<10>


 秋休みが明けて授業が始まり、まず鈴蘭が直面したのは紫苑のよそよそしい態度だ。確かに彼女は、鈴蘭がサルビアたちの仲間に入ってパフォームに参加したことも、結果的に人気投票で五位だったことも快く思っていないみたいだった。さらに、パフォームのブースに、翡翠たちだけでなく、雷鳴と輝銀まで来ていたことも知っていた。どうやら相当噂になっているらしい。

 実際廊下でサルビアたちが、隣のクラスの芙蓉と一緒になって別の女子たちに嬉々としてその話をしているところも目撃してしまった。しかもその時、鈴蘭は紫苑と廊下を歩いていて、そして彼女たちは鈴蘭を一瞥しただけで、声も掛けなかった。

「学園祭、楽しそうで良かったわね」

 昼休みに、黙りがちに食事をしながら紫苑が言った。

「そうでもなかった、私ももっと楽しいかと思ってたんだけど。さっきの見たでしょ、サルビアたち、声も掛けてこなかった」

「でも、楽しかったんでしょ。ずいぶん噂になってるもの」

「そうなのかな」

「そうよ」

 紫苑はそう言ったきり黙ってしまう。気まずい沈黙が続いた。今の鈴蘭が何を言っても彼女の気持ちを変えて、元通り仲良く会話を弾ませるのはできそうになかった。

「鈴蘭だけ得ね」と、食事を終えて盆を片付けていると彼女は言った。

 鈴蘭は紫苑を見る。彼女は目を反らしたまま、

「三年生の課題に協力してくれなんて、選ばれて」

「別にそんな…」

 そういう前に、紫苑は、

「先に行くね」と、言って行ってしまった。鈴蘭は立ち尽くす。

 教室に戻ろうかどうか迷っていると、

「鈴蘭」と、後ろから声がした。振り返るとバレリアンが近づいてきた。

「良かった、探してたの」

 彼女は近づくと、持っていた袋を差し出す。

「バングルありがとう。片付けの時に返しそびれちゃってたから」

 学園祭の日に貸していたコウモリのモチーフつきのバングルだ。どういたしまして、と鈴蘭はそれを受け取る。話は終わりかと思っていると、

「ねえ、鈴蘭は三年生の期末課題に協力してるって、ほんと?」

 唐突にそう訊ねられ、鈴蘭は頷く。

「それ、すごく良い! ねえ、私にもその人を紹介してくれない? 私も課題のこと聞きたい!」

「あの、でも」

 バレリアンの嬉しそうな様子に、鈴蘭は言葉に詰まる。リシアの課題が翡翠との恋に協力することだとは誰にも言ってないし、リシアからバレリアンに言われても困る。

「私も課題の内容を詳しく知ってるわけじゃないの…。なんとなく手伝ってるだけで」

「それなら私にも手伝えることがあるってこと? それに、なんとなくでも課題のこと知りたい! 三年の期末課題って、人によっては変なのが出るって話でしょ? わたし、そうなりそうな気がするし。鈴蘭の知り合いの人じゃなくても、期末課題の手伝いができる三年生がいたら、紹介してもらえるかも知れないし」

「…リシア、あんまり友だちがいないから、それはわからないけど」

「だめでも良いから、一応言ってみて? 鈴蘭から言いにくかったら、私から訊くからアドレスだけ教えて?」

 そう言われても、リシアのアドレスを勝手に教えるわけにも行かないし、けれど彼女の気迫に、きっぱりと断ることもできない。鈴蘭は曖昧に頷いた後、ちらりと頭に掠めた学園祭の光景を思い出し、

「ルチルじゃなくていいの?」と、訊いた。

 バレリアンが一瞬で真顔になり、そしてすぐに顔を曇らせる。

「ほんとは、だったら良いんだけど、今のところわたし、全然相手にされてないんだもん。絶対、振り向かせて見せる」

 そう言ってバレリアンは拳を握ってから、じゃあねまた連絡して、と笑顔に戻って手を振った。

 彼女を見送りながら、鈴蘭はまた小さく溜め息をついた。



 秋休み明けからまた作戦を立てるといっていたのに、またもリシアからは音沙汰なしだ。バレリアンに言われたことも聞きたかったので、鈴蘭からは何度が連絡をいれたけれど、ちょっと別の用事があるから、また今度、という返事が返ってきただけだ。

(なによ)と、鈴蘭はひとりで不満に思う。

(リシアの課題を手伝ってるって言うのに)

 授業が始まってから一週間。十一月も半ばを過ぎて折り返し地点だ。放課後、帰ろうとした時に、前から翡翠が来るのがわかった。

 声を掛けて挨拶したものか、と迷っていると、翡翠の方でも彼女に気がつき、手を振って彼女の気を惹いた。

「鈴蘭ちゃん」

 翡翠が足早に近づいて来る。足を止めて彼の近づくの待っていたが、ここは校内だ。内心ではまた誰かに、一緒にいるところを見られて変な嫉妬を買ったらどうしようか、という気持ちが一瞬よぎった。

「今、二年の教室に行こうと思ってたんだ。すれ違わなくて良かった」

「私を探してたの?」

 うん、と翡翠は頷いて、持っていた鞄の中から封筒を取り出すと、彼女に向かって差し出した。それを受け取ろうと封筒に触れると、翡翠はかすかに苦笑して、

「急で悪いんだけど、良かったらおれの誕生会に来てくれない。これは招待状」

 と、彼が言った。鈴蘭は驚いて思わず手を引っ込めてしまった。

「私じゃ畏れ多いわ…」

「そんなことないよ。それに、おれがやりたいわけじゃないんだ」

 翡翠が笑いながら言って、封筒を突き出したので、鈴蘭はなしくずしにそれを受け取る。

「友だちがやってくれるんだけど、皆で集まって騒ぎたいだけだよ。でも、おれのための誕生会って言われると断れなくて。内輪ならいいんだけど、友だちの友だちとかけっこう来るから、ほんと言うとちょっと苦手」

「そういうとこ、実はリシアに似てるわよね」

 鈴蘭も苦笑する。翡翠が曖昧に首を傾げた。

「でも、リシアだったら、もっとはっきり断るけどね」

「誘ったの?」

「うん、一年の時にね」と、翡翠は頷く。

「呆れられて、二度と誘うなって言われたよ」

 鈴蘭は招待状の封筒を鞄にしまいながら、わざと言った。

「この招待状、プレミアがつきそうよ。欲しがる女の子がどれだけいるか」

「転売されたら傷つくなあ。でも、友だちも誘って」

「私もあんまり友だちいないけど」と、紫苑の顔を思い浮かべながら、彼女は言った。

 翡翠が笑う。

「無理に来なくてもいいけど、あ、あつかましいけど念を押しとくと、プレゼントは要らないからね。集まるのがプレゼントってことになってるから」

「わかった」

「ああ、そうだ」と、さらに翡翠は思い出したように、自分の端末を取り出しながら言った。

「連絡先も教えてとくよ。今さらだけど、友だち誘ったり、来れなくなったりしたら教えて」

 そう言われて、鈴蘭は連絡先まで交換してしまった。翡翠と別れたあと、招待状も翡翠のアドレスも、とんでもないものを貰ってしまった、と鈴蘭はひとり眩暈がした。

 それなのに、心はそれほど弾まなかった。



 招待状をもらったことを、誰にも話さずにいることは出来なかった。それなのにリシアにメッセージを送っても、ろくな返事が来ない。

 行こうか行くまいか迷って、鈴蘭は結局紫苑にそれを打ち明けてしまった。

「翡翠の誕生会に誘われたんだけど、紫苑、一緒に行かない?」

「行くわけないでしょ」

「でも、翡翠とかのグループに興味があるって言ってたのに」

「上から目線で偉そうに言わないで」

 紫苑が強い口調で言った。

「鈴蘭は良いよね、リシアの課題の協力者に選ばれて、そのおかげで翡翠と親しくなって、誕生会にまで招待されて。目立つグループにも誘ってもらって、そういうこと話して私のこと見下して楽しい?」

「そんなつもりじゃ」

「そんなつもりじゃないなら何? そこが余計にムカつくんだけど」

 そう言われてしまった。

 鈴蘭は嬉しいと言うより、困って紫苑に相談したつもりだったけれど、紫苑にしてみればもう何度目かわからない鈴蘭からの自慢で、そして彼女の気持ちを踏みにじってしまったのだ。

 それがわかったので、封筒の中の紙切れは、渡されて三日後にはひどく重たいものになっていた。

 はっきりと行きたくないわけではなかったが、学園祭のパフォームに誘われた時のような高揚感はなかった。翡翠本人だっていまひとつ気乗りしていないみたいだったし、行ったところで人が多く、翡翠と話せるかどうかも怪しい。誕生会が迫る頃になっても、鈴蘭は出かける気にならず、二日前に招待状はバレリアンにあげてしまった。

 もちろん翡翠にもちゃんと連絡した。用事でいけなくなってしまったから、学園祭で一緒だった友だちに渡したと。彼女はルチルのことが気になってるみたいだ、と言い訳のように付け加えると、翡翠は予想通り、快くそれを受け入れてくれた。



 誕生会は日曜日だった。寮の部屋で半ば空ろな気持ちで教科書や参考書を広げていたが、考えるのは翡翠の誕生会のことと言うより、リシアのことだった。

 申し訳ないことをした、という気持ちが消えなかったのだ。

 課題に協力してほしい、というリシアの気持ちを裏切ってしまった。

 そう思っていると、端末が震えた。画面を見る。リシアだ。音声通話だったので通話アイコンに触れて、端末を耳に当てる。

『鈴蘭? リシアだけど。今どこ』

「寮の部屋にいるけど…」

 明らかに不機嫌そうな声に、鈴蘭も仕方なしに答える。

『ほんとに行かなかったんだ。翡翠の誕生会』

「行かなかったわ。気が乗らなかったの」

『どうして、千載一隅のチャンスだったのに』

 怒ったようなリシアの声が聞こえてきて、鈴蘭の方もその態度に腹が立った。

 課題に協力して欲しいと言ってきて自分から翡翠に近づけて、それが最近じゃほったらかしだ。いったい自分に何をさせたいのだろう。

「気乗りしないから行かなかったの。リシアにとやかく言われることじゃないわ」

『課題の成績がかかってるんだよ』

「リシアのでしょ。私のじゃないわ」

『鈴蘭…』

 端末の向こうでリシアの溜め息が聞こえた。それがさらに不愉快で、鈴蘭はいっそ通話を切ってしまおうか、と端末を耳から離す。けれど続いて、

『鈴蘭、ごめん、悪かった』と、リシアの声が聞こえた。

 彼女は再び耳に端末を戻す。

『鈴蘭?』

「聞いてるわよ」

『今からちょっと会えないかな』

「…どうして」

『直接話がしたいから』

 鈴蘭は一瞬迷った。でも、すぐに、

「わかった」と返事する。

 近所の公園に待ち合わせ場所を決めて、鈴蘭もすぐに家を出た。公園にたどり着くと、リシアがもうベンチに座って待っていた。まだ日の明るさが残っているが、もう街灯がついている。鈴蘭の姿に気づくと、リシアは無言で自分の隣を指差した。鈴蘭はゆっくり近づくと、彼の隣に腰を下ろす。黒いコートを着込んできたけれど、やはり肌寒い。

 リシアは隣で彼女の顔を眺めて、何かを話し出そうとして、すぐに口を閉ざす。それを何度か繰り返していた。

「翡翠の誕生会だけど、翡翠もあんまり気乗りしないって言ってたわ。ほんとは人がたくさん集まるところ、好きじゃないのよね、翡翠も」

「うん、でも翡翠はそういうの、慣れてるんだろ」

 リシアがやっと口をきいたので、鈴蘭は一度深く息を吐いてから、彼の方へ向き直った。

「リシア、怒ってる? 私がせっかく招待された翡翠の誕生会に行かなかったから」

 そう訊ねると、彼は怒ったような困ったような複雑な顔をする。それから首を振った。

「僕が決めることじゃないよ。鈴蘭が行きたくなかった、って言うなら、仕方ない」

「ずいぶん弱気ね。電話でも課題課題って言ってたくせに」

「うん」

 リシアは両手を組むと背中を丸めて前を向いた。

「課題、諦めたの?」

「そんなわけないだろ」

 すぐに強い口調でリシアの言葉が帰ってきた。

「ただ、きみが直接翡翠とやりとりできるなら、僕が協力するって言っても、もうやることがないなって…」

「あるわよ、たくさん。リシアがやってくれないだけで」

 鈴蘭が不満そうに言うと、彼の方も不本意そうに、

「なにがさ」と、鈴蘭を見た。

「翡翠と親しくなると、周りの人から妬まれたり利用されそうになったり、気苦労が多いの。どうしたらもっと翡翠といるのが楽しくなるか、一緒に考えてよ。招待状を渡される時、学校で声を掛けられたんだけど、誰かに見られてまたおかしな噂を立てられるんじゃないかと、気が気じゃなかったわ」

「なにかあったの?」

 ベンチの背にもたれて、リシアが鈴蘭の顔を覗きこむ。このほんの少しの時間で、辺りはすっかり暗くなっていて、ベンチの横に立つ街灯の白い明りが眩しいほどだった。

 鈴蘭はぽつぽつと学園祭のことと、紫苑の反応を話した。

「お互い友だちも少ないから今も一緒にいるけど、なんだか前より、よそよそしい感じがして」

 リシアは途中から自分の膝で頬杖をついて聞いていた。

「きみの好きな人と、きみが親しくなることを妬むような友だちなら、それは友だちとは言わないんじゃない」

「前から言ってるけど、リシアみたいに簡単に割り切れないわ」

「僕だって割り切ってるわけじゃないよ」

「でも、翡翠に誘われたって学園祭も来ないし、誕生会だって行かないでしょ。友だちと上手く付き合っていこうって気持ちを感じないわよ」

「翡翠はそんなことで僕を嫌ったりしないよ」

「まあ、そうだろうけど…」

 鈴蘭は俯く。

「あのね、わからなくなってきちゃったの。リシアに声をかけてもらって、それからほんとに翡翠と親しくなれて、最初は嬉しかった。だけど、紫苑はそれが気に入らないみたいだし、他の女子からは妬まれるし、私と翡翠は不釣合いだってみんなが思ってる気がして、自信がなくなっちゃったの」

「…だから誕生会にも行かなかった?」

「と、言うよりも…」

 言いながら鈴蘭は自分でも無意識に首を傾げる。

「私はなんで翡翠が好きだったのかな、って考えちゃって…」

「さすがにそれは僕に言われても困るよ。去年の委員会で一緒だったとか、服を褒められたとか、いろいろ言ってたじゃないか」

「うん、そうなんだけど…」

 鈴蘭はそう言ったきり、しばらく黙った。彼女が自分の膝を見つめたまま、何か言いたそうにしているのはわかったので、リシアも黙って彼女が話し出すのを待つ。やがて鈴蘭がぽつりと独り言のように。

「学校に入りたての、初等科の頃なんだけど」と、口を開いた。

 突然の話題に、リシアがなんと言おうか考える前に、彼女はさらに続ける。

「初恋の男の子がいたのよ。めがねを掛けてて、色白で小太りで、電車とか大型の車みたいな乗り物が大好きで詳しくて、でも意地悪とか全然しなくて、大好きだったのよ。初等科だから六歳とか七歳の頃だし、別に付き合うとかじゃないから、ずっと好きだったし、けっこう仲が良かったんだけど」

「うん?」

 話が掴めずに、リシアはかろうじて頷く。けれど彼を気にする様子もなく、鈴蘭は前を向いたまま続けた。

「で、そのくらいの年齢でも、クラスで誰が誰を好き、とかいう話になるじゃない」

「うん」

「で、私がその男の子のことを好きだって言ったら、ありえないって言われたの。あんな太ってて電車にしか興味がない奴、好きになるなんておかしいって」

「うん…」

 なんと答えて良いかわからずに、リシアはさらに頷く。鈴蘭は小さく溜め息を吐いた。

「その時は気づかなかったんだけど、すごくショックだったの。好きになる相手によっては、バカにされるんだって。その男の子は二年の終わりに、隣町だったけど転校しちゃってね、端末なんて持ってないから、手紙が来たんだけど、私、返事を書けなかった。文通してるのがばれて、バカにされるのが怖くて」

 そう言ってまた一息つくと、鈴蘭はやっとリシアの方へ顔を向けた。

「翡翠と初めて喋った時、変な話だけど、この人なら好きになっても誰にもバカにされないって思ったわ。委員会で一緒になる前から有名人で知ってたし、実際に親切だし、翡翠を好きな女子が、自分以外にもたくさんいるってわかってたから」

「ちょっと待って」

 鈴蘭の言葉に、流石にリシアは眉を顰めた。

「それって、本当は翡翠のことが好きじゃないってこと?」

 けれど鈴蘭は首を振る。

「好きじゃなくないわ。私にあんな風に接してくれる人、他にいないもの」

 鈴蘭はそう言って、リシアから顔を反らすと空を見上げた。

「だけど翡翠を好きだったら、確かにバカにはされないけど、でもむしろ誰も羨ましがらないような人を好きになったほうが、バカにされるかも知れないけど、友だちに嫌な思いさせずにすんだかも知れないって、思って」

「自分の気持ちは後回し?」

「そうだったらな、って話よ。実際には、もう紫苑を怒らせちゃったわけだし」

 鈴蘭はそう言って肩を竦めると、リシアに視線を向けた。

「学園祭で、目立つグループの中に入って、ほんとに翡翠も、彼だけじゃなくて友だちも、先生たちも来てくれて、ほんとに人だかりができて、その中心に自分がいてって、なって」

 鈴蘭は笑って見せようとしたが、上手くいかず顔が歪んだ。

「でも、憧れてたはずなのに、自分で期待してたより楽しい気持ちにならなくて、自信がなくなっちゃったの」

「翡翠に好きになってもらうのに?」

 鈴蘭は頷く。

「今だってこんなに気後れしてるのに、これでもし、本当に、万が一、私が翡翠に好きになってもらうことがあるとすれば、どれだけ嫌な思いすることになるのかしらって」

 リシアはわずかの間、彼女を眺めて、

「僕の課題に協力するの、止めたい?」と、訊ねる。

 けれど鈴蘭はすぐに首を振って答えた。

「リシアの課題には協力したい。リシアの成績、ちゃんと評価されて欲しい。でも、私じゃそれに不足な気がして。課題の相手が私じゃない女子だったら良かったのに、今日みたいにリシアの足を引っ張るようなことをしない女子だったら良かったのにって、申し訳なくて」

「それは…」

 リシアが言葉を続けられずにいると、鈴蘭が再び彼の方を向き、しっかりと目線を合わせて言った。

「ごめんねリシア。指輪、ちゃんと手に入れてご両親に報告したいわよね。ずっと頑張ってて成績優秀で、自慢の息子だものね」

 そう言うとリシアは不意を突かれたように目を瞠る。鈴蘭は何気なく言っただけだったので、その表情が意外だった。なにかまずいことを言ってしまったのだろうか、と思っていると、彼がゆっくりと首を振る。

「僕の両親は、僕が指輪を三つ揃えることなんて望んでないよ。むしろ知ったら嫌がると思う」

 え、と今度は鈴蘭が目を瞠った。翡翠から聞いた話では、確かリシアの父親がこの学院出身で、彼が指輪を揃えていたから、リシアもそれに憧れて指輪集めに執着してるのだと言っていた。それなのに。

「知らないの?」

「うん」

「リシアがこんなに頑張ってるのに?」

 里帰りもせずに、勉強しているのに。

「うん」リシアが頷いて、けれど目を反らした。

『なにか事情があるのかもね』

 唐突に、鈴蘭は翡翠の言葉を思い出した。

「でも新年は、実家に帰るんでしょう?」

 リシアは秋休みに帰省しなかった。でも、それはさして珍しいことじゃない。けれどこれから訪れる冬休みは年越しをまたぐので、ほとんどの生徒が寮を離れて故郷へ帰る。

 鈴蘭も当然帰るし、少なくとも彼女の周りに、冬休みに寮に残る生徒なんていない。

「実家なんてないよ」

 淡々と、リシアは言った。鈴蘭は思わず俯いて、

「あの、ごめんないさい…。事情も知らないのに、勝手なこと言って」と、呟く。

 彼女の申し訳なさそうな表情にリシアは苦笑して、

「なにを想像してるか知らないけど、両親はふたりとも健在だよ」と、言った。

 予想に反した言葉に鈴蘭は顔を上げる。

「なのに帰らないの?」

「事情があるんだ。気になる?」

「別に、無理に聞こうとは思わないけど…」

 リシアが小さく笑って、ベンチに手をつくと足を組んだ。

「僕は十歳まで父さんに育てられたんだけど、母さんはおれが十歳の時に出て行って、今は本当の父親と暮らしてる」

「それって…」

「父さんは僕が十歳になるまでずっと、僕を本当の子どもだと思ってたみたい。母さんは結婚してる間も、僕の本当の父親と切れてなかったみたいなんだ。事情なんか知りたくもないから、詳しく聞いてないけど。父さんは騙されてたんだ。十年だよ。男だったらどれほど屈辱か、僕にだってわかる」

 彼はそう言って、顔を背ける。

「僕の顔なんか、見たくもないって言われたよ」

「リシアのせいじゃないのに…」

「そうだけど、父さんにしてみたら同じことだよ」

 何か言おうと鈴蘭は口を開いたが、続ける言葉が見つからない。

「母さんは、家族三人で一緒に暮らそうって言ったんだ。本当の父親にも会ったことあるよ。でも、なんだか…」

 そう言いながら彼は目を閉じる。

「父さんに、申し訳なくて。すごく大事にしてくれたから」

「お父様が、大好きだったのね」

「さあ」と、リシアは首を傾げる。

「わからない。小さかった頃のことで、もう忘れちゃったよ」

「今は会ったりしてないの?」

 リシアは黙って頷く。その顔がわずかに歪んだ。

「してないよ」

 しばらく沈黙があった。重たい沈黙で、やがて鈴蘭はそれに耐え切れず、

「ごめんなさい」彼女はそう言ってから、リシアを見る。

「辛い家庭の話を聞いても、私にはよくわからないの。だってうちの家族、すごく仲が良いんだもん。パパもママも、妹のことも私、大好きなの。でも、リシアがとても辛かったってことはわかるわ」

 だから、と鈴蘭はそっと、リシアに顔を寄せて囁く。

「泣いてもいいわよ。誰にも言ったりしない。内緒にするって、約束する」

「きみは本当にバカだな」

 彼はそう言って鈴蘭から顔を背けた。

「ちょっと、バカってなによ。これでも感覚力の成績はリシアより上よ。リシア、二年の中間の時の成績、いくつだった」彼女が不満そうに言う。

「B」

「私はAよ」

 そう言って睨むと、リシアは苦笑する。そしてこまったように、

「でも、やっぱりバカだよ。だって僕」

 そう言って彼は目を伏せる。

「泣いたりしないよ」

 その横顔を見て、鈴蘭は小さく笑った。

「リシア、ごめんね。でも、話してくれて良かったわ。これからはもっと積極的な気持ちで、あなたの課題に協力する」

「そうしてくれると助かるよ」

「友だちがどうとか、他の女子にどう思われるかと、怖がらない。翡翠が好きだって気持ちを優先する」

「そんなに簡単に切り替えられる? さっきまであれほどくよくよしてたのに」

「指輪と、お父様のこと聞いたから」と、彼女は答えた。

「リシアはいつも課題だ課題だって言って、自分の成績のことばっかりでなんて勝手なんだろうって腹が立ってたけど、よく考えたら、リシアだって好きで私を相手の課題を選んだわけじゃないんだって、気づいて。それでも指輪が手に入れたいのよね」

「うん。でも、ずいぶん切り替えが早いね」

「長所でしょ」

「そうかなあ」

 首を傾げたリシアに、鈴蘭は笑って頷く。そして左手の拳を握って見せた。

「リシアが指輪、手に入れられるように頑張るわ。招待状を渡された時に、連絡先も交換したのよ」

「そりゃすごい。っていうか、もっと早くそうしとけば良かったね」

「そうなのよ、リシアから話を通してもらってたから、今まで必要なかったしね。でも、これからは違うわ」

「頼もしいよ」

 リシアはどこか寂しそうな目つきで鈴蘭を見る。でも彼女はそれに気づかなかった。

「ああ、寒くなっちゃった」と、鈴蘭は言って立ち上がる。

「どこかでごはん食べて行きましょうよ」

 辺りはすっかり暗くなっている。身体も冷えてきた。

「ぼくは貧乏学生だよ」

「私だってそうよ」と、鈴蘭が笑うと、

「しょうがないな」と、リシアが頷いて立ち上がった。

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