<13>
学院に戻ってくると、ちらちらと雪が舞っていた。しばらく留守にした寮の部屋は冷え切っていた。
新年会は夕方からだ。
鈴蘭は念入りに、鏡の前で身支度していた。
ドレスは深紅。新年会に出ることを家族に話したら、母と妹がさすがに黒は止したほうが良いと言い、次に好きな色から自分に似合うドレスを一緒に選んでくれたのだ。それを父が買ってくれた。派手すぎず品のあるデザインだし、少し光沢があって、角度によっては黒っぽく見えるのも気に入ってた。
翡翠のこともリシアの課題のことも話していないけれど、家族の気持ちが詰まっているようで、心強かった。
メイクもいつもより、丁寧に時間を掛ける。目の周りは黒くするのが好きだけど、明るめに抑え、口紅の色をドレスの色に合わせる。軽く頬紅を乗せて、顔色がよく見えるようにした。翡翠にエスコートされるなら、自分といることで翡翠を笑い者にさせるわけにはいかない。
化粧濃いって思われたらどうしよう、と鏡の前で両頬を押さえて鈴蘭は一瞬不安になったが、この後、新年会の前にリシアに会うことになっている。彼の意見を聞いてから、直したって遅くない。
メッセージは送ってあった。
『準備ができたらいつでも。寮の部屋にいるから』と、いつもどおりの素っ気無い返事が返ってきただけだ。
鈴蘭は時計を見る。時間にはまだ余裕があるけれど、気持ちには余裕がなかった。早くリシアに会って、自分がどう見えるかを聞きたかった。
『これから寄る』と、リシアにメッセージを送り、もう一度念入りに鏡の前で自分の姿を確認した後、コートを羽織ると鈴蘭は自分の部屋を出た。
扉を開いて姿を現したリシアは、いつもよりめかしこんでいる鈴蘭に一瞬目を瞠り、それからすぐに困ったように笑った。
鈴蘭は一気に自信を失くす。年が明けてから初めて会うのに、挨拶もなしに、
「…やっぱりどこか変?」と、リシアに詰め寄っていた。
「変っていうか、ここ」
リシアは彼女を見て笑いながら、自分の眉間を指差す。
「顔が怖すぎ。せっかく可愛いのに、台無しだよ」
その言葉に、鈴蘭は肩で息を吐く。
「ほんとに? ほんとにそう思う? いつもみたいな、お得意の嘘じゃなくて?」
「ここで嘘ついても、なんの得にもならないだろ」
「一応、服装も見て」
そう言いながら鈴蘭はコートの前を開いた。夕暮れ時のせいで深紅のドレスは実際よりも暗い色に見えたけれど、それでも全身を眺めたリシアは頷く。
「似合ってる。黒い服じゃなくても」
「化粧、濃くない? 頑張ってみたんだけど」
「そのドレスには、丁度いいよ」
掌で自分の両頬を押さえた鈴蘭に、彼は言う。鈴蘭は頷くと、コートの前を閉めた。
それを眺めながらリシアが言った。
「心の準備はできた?」
「あとは運を天に任せるわ」
「なげやりにならないでよ」
鈴蘭はわずかに俯いた後、
「ねえ、リシア」と、顔を上げた。
じっと彼の目をみて、鈴蘭は続ける。
「今日の私、どう? もし今の私が、リシアのことを好きだって言ったら、リシアは私のことを好きになってくれる?」
リシアは鈴蘭を見下ろした。彼女は真剣な表情で彼を見上げている。彼は少しの間黙って、それからかすかに笑った。
「うん」と、彼は頷く。
「今日の鈴蘭は魅力的だよ。翡翠もきっと、鈴蘭のことを好きになる」
そう言われて、鈴蘭は笑った。でも、泣き出しそうに見えた。
「リシアはいつでも、嘘が上手いわね」
「嘘じゃないよ」彼は言った。
「どうしよう、覚悟を決めたはずなのに、やっぱり怖い」
「鈴蘭、冬休み前までの威勢の良さはどうしたのさ。今日は勇気を振り絞ってもらわなきゃ。僕の指輪のためにも」
「そういえばそうね。あと、新年おめでとう。今年もよろしくお願いします」
「新年おめでとう、こちらこそ今年もよろしく。ちょっと遅いけど」
「それどころじゃなかったわ」
鈴蘭は視線を彷徨わせてから、またリシアに向き直る。
「結果を報告した方が良い?」
「必要ないよ」と、リシアは首を振る。
それから良いタイミングだ、と彼女の渡すつもりだった札を差し出した。
「結果がどうあれ、これに署名して提出して欲しい」
「提出期間は明日からでしょ…?」
無地の札を受け取りながら、鈴蘭は彼を見上げる。リシアは首を振った。
「僕もそう思ってたんだけど、今日からだった。学院が始まるのが実質的に今日からだから、提出も受け付けてるんだって」
「そうなの…」
鈴蘭は札を手にしたまま、胸を押さえる。そして一瞬俯いてから、再び顔を上げた。
「それじゃあ、リシア、私、行ってくる」
「うん、成功を祈ってる」
リシアは右手を差し出した。冬休みの前に鈴蘭と指きりしたことを思い出したからだ。あの時戸惑ったのはリシアだったが、今度は鈴蘭の方がぽかんとしていた。でもそれは一瞬で、彼女はすぐに自分の右手を伸ばして、リシアの右手を握った。リシアが想像していたよりも、強い力でぎゅっと。
そして彼女の手が離れる。
「それじゃあね」
「札の提出、忘れずに」
鈴蘭はもう答えずに、軽く手を振るとリシアに背を向けた。
彼女の背中を見送りながら、リシアは目を細める。
『リシアはいつでも、嘘が上手いわね』
鈴蘭の言葉が、頭の中で響いた。
校内は既にちらほら生徒の姿が見える。みんな新年会に参加すると一目でわかる。鈴蘭と同じようにドレスアップしていたからだ。相変わらず雪が止まず、ひらひらと舞っている。積もるほどではないだろう。吐く息が白く広がった。
その寒さの中で、鈴蘭は自分の頬が熱くなるのがわかる。学生ホールに近づくにつれて、心臓が早鐘を打つ。翡翠は迎えに来てくれると言ったけど、断ってよかった、と鈴蘭は思った。とっくに覚悟を決めたはずなのに、ともすればこの場から逃げ出したくなる。
胸を押さえながら特別修練棟の脇を通り過ぎるとき、ふと彼女は足を止めた。
そして入り口に近づく。
『今日からだよ』
リシアの言葉が頭に響いた。ここ教室には課題の提出部屋があるのだ。鈴蘭は近づいて、入り口の扉を開ける。あっさり開いた。校内の華やかな雰囲気から遮断され、しんと静まりかえっている。それでも校舎の中に明りが灯っていた。
課題の提出部屋は一階のすぐそこだ。鈴蘭は無意識に鞄を触った。先程リシアから預かった札が入っている。何時間か後には、ここで札に自分の署名を入れて、札を出さないといけないのだ。それでリシアの成績が決まる。外の景色と校舎の中を交互に眺めて、鈴蘭はしばらくその場に固まった。
コートを預けた鈴蘭は、周囲を見回して翡翠の姿を探した。辺りを見回すと、今日はみんな煌びやかで、見慣れた校舎が違う場所みたいだ。我ながら完璧、とさっきまであれほど自身があった今日の装いも、いざ他の生徒たちの中に混じると途端に見劣りがするんじゃないかと、自信がなくなる。雪景色とも相まって、学園祭の時とはまた違った。
ただ、辺りに知り合いの顔は見あたらない。翡翠からメッセージが入っていたので、鈴蘭はホールを目指して、人の波をかきわけた。
「鈴蘭ちゃん」
人の向こうに翡翠の姿が見えた、と思った時、彼の方から先に名前を呼ばれた。そして翡翠がまっすぐに、自分に向かって近づいてくる。
翡翠が呼んだ相手が誰なのか注目が集まり、人垣が割れる。
胸が早鐘を打った。
翡翠は盛装している。暗いブルーグレーの三揃えが良く似合っていた。いつもよりずっと大人びて見え、翡翠じゃないみたいだ。彼に近づこうとするのに、足が動かない。
気がつくと目の前に翡翠が立っていた。
「新年おめでとう。今年もよろしく」
「こちらこそ、新年おめでとう」
それだけ言うのが精一杯で、けれど翡翠は小さく笑って、腕を差し出す。鈴蘭は一瞬なんのことかわからなかったが、すぐに気づいて彼の腕を取った。
周囲の視線が、翡翠を通り越して自分に集まっているのがわかる。
「今日は黒い服じゃないんだね」
「さすがに新年会には相応しくないって、家族に止められたの」
「でも、その色も似合ってる」
「ありがとう。翡翠の格好もとてもすてきよ」
翡翠が鈴蘭の顔を見て笑う。自分に向けられた笑顔に、気持ちが弾めば良かったのに、鈴蘭はどこか心の奥で冷静に、これから翡翠に告白するためにここにいるのだ、と考えていた。
そして、気がつくとホールの中央に立っていた。
いつの間にか翡翠の周りに、ルチルや流星や、顔見知りの女子たちの姿も集まってきている。目が合うとお互いに新年の挨拶をした。
舞台の上で学院長の短い挨拶が終わり、舞台の下に設えられた楽隊席の中で調弦の音がする。ちょっと古典的だが、これからホールはダンスの会場になる。パートナーがいないと参加できない、ちょっとした催しだ。
「踊りは好き?」
鈴蘭の手を取りながら、翡翠が訊ねる。
「ううん、あまり経験がなくて好きかどうかもよくわからないわ。翡翠と踊りたい女の子は山ほどいるでしょう、私のことは気にしなくても…」
「そうはいかないよ」
翡翠は彼女の顔を見て苦笑する。
「最初の二回は、おれと踊ってもらわないと」
そう言っている間にも、音楽が鳴り始めた。ダンスに参加する生徒たちが次々にホールの中央に並び始める。鈴蘭は翡翠と既にその中にいて、断る間もなかった。
翡翠と両手を繋ぎ、向かい合って立つ。そして動き始めた先頭の組から順々に、鈴蘭も踊りに加わった。
彼に支えられて慣れないステップを繰り返しながら、鈴蘭は夢みたいだ、と思う。
まさか新年会で、栄えある翡翠との最初の二回を、自分が踊っているなんて信じられなかった。入ってきた時からずっと、注目を浴びているのがわかる。
「明日から、どれだけ妬まれるかしら…」
思わずそう呟くと、間近で翡翠が笑った。
「鈴蘭ちゃんはいつもそうだね。自分のことは後回しで、人にどう思われるかを真っ先に考えてる」
「染みついちゃって直らないわ。翡翠みたいに、いつもみんなの中心にいる人にはわからないだろうけど」
「そうでもないよ。おれはただ、小さい頃からそういう環境で育ったから、慣れてるだけ」
「でも今日だけは、周りの目は忘れて楽しむことにするわ」
鈴蘭はそう言った。翡翠と目が合う。どことなく浮かない顔だ。人の多いところは苦手だと言っていたから、本当は心からこの状況を楽しんでいるのではないのかも知れない。
「リシアと来たかった?」
踊りの途中で再び顔が近づいた時、翡翠が訊ねる。
鈴蘭は驚いて目を瞠り、音楽も忘れて首を振った。
「リシアは来ないわ。なんでそんなこと」
「なんとなく、浮かない顔をしてるから」
自分が密かに思っていたことを言い当てられ、鈴蘭は戸惑う。それからすぐに、
「そんなことない。夢みたいよ、こんな私が、翡翠の隣で、みんなに注目されるなんて」 そうだ、この状況を作ってくれたのはリシアだ。彼はここにいないけれど、翡翠の隣でリシアのために、やらなくてはならないことがあるのだ。
リシアは指輪を欲しがっていて、そのためには課題を一番に提出する必要があって、札には自分が署名して出さなくてはならないのだ。
そう考えを巡らせて、鈴蘭は顔を上げる。気持ちに迷いがないわけではなかったが、自分自身を逃げられなくするため、鈴蘭は思い切って口を開いた。
「あのね、翡翠」
「なに」と、彼が顔を向ける。
「私、あなたに言いたかったことがあるの」
音楽が一際高く鳴り響き、ふたりの話し声は隣で踊る組にも聞こえなかった。
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