって言われた。リシアの期末課題に協力してるけど、自分の努力不足で、指輪を手に入れられないと思うって、落ち込んでた。だから期末課題のことでリシアになにか訊かれたら、適当に誤魔化してほしいって頼まれたんだ。

 おれはリシアから課題のこと聞いてたし、鈴蘭ちゃんを誘ったのも、もとはリシアも新年会に呼び出せればいいなって思ってやったことだから、ちょっと後ろめたかった。でも、告白なんてされる雰囲気じゃなかったよ。新年会の間ずっと、彼女はリシアの課題のこと、気にしてた。なのに指輪がなんで揃ってるのか、おれにもわからないけど」

「そんな…。翡翠が鈴蘭と付き合うことにしたから、指輪が揃ったんだと思ってた」

「前にも言ったけど、それはないよ」

「だったら、どうして…」

「ここで出ない答えを考えるより、鈴蘭ちゃんに直接会ってきたほうがいいんじゃない?そうでなくても、彼女には謝るべきだよ」

 翡翠の言うとおりだ。リシアは頷くと、すぐに端末から鈴蘭に、会って欲しいとメッセージを送った。エラーにはならなかったのに、返信は来ない。午後の授業の短い休み時間にもう一度同じメッセージを送った。やはり、返事はない。

 気づいてないと言うより、無視している可能性が高い。

 いてもたってもいられずに、リシアは授業が終わると飛び出して、二年の校舎へ入って、鈴蘭の教室へ向かった。廊下で見つけた。相変わらず黒い服なので、すぐにわかった。

 声を掛けようとするより先に、彼女がリシアに気がついた。目を丸くして、飛びすさらんばかりに驚いて、すぐに身をひるがえすと駆け出した。

 逃げた、と気づくのに一瞬遅れた。

 リシアは追いかける。階下へ下り、靴も履き替えずに校舎へ飛び出した。校舎の角を曲がろうとしたところで、鈴蘭の腕を掴んだ。

 力加減できずに強く引いてしまった。鈴蘭が小さく悲鳴を上げて、リシアの方へ倒れこむ。とっさにそれを支えて、彼はついに鈴蘭と向き合った。

 視線が合う。鈴蘭の顔は強張って、青ざめていた。

 動悸がする。急に走ったせいだけじゃない。リシアにはそれがわかっていた。それが収まってくれることを望みながら、彼は乱暴な行動を謝ろうと、口を開く。

「ごめんなさい、リシア」

 声を出す前に、鈴蘭が叫ぶように言った。彼女は胸の前で手を合わせ、固く目を閉じている。肩がわずかに震えているのがリシアにもわかった。

 まったく予想外の言葉に、リシアは不意を突かれる。そんな彼に気づかず、鈴蘭はさらに続けた。

「リシアがあんなに指輪を欲しがってたのに、裏切ってごめんなさい。リシアの思い通りに課題を終わらせられなくて、ごめんない」

「鈴蘭、なにを…」

 やっとそう言っても、目を固く閉じて俯いたままだ。リシアは掴んだままだった彼女の腕を、ゆっくり離しながら、彼女の顔の前に左手の甲を向ける。

「鈴蘭」と、彼はできる限り優しく言った。

「これ見て」

 そう言うと彼女はやっと、おそるおそると言った表情で目を開いた。久しぶりに、彼女の黒い瞳と目が合った。

「指輪、三つ揃った」

 鈴蘭が左手の指輪に目を向ける。その目が驚いたように見開かれた。そして彼女は息を飲む。続いて鈴蘭は、両手でリシアの左手に触れ、人差し指にはまった指輪をしげしげと眺めた。

「どうして…」溜め息が洩れるように、彼女が呟く。

「どうしてって、それはこっちが聞きたいよ。翡翠に告白しなかったのか」

 そう訊ねた口調が、自分でもおもわず乱暴になってしまった。鈴蘭は小さく肩を震わせ、俯いてしまう。

「私…」

「ごめん、強く言い過ぎた。でも、僕にもよくわからないんだ。僕は指輪を手に入れた。でも鈴蘭は、翡翠に好きだって言わなかったんだろ…?」

「私…」と、彼の言葉に、鈴蘭は俯いたまま小さな声で言った。

「課題の札、新年会に行く前に署名して出しちゃったの。新年会で翡翠に会っても、言わないつもりだったの。リシアの望みが叶わないってわかってたけど、出しちゃったのに…」

「どうして」

「それは…」と、 鈴蘭は俯いたまま途切れがちに言葉を続ける。

「私が翡翠に告白したとしても、どのみちリシアの希望通りの結果にはならないと思ったから」

「それって」

 リシアは彼女の顔を覗きこむ。けれど鈴蘭はますます俯いて、リシアから見えるのは黒い髪だけだ。彼女は言った。

「新年会の日に、気づいちゃったから。私が好きなのは、翡翠じゃないって」

 その言葉に、リシアの心臓が跳ねる。でも顔を反らしたままの鈴蘭は、もちろんそれに気がつかない。

「…万が一にも、翡翠に告白して、受け入れられたら耐えられないって思ったの。でも、新年会の間、翡翠とずっと一緒にいてわかったの。翡翠は私を嫌いじゃないけど、親切だけど、やっぱり特別に好きなわけじゃないって」

「鈴蘭、翡翠じゃない、きみの好きな人って?」

 そう訊ねると、わずかの間沈黙があった。それから彼女は弱弱しく首を振る。

「言いたくない」

 その声は今にも消え入りそうだった。

「誰なんだ…」

「それは私から言わなくちゃいけないの? 大事なことは、いつも私から言わなくちゃいけないの? 言いたくないの。翡翠よりももっとずっと、難しいから。だってその人は恋とか全然関心が無いし、私のことだって、課題の相手としか見てないんだもの。結果も聞かずに、本当にどうでもいいんだって、はっきりわかったわ」

 責めるような言葉が聞こえて、けれど反対にリシアは思わず笑い出しそうになる。鈴蘭が顔を上げないことを幸いと、自分の頬を押さえた。

「…翡翠を好きだったら、誰にもバカにされないって、言ってたのに」

 そう言うと、鈴蘭が思い切ったように顔を上げた。頬が上気し、目が少し充血している。今にも泣き出しそうだ。

「でも、仕方ないの。バカにされても、みっともないって言われても、好きになっちゃったのは仕方ないのよ、リシア。あなたには、わからないでしょうけど」

「そうでもないよ」

 リシアはそう言ってもう一度、目の前の鈴蘭に左手の指輪を見せた。

「本当は失敗すれば良いと思ってた。翡翠がきみに恋してるわけじゃないっていうのも、わかってた。指輪が手に入らなくても、その方が良いって思ってた」

 言葉の途中から、鈴蘭の目が驚いたように見開かれる。

「リシア、それって…」


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