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 その週には学園祭の委員会やイベント内容が発表され、さらに同じ週の間に生徒は参加先を決めなくてはならない。リシアに呼び出されることも、顔を合わせることもなかったので、鈴蘭は紫苑と示し合わせて、去年と同じで研究発表にすれば良いかと、漠然と考えていた日の、休み時間だった。

「鈴蘭」

 目を向けるとサルビアが近づいてくる。翡翠のことで上級生に呼び止められたことを尋ねられて以来、彼女とは話をしていない。

「サルビア、どうしたの」

「ねえ、鈴蘭、最近よくあの人といるよね」

「あの人?」

 言われて最初の頭に浮かんだのはリシアだ。試験前はほとんど毎日、そんなに長い時間ではないが、放課後は一緒にいた。続いて翡翠。だがこれは思い浮かべた後、ちょっとおこがましいと感じた。長く過ごしているのは紫苑だが、紫苑だったらサルビアは声を掛けてきたりしないだろう。

「ほら、上級生の」

 サルビアははっきりと名前を言わない。鈴蘭は少し困ってから、

「リシアのこと?」と訊ねる。

 サルビアが悪戯っぽく微笑んで頷く。

「昨日も一緒にいたよね。付き合ってるの?」

 突然来た。確かに、成績発表の日は浮かれていて、図書館の中とは言え、自分から声をかけてしまった。でも、あながち心の準備が出来ていないわけでもなかった鈴蘭は、静かに首を振った。

「前にも話したわよね。期末課題を手伝ってほしいって言われて、協力してて、その三年がリシアなの」

「それほんとなの? 期末課題にしては早くない?」

 今度は鈴蘭も頷く。

「一番に出したいんだって。申請も課題が出されるのも学年で一番早くて、それで私に、課題を手伝って欲しいって言われたの」

「それ、引き受けちゃったの? 課題ってどんな内容? どうしても鈴蘭じゃなきゃダメだったの?」

 サルビアは疑り深そうな目を向ける。

「私も詳しくは教えてもらってないから、なんとも言えないんだけど…」

 と、ここだけ鈴蘭は誤魔化すように嘘をついた。自然に目線が逸れる。

「教えてもらってない? ほんとなの? それって、課題なんて嘘で、やっぱり鈴蘭に近づこうとしてるだけじゃないの?」

「それはないと思う」

 紫苑にも同じことを言われたのを思い出しながら、鈴蘭は首を振る。

「そうよね」

 今度は悪戯っぽいを通り越して、あからさまに意地悪そうな表情でサルビアが頷く。 「もしそうだとしても、あんな奴はないよね。暗いし変なカッコだし、首席の指輪をいっつもつけて見せびらかしてるのも、すごい嫌な感じよね。いくら翡翠の友だちだって言ったって、みっともないものね」

 笑いながら言った言葉に、鈴蘭は自分でも覚えず胸を抉られるように痛んだ。自分の悪口を面と言われた時より、もっとずっと。

 けれどそんな鈴蘭の心の動きに気づくはずもないサルビアは、こんどこそ無邪気な笑顔を浮かべて言った。

「それよりも鈴蘭。学園祭、私たちのパフォームに協力してほしいの。メンバーの中に、一緒に入ってくれない?」

 思ってもみなかった言葉に、鈴蘭は目を丸くした。すぐには彼女の言葉が理解できなかったほどだ。

「どうして」

 かろうじて出てきたのはその言葉で、鈴蘭にはこれが精一杯だった。サルビアが笑う。

「最近、そのリシアって上級生だけじゃなくて、翡翠とも一緒にいるでしょ」

 彼女は両手を重ねて頬に触れる。

「当日のパフォーム、観に来てくれるよう、声を掛けてくれない?」

「翡翠はリシアの友だちで、私とは…」

「だったらそのリシアに頼んでみたらいいんじゃない?」

「だめかも知れないけど」

「そんなこと言わないで。可愛い女の子たちが、精一杯のパフォームでおもてなしするからって、頼んでみてよ。お願い」

「それはそれとして、サルビアたちのパフォームに私が協力する必要はなくない? いつものメンバーでやるんでしょう」

 気乗りしないような彼女の言葉に、サルビアは一瞬だけ顔を顰める。

「でも鈴蘭がただ声を掛けるより、実際に鈴蘭がお店にいた方が、翡翠が来てくれる確立が高くなるでしょ。ううん、最悪、翡翠じゃなくても、翡翠の友だちでも全然いいわ」

 最悪なのか全然良いのか鈴蘭にはわからなかったが、とにかくサルビアが、自分が参加して翡翠に声をかけ、彼を店に連れ出したいのだということだけは、痛いほどわかった。

 でも、気乗りするはずもない。ダメ押しに鈴蘭は、

「でも、他のメンバーはどう考えてるの? いつも一緒のグループに、突然私が混ざったら、嫌な気持ちになるでしょうに」

「あー、それは平気。翡翠を呼べるなら、その方が良いって皆言ってるから」

 鈴蘭は返事に困って固まった。本当か嘘かわからないが、予想外の答えだった。

「それにね」と、サルビアはまたにっこりと彼女に笑いかける。

「私たちのパフォームのお店のテーマはね、『魔女の研究室』なの。鈴蘭にも、ぴったりでしょ」

 不覚にもその言葉を聞いて、鈴蘭は心が動いた。そして足下に視線を向ける。

 今日もいつもの黒い服だ。別に魔女になりたいとか、憧れているわけじゃないけれど、そういうの、大好きなのだ。



「本気で言ってるの?」

 昼ごはんを終えて、食器を重ねた盆を挟んでサルビアとの話をすると、紫苑は信じられないという顔つきで鈴蘭を覗き込んだ。鈴蘭は曖昧に首を動かす。

「『魔女の研究室』って、ちょっと憧れるな、と思って…」

「そんなの、鈴蘭が想像してるのとは全然違うに決まってるよ。あいつらは軽い気持ちで選んでるだけなんだから」

 彼女の黒い服を眺めながら、紫苑は強い口調で言い返す。

「私、形成術の成績上がったし、コンセプトが『魔女の研究室』なら、それなりのことができると思うんだけど」

「参加するなんて言ったら、やっぱり嘘だとか言って、影で私たちのことバカにするに決まってる」

「でも、ほんと言うとね」と、鈴蘭は不服な様子の紫苑を見て、小さく溜め息を吐く。

「ちょっと憧れてた気持ちもあるのよ。ああいう華やかなグループに入って、学園祭で目立つパフォームをするって」

「信じらんない」

 紫苑が顔を顰めたまま、盛大に溜め息をついた。

「華やかだけど、サルビアたちは自分が目立つことと、男のことしか考えてないよ。鈴蘭は翡翠のことで利用されてるだけじゃない」

「紫苑も来ない?」

「私は絶対に嫌」

「…私、参加しても良い?」

「なんで私に許可を求めるの? 自分で決めてよ」

 そう言って向けられた紫苑の視線は、不機嫌を通り越して完全に怒りに満ちていた。

 だからこうやって相談してるのに、と鈴蘭は思いながら、

「…うん」と、頷く。けれどこの頷きが、さらに紫苑を苛立たせたようだった。

「だからって、本気でサルビアたちのパフォームに参加したら、それこそ軽蔑するけど」

 そう言った紫苑の目つきはいつもより鋭いままだった。



「で、それをなんで僕に相談するの?」

 リシアは心底呆れた、という気持ちを隠そうともしない表情を鈴蘭に向けた。

 話だけは黙って聞いてくれていたから、もうちょっとなにか言ってくれるかと予想していた鈴蘭の期待はみごとに外れた。

「だって、他に相談できる人、いないし…」

 いつもの図書館の学習室で、サルビアの誘いと紫苑の言葉、そして自分の気持ちにどう折り合いをつけていいかまったくわからなくなった鈴蘭は、藁にも縋る思いでリシアを呼び出し、パフォームの誘いを受けたことを話した。

 なのに結果は、彼の呆れた表情だ。

「私はリシアの課題に協力してるんだから、たまには私の相談に乗ってくれてもいいのに」

 言いながら鈴蘭は項垂れる。リシアはその様子を見ると、いくらか姿勢を正して、

「やりたいなら参加してみたらいいじゃないか。友だちの言うことなんて気にせず」

「でも、紫苑は友だちで、サルビアたちのグループは同じクラスだけど、友だちとは言えないのよ。私がのこのこ参加するなんて言ったら、やっぱり影でサルビアたちにこそこそバカにされそうな気もするし」

「じゃあ、止めとけば」

 付き合いきれない、と言った表情で、リシアはつまらなそうに答える。

 鈴蘭はここで話を終わらせてなるものか、と、彼の方へ身を乗り出した。

「ねえ、リシアも軽蔑する? 目立つグループの女子たちに私が混ざってパフォームに参加したら、調子に乗ってるって思う?」

 彼は視線を鈴蘭に向けて、ちょっとだけ考え込んでから、

「きみの言ってること、変だと思うけど」と、言った。

 鈴蘭が首を傾げると、リシアは続ける。

「さっきから、友だちがどうとか、陰口がどうとか、僕に軽蔑されるかされないかとか、きみはどう思ってるのさ、鈴蘭。パフォームに参加したいの? したくないの?」

 その言葉は鈴蘭の不意をついた。彼女は思わずリシアを見つめる。

「そこは、ちゃんと考えてなかったかも…」

「じゃあ、まず、どうしたいのか考えて、答えを出して」

 鈴蘭は黙った。リシアも何も言わず、彼女を眺めている。鈴蘭はひとりで眉間に皺を寄せたり溜め息を吐いたりしてから、間もなくぽつりと口を開いた。

「やってみたい、かも」

 研究発表だって嫌じゃない。準備日と学園祭と、それに続く秋休みに学校に来なくていいのも嫌じゃない。でも、その一方で学園祭に積極的に参加してみたい気持ちも、確かに自分の中にあった。鈴蘭はそれを見つけてしまった。

 リシアはその言葉を聞いて、小さく笑う。

「派手な女子たちのパフォームだって? 衣装はラメ入りのミニドレスかな。黒い服は着られないね」

「それが大丈夫なの。コンセプトが『魔女の研究室』だから。たぶん魔女っぽい服になると思う」

「じゃあ、迷うことないじゃないか。嫌になったら当日なり前日なり、言い訳して出なきゃいいだけなんだから。深刻に考えるようなことじゃないよ」

「私はリシアと違って、小さな嘘だったらついてもいいって、軽く考えられないのよ」

 そう言いながらも鈴蘭は、リシアの言葉で自分の気持ちが固まっていくのがわかった。やってみて、だめだったらやめれば良い。嫌な思いをするようなら、途中で脱けたっていいいのだ。だって、ただの学園祭の中の模擬店のひとつにしか過ぎないんだから。

「それに…」と、表情の変わった彼女を眺めて、リシアが口を開く。

「僕にとってもきみが参加したほうが得かな。そのサルビアって娘は、要するにきみをだしに翡翠とか、ルチルや流星も呼べたら良いって思ってるんだろ?」

「うん、そしてあわよくばお近づきになりたいと思ってるだろうけど」

 リシアが笑う。

「学園祭期間中は、きみたちを会わせる機会がないと思ってた。パフォームに参加して、翡翠と会えるなら、その方がずっと良いよ」

「ほんとに課題のことしか考えてないのね…」

「じゃあ、なんて言って欲しいのさ。きみはサルビアたちのグループに混ざっても、全然見劣りしないよ、って?」

「社交辞令は結構よ」

 きっぱり言うと、リシアがまた笑った。それなら話は決まりだね、と彼が言って帰り支度を始める。椅子から立ちながら鈴蘭は、

「翡翠は参加するかしら?」と、訊ねた。リシアは軽く頷いて、

「それくらいは僕が聞いとくよ。委員会やイベントに参加しなくても、たぶん当日は来ると思うよ」

 学習室を出て鍵を返し、図書館に残ると言ったリシアとの別れ際、鈴蘭は訊ねた。

「リシアは来ない?」

「行かないよ」

「三日のうち一日も?」

「うん、行かない」

 迷いなくリシアは答える。

「秋休み、実家にも帰らないんでしょう?」

 リシアは少しだけ顔を顰めて、肩を竦めた。

「うちの学校、学園祭の時ものすごく人が多いだろ。苦手だから行かない。居場所がない感じがするんだ。図書館も開放日だしね」

 翡翠に聞いたらまた連絡するよ、と言って鈴蘭の前から立ち去った。

 その背中を見送った鈴蘭は、パフォームに参加すると心は決まったけれど、リシアがほんのちょっとでも学園祭に来てくれると言ってくれれば、もっと肩を押された気持ちで、自信を持って参加できたのに、と思わずにいられなかった。



 模擬店と言うのは、要するに学生の技法発表の場だ。

 校内の決められた一角にブースを出して、飲食店にしたり雑貨を売ったり、単にパフォームだけを披露したり、事前に申請しておけばなんでも良い。開催日の三日間、来客からパフォームやサービスや完成度などのアンケートを取って人気投票を行う。校内で目立ちたい生徒がここぞとばかりに張り切る大きなイベントなのだ。

 休み時間に、サルビアに仲間に加わりたいと言いに行くと、それほど歓迎されている雰囲気もなかったが、かといって「あれ、本気にしたの?」と、冷たい目で見られて傷つけられることもなかった。

「よろしくね、後でみんなにも紹介するわ。それから、翡翠に声を掛けるのを忘れないで」

 学園祭の準備期間はもう始まっている。自分たちのパフォームの計画を立てるのと同時に、ブースの並ぶ場所を見て、場所取りの抽選に参加したりしなくてはならない。

 メンバーは鈴蘭以外に五人、同じクラスのサルビア、バレリアンと、隣のクラスの芙蓉、アイリス、ルピナスだった。隣のクラスでも目立っている三人組だ。アイリスとは一年の時、同じクラスだったが、まともに喋ったことはない。他のふたりも言わずもがなだ。

 同じクラス内で八人いるグループの残りの女子は、ステージイベントに参加するので模擬店には参加しないと言われた。

 放課後の打ち合わせで教室に集まり、鈴蘭はサルビアから皆に紹介された。黒い髪の綺麗な芙蓉が、黒く輝く大きな目で、

「翡翠を呼んでくれるんでしょ?」と、鈴蘭に言った。

「声は掛けてみるわ」

「流星も連れてきてもらえる?」

「ルチルは?」

 鈴蘭の答えに、アイリスとバレリアンが続けて期待に満ちた目を向ける。鈴蘭は自分が求められたのではなく、翡翠へのパイプ役としてここにいるのだと思い知った。

「まだ話してないけど、翡翠に会ったら頼んでおく」

 その一言で彼女たちの目の色が変わった。

「でも」と、やりとりを眺めていたルピナスが、ちょっと顔を曇らせて言った。

「なんであなたがそんなに翡翠と親しいの」

 それはわずかだが詰問するような口調だった。言葉よりも態度に、鈴蘭は動揺する。

「えっと…、期末課題を手伝って欲しいって頼まれた三年生と翡翠が、友だちで…」

 と、必要もないのにしどろもどろになりながら答えると、さらに彼女は、

「なんで、三年生に期末課題のこと頼まれるの?」

「それは…」と、鈴蘭が答えかけた時、

「ねえねえ、私も質問」と、バレリアンが勢いよく手を挙げる。皆はいっせいに彼女の方を向いた。

「なんでいつも、黒い服着てるの?」

 彼女が少し鈴蘭の方へ身を乗り出しそう言うと、その場の空気が、そんなことどうでいい、という気配に変わる。

「そんなことよりみんなでブースの場所、見に行きましょ。抽選に参加しなきゃ」

 サルビアが言うと、皆が頷いて立ち上がる。バレリアンも、良いとこ当たるといいねー、と笑っていた。



 それから一週間、学園祭の準備は進んでいた。

 紫苑にはパフォームに参加することを伝えると、

「あ、そう」と、素っ気なく言われただけで、あとは何もなかった。

 怒っているような感じもあったが、一方で鈴蘭はリシアの言葉も思い出していたので、彼女の態度のせいで引き下がる気にはなれなかった。

 それにブースの準備はなにかとやることがあり、昼休みも放課後も、紫苑と過ごす時間が減っていた。

 パフォームの内容が決まり、抽選でブースが決まり、放課後に少しずつ準備を進める。

 けれどその間、鈴蘭は特に仲間たちから意見を求められず、ただ頭数としているだけだ。そんな自分がちょっとだけ侘しくて、鈴蘭は自分が唯一期待されている翡翠とのことで、リシアの連絡を待っていた。

 けれど彼のことは校内でも見かけないし、放課後は準備に時間を取られて顔を合わせることもない。連絡を入れても『まだだから、もうちょっと待って』と、そっけないメッセージが送られてきただけだ。一週間に二回。

 課題のことはどうでも良いのかしら、とわずかに腹立たしい気持ちで、鈴蘭はそれでも学園祭の準備に参加していた。

 ブースを飾る幻視パネルが揃い、授業の無い土日に作業を進めることになった。十枚ほどあるし、さらに小道具を置いてそれっぽくするだろうから、一日二日で終わらない。

 来週からは授業が少なくなって、一気に準備を進めるのだ。

 鈴蘭も作業の頭数として自分が必要とされているのはわかっていたので、授業のない土曜日に、朝から学院に来ていた。

 ブースの場所は技法科と専修科を分ける、敷地内で一番広々とした中央庭の一角だ。クジ引きの結果がいまいちで、サルビアたちはステージと歩道に面した人目につく場所が良かったと悔しそうにしていたが、鈴蘭は校舎に近いこの場所も、それほど悪いとは思わなかった。

 作業があるので、いつものようにブラウスとスカートの組み合わせや、ワンピースは相応しくない。その日はフロントがカシュクールデザインになった黒いサロペットに、ドルマンスリーブの黒いTシャツを合わせた。髪もひとつにまとめて、頭の上に結い上げる。アクセントに小さな黒いリボンのついたコームをつけた。

 学院に行くと、集合時間ぴったりに到着したのに、既にたくさんのグループが自分のブースで作業を始めていた。昨年は学園祭に参加しなかったので、この光景は知らなかった。

「おはよう、鈴蘭!」

 振り向くとバレリアンが手を振って近づいてきた。彼女も今日は制服ではなく、Tシャツに細身のジーンズのラフな格好をしている。それが小柄で華奢な彼女にとても良く似合っていた。

「おはよう、バレリアン」

 彼女は鈴蘭の脇に並ぶ。校内の自分たちにスペースに行くと、サルビアと芙蓉が既にそこにいて、彼女たちに幻視パネルを取りに行くように言った。台車を持ってブースの壁になるパネルを運ぶ。

 そして自分たちのブースのスペースを囲むように立てる。昼近くなると灰色がかった白いパネルが、中央庭のあちこちに立ち並んだ。

 ここからが各参加者の腕の見せ所だ。

 パネルを立てると、アイリスと芙蓉がパネルに手をついて形成術を始める。

 灰色がかった白いパネルに、じわじわと絵が浮かび上がる。

 彼女たちが作っているのが、今回のコンセプトの『魔女の研究室』だ。パネルの両面に、彼女たちは次第に研究室を模した画像を浮かび上がらせる。

 幻視パネルとは言っても、衝立のように大きな物だから、一枚仕上げるのにもだいぶ時間がかかる。

 その間に魔女の研究室っぽさをより演出するために、テーブルや理科室の実験器具などを借りてきて揃えてるのを、鈴蘭は手伝っていた。

 ただ、午後になってやっとできあがった一枚目のパネルを眺めて、鈴蘭は小さく溜め息をついた。

 こだわりのある彼女から見たら、それは幼稚園のお遊戯会のパネルみたいだった。けれど自分の意見が求められていないことはひしひしと感じていたし、こだわりを見せても仕方がない。

 自分はあくまで、翡翠を呼ぶためだけに、仲間とは言えないが、かろうじて人数に入れてもらえたのだ。

 けれどなにか物足りないのは自分だけではなかったらしい。

 鈴蘭の見ている前で、サルビアとバレリアンがパネルに近づき、なんか違う。なんかちゃちい、なんか足りない。なんか足りないって言うか、全然足りない、と話している。作り手のアイリスと芙蓉も同じ気持ちのようで、むっとした顔をしながらも、言い返せないでいる。

 鈴蘭は少し離れて様子を見守っていたのだが、間もなく、

「ねえ」と、バレリアンが鈴蘭を振り返った。

 突然のことだったので、思わず肩を震わせる。彼女はそれに気づいた様子もなく笑って、幻視パネルを指差しながら言った。

「鈴蘭やって見せてよ。いつも黒い服着てるし、こういうコンセプト得意だって聞いた」 みんなの注目が彼女に集まる。鈴蘭はにわかに緊張した。

「得意なの?」芙蓉が視線を向ける。

「得意かどうかは…」

 鈴蘭は困った顔をしてみせる。

「やるだけやってみてよ」

 サルビアが言って、顎でパネルを示した。芙蓉とアイリスが少しだけ顔を顰めたが、断るわけにも行かず、鈴蘭は彼女たちの輪に加わる。

「どういうのが良い?」

「魔女の研究室っぽくなれば」

 はいはーい、とバレリアンが手を挙げる。

「っていうか、もっとおどろどおろしいのが良い! 研究室って言うか、実験室みたいな。ちょっとホラー入ってるほうが雰囲気も出るし」

「…あんまり期待しないでね」

 鈴蘭は一応断ってから、パネルに掌を触れさせた。そして目を閉じて、深く息をする。魔女の研究室、からの実験室、からの古い廃墟、だけど居心地の良い部屋、黒い服と、黒猫、コウモリ、鴉、黒百合、黒薔薇、自分の好きなもの全部、お互いが引き立つように。

 そしてただ景色が浮かび上がるだけじゃなく、それが動くようにもした。骸骨の置物が歯を鳴らしたり、窓の外の景色が少しずつ変わったり。

 やりながら鈴蘭は、幻視パネルを使っているとは言え、以前よりも自分の技法の実力が上がっているのを感じた。綿密な細部まで想像しなくても再現率が上がっているし、それに費やす時間も早い。

 リシアのおかげだ、と鈴蘭は中間試験前のことを思い出した。

「うわ」

 バレリアンの声が聞こえて、鈴蘭の集中が途切れる。続いて別の数人の溜め息が聞こえた。しまった、やりすぎた、と鈴蘭が心の中で青ざめた時、

「…すごい」と、バレリアンの興奮を抑えた声が聞こえた。

「すごい、鈴蘭、すごい!」

 目を開くと両手を胸の前で組んだバレリアンが、飛び跳ねそうな勢いで、鈴蘭に向かって言った。

「…そう?」

 てっきりやりすぎたものと思っていた鈴蘭は、バレリアン越しにおそるおそるほかのメンバーを見る。見ると他の女子も、パネルを眺めていた。芙蓉とアイリスはそれよりもうちょっと複雑な表情をしている。

「ねえ、ほかにもできる? 内側と外側で雰囲気変えてもよくない?」

 鈴蘭はちょっと考えて、と言うより自分の中のイメージを思い浮かべながら、

「複数のパネルに渡って、絵が動くようにしても良いと思うんだけど」

「そんなのできるの?」

 ルピナスが顔を上げた。鈴蘭は頷く。そして思った。自分は彼女たちより目立たずに地味な生徒だけど、彼女たちより成績が悪いわけでもなんでもない。その上、彼女たちが決めたコンセプトなら、たぶん自分の方が色々見て知っているし、こだわりもあるのだ。

 彼女たちが協力しろと言ったんだから、遠慮することなんてない。

 鈴蘭はそう考えて、それから何度かパネルに浮かぶ画像を変えた。外側は建物の壁面と、月夜の晩の荒涼とした風景に決めた。

「バレリアン、三日月と満月とどっちが良いかしら」

 鈴蘭の質問に、彼女は楽しそうに笑って、

「三日月! うんと細いやつ」と、答えると、周りの仲間たちにも、ね、その方が絶対いいよね、と言いまわっていた。

 だんだんと日も傾き、パネルをどの向きで組み合わせるのか、他の小道具をどんな風に置くかも話し合わなくてはならなかったが、鈴蘭は幻視パネルの絵をひとりで任されてしまった。

 また仲間はずれか、と思わないこともなかったが、ブースの顔となる幻視パネルの絵を自分ひとりに任されたのは、密かに誇らしい気持ちだった。最も、全部完成したら、芙蓉やアイリスになにかしらダメ出しされて、当日までに変えることになるだろうけれど、とも思いながら。

 今日のうちに、外側に向くパネルの絵は、できる限り進めておこう、と鈴蘭がひとりで作業していると、

「へえ、こりゃなかなか」

 と、鈴蘭の背後で低い声がした。彼女は振り返り、そして思わず小さく叫んでしまう。

「…あの、翡翠の」

 鈴蘭は思わず呟く。

 前に一度だけ見た、翡翠に寮まで送ってもらったときに見かけた彼が立っていて、興味深そうに彼女の作ったパネルを眺めていた。

 今日は金髪の髪を両サイドで編みこみにして、後頭部でハーフアップにしている。

 どうしてこんなところに、と鈴蘭が呆気にとられていると、

「先生!」と、鈴蘭の背後で黄色い声が飛んだ。

 サルビアたちが彼の傍に駆け寄って来る。

「雷鳴先生、どうしたんですか?」

 彼を取り囲んだ芙蓉が、嬉しそうに話しかける。そうしている間にも、彼に気づいたほかの生徒たちが辺りから集まってきた。女子だけでなく、男子も、彼を囲んで騒いでいる。その輪に入れなかった鈴蘭は、さらに彼らから距離を取った。

 聞こえてくる話から、金髪の彼は雷鳴と言う名の、専修科の教員なのだとわかった。そうか、それで知らなかったのか、と鈴蘭はひとりで納得する。

 彼女の所属する技法科と、雷鳴の専修科は、同じ敷地内であっても校舎の場所も違うし、滅多に見かけることはない。学園祭の模擬店は所属の科も関係なく出店するので、こうして専修科の教員が担当になることもあるのだ。

「学祭の間おれはこのブロックの担当」と、彼が説明しているのが聞こえた。

 女子生徒から小さく歓声が上がる。雷鳴はなかなかの有名人のようだが、専修科の教員なので、男子が多く、女子生徒は接する機会があまりない。

 雷鳴が軽く手を鳴らした。

「そんなわけで、みんな協力してくれよ。誰かが騒ぎ起こして、俺がクビになったら困るからな」

 彼が言うと笑いが起こった。

 パフォーム中にやりすぎないか、軽食を振る舞うブースは火の始末と衛生管理、それに来客とのトラブル監視。学園祭の期間中、ブースの並ぶ各ブロックに教官の担当がついて見回るのだ。

 見知らぬ女子生徒たちが、自分たちのブースにも来て、と彼の腕を引く。その姿は翡翠と一緒だった時に会った彼とは別人のようだった。それに、と鈴蘭は考える。

 雷鳴と呼ばれていた。けど、翡翠は遠雷と呼んでいたような気がする。どっちが正しい呼び名なのだろう。

 彼が行ってしまうと、サルビアたちが戻って来た。

「雷鳴先生が担当だなんて、ラッキー」

 皆は顔を見合わせて、笑顔を浮かべていた。それからは準備に戻ったが、鈴蘭にとっての騒ぎはそれだけで終わらなかった。

 翌日の日曜日も作業が続き、鈴蘭はその日一日、またもひとりで幻視パネルにかかりきりで、あっという間に日が暮れた。放っておかれてはいたけれど、かと言って自分の作るパネルに文句も言われず、彼女はリシアのことも翡翠のことも、そして雷鳴のことも全部忘れていて夢中になっていた。

 校内に残って良い時間は午後六時まで。学校側がそう決めていて、そろそろ時間が迫っている。けれど鈴蘭たちを含め、辺りは誰も帰ろうとする気配がない。暗くなった校庭に、

「そろそろ帰れー」と、言う声が聞こえた。

 鈴蘭が振り返ると、雷鳴がブースのひとつひとつを回って生徒に声を掛けている。鈴蘭が見ていると、彼が振り返り、目が合った。軽く会釈すると、ブースに近づいて来る。

「黒い服ちゃんも、そろそろ帰る準備をしてくれ」

 黒い服ちゃんって、となんと言い返そうか考えているうちに、バレリアン、アイリス、ルピナスが雷鳴を見つけて飛び出してきた。彼女たちも、帰れと言われている。

 その時だった。

「鈴蘭ちゃん」

 横から名前を呼ばれた。声には聞き覚えがあるが、意外に思いながら振り返ると、そこには予想通り翡翠がいた。だけどやっぱり意外だ。

「今日はスカートじゃないんだね、一瞬誰かと思ったよ。だけどやっぱり黒い服だね」

 今日も昨日と同じく動きやすいように、柔らかい素材の黒のオールインワンを着ている。

「翡翠、どうしたの」

 今日は日曜で、授業はない。準備に来ているのは、主にパフォームやステージなど、二年生が中心となるイベントの運営に参加している生徒だけだ。

「いや、この辺の担当だって聞いたから」

 そう言って翡翠はあたりを見回し、雷鳴と彼を取り囲んでいる女子たちに目を留めた。が、すぐに鈴蘭に視線を戻す。その間に鈴蘭は、翡翠の後ろから輝銀が近づいてくるのにも気がついた。

 輝銀のことはリシアの担当教官だという話を聞いているし、鈴蘭自身も一年の時の夏期講習で彼のクラスを取ったことがあった。けれどそれは三日間だけの、講義形式の授業で、彼と個人的に話したりすることはない。彼は翡翠の担当なのだろうか。

「翡翠、いたか」と、彼が言った。

 翡翠は振り向いて雷鳴を指差すと、すぐに鈴蘭に向き直る。

「パフォームに参加するって聞いてたけど、遠雷が担当してるブロックだったんだね。あ、遠雷って、雷鳴のことだけど」

 と、彼は言って笑顔を浮かべる。

 会うのは何週間ぶりだろうか。校内で見かけて挨拶したことはあったけれど、こんなふうに差し向かいで直接話すのは、ずいぶん久しぶりの気がした。

「聞いたって、リシアから?」

「うん。おれが学園祭くるかどうかって。決めてなかったけど、鈴蘭ちゃんがパフォームに参加してるから、来るなら顔出してあげてって言ってたよ」

「そう、そうなの」

 鼓動が早くなるのを感じながら、これは好機、と鈴蘭は思わず身を乗り出す。幻視パネルのことは多少役に立ったかも知れないとはいえ、自分はこれを期待されて仲間に入れてもらえたのだ。

「翡翠、学園祭どこか一日でも来たりする? もしも、時間があったら顔を出してくれると嬉しい」

「うん、来るつもりだよ」

 翡翠が頷いて笑う。これは良い感じ、と鈴蘭は思わず拳を握る。けれど翡翠は肩を竦めて困ったように、こう言った。

「でも、リシア来ないって。何回か誘ってるんだけど、あの調子だとほんとに来ないかも。自分から言ったのに、ひどいよね」

「別にリシアじゃなくても良いの。翡翠が友だちつれてきてくれれば、他の仲間も喜ぶから」

「うん、じゃあ、友だち誘うよ」

 翡翠はそう言って頷いた。やった、と鈴蘭は心の中で握った拳を振り上げた。

「翡翠」

 輝銀が彼を呼んだ。見ると彼は雷鳴の方へ行き、それから彼のところへ戻ってくるところだった。

「この分じゃまだかかりそうだ」

 生徒たちに囲まれながら、ブースを歩く雷鳴を指差す。翡翠が彼に苦笑してみせた。

「鈴蘭ちゃんは、もう帰るとこ?」

「うん」

 頷いた時、生徒を振り切ったのか、雷鳴が彼のところへ戻ってきた。

 鈴蘭がバレリアンに促されてその場を立ち去るとき目が合って、翡翠は小さく手を振ってくれた。そして、それを眺めていた雷鳴も、悪戯っぽい表情で、同じように彼女に手を振る。

 バレリアンやサルビアたちの視線がいっせいに彼女に集まり、鈴蘭は思わず顔を反らしてしまった。

 寮の部屋へ戻ってひとりになってからも、鈴蘭は自分の気持ちが興奮しているのを感じた。誰かにこのことを話したい。でも、誰に?

 紫苑? だめだ。彼女は今の鈴蘭の状況を快く思ってない。

 だったらリシア。

 そうだ、本当は鈴蘭にもわかっている。この話はリシアに聞いてもらいたい。幻視パネルはリシアのおかげで、みんなに認められたこと。翡翠にも会えて、ブースに来てもらう約束を取り付けたこと。

 けれど、端末を持つ手が止まる。

 この状況に鈴蘭が何を感じようが、課題さえ進めばそれで良くて、他のことはリシアにとってはどうでもいいことだとわかっていたからだ。

 そして鈴蘭は、彼を煩わせるようなことはしたくなかった。

 自分でも思わず一度小さく溜め息を吐き、鈴蘭は端末をベッドの隅へ押しやった。

 リシアとは顔を会わせることはおろか、端末でのやりとりもないままに、次の週の放課後には、学園祭のための買物にも行った。足りない装飾品を揃えたり、衣装を選んだりしなくてはならないからだ。

 学校近くの生徒御用達のショッピングモールへ行った帰り道、鈴蘭はふとひとりになりたくて、サルビアたちと別れた後に、寄り道した。

 彼女たちと一緒にいる間は感じないけれど、やはり紫苑ほど親しくないので気疲れするのだ。古い店の並ぶお気に入りのアーケード街を歩いている時、アンティークな文房具を揃える店のウィンドウの中に気になるものを見つけて、鈴蘭はふと足を止めた。

 しばらくそのまま睨み合って、彼女は店の中へ入る。

 落ち着いた店の中をぐるりと一周して、やっぱり鈴蘭は最初に見たそれを買うことに決めて、出るときには小さな紙袋を抱えていた。

 来週の金曜日は学園祭の初日だ。



 当日は朝から晴天だった。

 一般入場が始まるのは十一時からだ。普段の登校日と同じくらいの時間に、鈴蘭は学院の校庭を突っ切る。自分たちが用意した、『魔女の研究室』が見えた。朝の光の中でも、うん、そんなに悪くない、周りの模擬店にも負けてない、と鈴蘭は密かに満足に思う。

 すぐに、まあ自分で作ったんだから当然だけど、と思い直していると、。

「黒い服ちゃん」と、声が聞こえた。

 振り向くとすぐ後ろに、雷鳴が彼女の顔を覗きこむようにして歩いていた。

「お、やっぱり合ってた」

「お、おはようございます、雷鳴先生…」

 彼女が言って軽く会釈すると、雷鳴がにやりと笑う。朝の爽やかさには欠けるわ、と彼女は考える。

「黒い服ちゃん、じゃなくて鈴蘭さんは」

 あれ、名前覚えててくれたんだ、と鈴蘭は思い、横を歩く遠雷を見上げる。

「なんか距離あんの? グループの他の子と」

「…誰かから、聞いたんですか?」

「うーん、それもあるけど、準備の時の雰囲気でなんとなく」

「まあ、ちょっと事情が。でも、自分でやってみたいって思ったことだし、今のところ想像してたほど嫌なこともないし、あと三日間だから、やってみるつもりです」

「パネル、よく出来てるな。日が暮れた方が雰囲気出ると思うけど」

「ありがとうございます」

 意外な言葉に、鈴蘭は思わず笑顔を浮かべた。

「人気投票もあるからな」

「そうですね。他の女子ははりきってるけど、私はそこまで気持ちがついていかなくて」

 そう言うと雷鳴が笑った。

「模擬店の制服は」

「魔女の服です。でも、別に私はいつも黒い服だから」

「そうみたいだな。翡翠も言ってた」

「翡翠と親しいんですか」

「まあまあ」彼は頷く。

「パフォーム、俺も見回りで顔を出すから。お仲間によろしく」

 彼はそう言って、ひらりと手を振ると別の校舎へ向かって行ってしまった。煙草の匂いが残ってる。やれやれ、見回りで顔を出すなんて、翡翠と一緒になったらまた大変なことになりそうだ、と鈴蘭はちょっと考えた。



 教室を一部屋を更衣室にしているので、登校した鈴蘭はそこで着替えた。

 他のみんなとお揃いの魔女の服だ。自分の部屋でも広げたが、改めてみるとやっぱりぺらぺらの生地で安っぽい。黒い服とは言っても、鈴蘭の好みじゃなかった。

 でも、仕方ない。

 下がりそうな気分を支えるように、黒いシフォン素材を重ねたパニエを履いた。スカートのボリュームを出し、裾からフリルを見せるのだ。

 髪型はいつもとは違い、襟足のところで結ってボリュームが出るようにピンで留めた。

 あとはこれに、魔女の特徴のような先の尖った三角帽子を乗せる。

 ブリムの飾りに黒いチュールがついている。見るからに安物のサテン生地で、帽子の形も歪んでいた。ほんの二日半、イベントに使うだけなのだから、それで充分だろう。

 でも、鈴蘭は嫌だった。

 黒い鞄をあけて、持ってきたアクセサリーを取り出した。まずは頭もの、ネコの仮面型のヘアアクセサリーは、柔らかい素材で出来ている。内側にコームがついていて、それを頭上に斜めに留めた。くりぬかれたネコの目元にラメがついていて、角度によってキラキラ輝く。

 腕にはリボンとコウモリのチャームがついたシュシュをつけた。光沢のある深紫の生地に、ドットチュールが重ねてある。縁飾りは銀のトーションレースだ。手袋と迷ったが、パフォームには邪魔になるかも知れないと思って、ブレスレット代わりのシュシュにした。

 それからアンダーガーメンツ。これはミニスカートを履き慣れていないせいもあるが、丈の短いガーター付のドロワーズをパニエの下に履いた。

 ラメの入った深紫と黒の太い縦縞のオーバーニーソックスを膝上まで引き上げて、両脚の前後のガーターに留める。いつも黒い服ばかり着ているし、アクセサリーは学校にはつけてこないけれど、鈴蘭は黒の次に濃い紫色が好きなのだ。

 靴はいつもと同じものだけれど。歩きやすいし気に入っているし、今日の服装にもよく似合う。

 鏡の前に立とうとして、そうだ、マントもあった、と思い出した。みんなとお揃いのマントは寮の部屋で一度広げてみた。やっぱりぺらぺらで艶のない生地で、大きな衿の裏地は品のない赤だった。マントがあった方が魔女の仮装としては見栄えがいいけれど、はっきり言って全然鈴蘭の趣味じゃない。そして今は綺麗にたたんで紙袋の底にしまったまま、そこに置いてきてしまった。

 別の袋から、家から持ってきたマントを広げる。寒い時に家で寝る前に使っているのだが、実はかなり奮発して買ったお気に入りだ。柔らかいけれど張りのあるバーバリー生地、そして襟元から裾に向かって幅が広くなるフリルがついている。肩にかかるフードの裏地は黒いレース地で、とても可愛いのだ。

 鈴蘭は胸元のボタンをはずしてそれを羽織った。留めるのは金の流星型のブローチにチェーンがついたクリップだ。

 最後に蝶がついた鞭を取り出す。形成術に使う杖の代わりで、他のみんなのは箒型だ。

 でも、鈴蘭の趣味じゃなかったので、これにした。おもちゃの鞭だけど、幻視パネルの中で簡単な術式を使うだけなら、これで充分に用が足りる。

 荷物を纏めてから姿見の前に立つ。そしてひとりで思わず微笑んでしまった。誰からも言われなくても、自分に言ってやりたい気持ちだった。

 完璧、と。

 緩む頬の自分を眺めて、おっとひとつ足りなかった、と鈴蘭は鞄の中からメイク道具を取り出す。

 魔女の仮装、魔女の仮装、でも、やりすぎない。と自分に言い聞かせながら、目の周りといつもより少し黒く縁取り、いつもはつけない付け睫毛をつける。自分の目のかたちから言って、切れ長に見えるように、目尻に毛束が濃くなっているものを。

 ぱちぱちと二三瞬きをして、最後に口紅を乗せる。本当は紫がいいが、今日は学園祭で、パフォームしにきたのだ。暗い赤を軽く乗せ、ぱちんとコンパクトを閉じると全て鞄にしまった。

 部屋を出るときに湧いたのは、さあ行くわよ、と言う気持ちと、どうにでもなれ、という気持ちの両方だった。



 ブースに行くと、サルビアたちが既に集まっている。

 完璧、と心では思っていても、いざ彼女たちの前に本当に立つとなると、かなりの勇気が要った。それでもこれは自分で決めたことだし、行かないわけにはいかない。

 一度立ち止まり、両手の拳を握り締めると、深く深呼吸した。左手につけたコウモリのチャームが揺れて、鈴蘭は自分がお気に入りのものを身につけていることを思い出した。

「おはよう」と、言うと、皆が振り向いた。

「わあ、鈴蘭、とっても可愛い」

 バレリアンが笑顔で両手を広げて近づいてきた。小柄で金髪の彼女は、それなりに可愛く魔女の衣装を着こなしている。頭には三角帽子、目の周りは黒く、でも衣装をただ着ているだけで、やっぱりちょっと安っぽい。

 準備を始めて、十一時を過ぎると一般客がちらほらと入り始める。ブースにも最初の客が来た。やはり魔女の研究室なので、興味を持ってくれるのは女の子が多い。注文された飲み物を運ぶ時に、簡単なパフォームを披露してみせる。

 サルビアやアイリスたちが率先して客を迎えるので、鈴蘭は飲み物を用意したり、引き下げられたカップを片付けたりするだけの、裏方だった。

 一日目はそれで終わってしまった。昼間はこんなもんかと思っていたけれど、終わってから鈴蘭は自分が不満だったことに気がついた。

 人気投票の途中経過も、数十ある模擬店のうち、半分より下だった。

 衣装に私物を身につけたこと、張り切りすぎだとか調子に乗ってるとか思われたかもしれない、と不安もあった。

 けれど一日目、鈴蘭は模擬店にいたのにパフォーム参加した気分になれなかったので、二日目はそんな自分の気持ちを奮い立たせるために、余計に多くの私物を身につけた。

 昨日と同じように、ブースに集まり、他の仲間の装いを眺める。そこで鈴蘭は昨日とは違うことに気がついた。

 バレリアンとサルビア、芙蓉の衣装が昨日と少し変わっている。ヘッドドレスやアクセサリーが増え、足元も肌色のストッキングだったのがニーハイソックスに代わっている。 安っぽい三角帽も止めて黒い猫耳をつけたり、鈴蘭の真似をしていた。化粧も少し濃くなっている。

 彼女の顔を見るとフェイクのコウモリの羽を背負ったバレリアンだけは、

「まねしちゃった」と、言って笑った。

「でも、似合ってるし、昨日より可愛くなってると思う」

 昨日自分のことを褒めてくれたのは彼女だけだし、彼女の格好は素直に似合っていると思ったので、鈴蘭は言った。バレリアンは照れくさそうに笑って、ありがと、と言ってくれた。

 二日目は土曜日なので、昨日よりも校内を歩く人が明らかに多い。朝から客も多かった。

 鈴蘭は午前中はずっと裏方だった。それでも昨日に比べると結構忙しい。

 お昼時に、サルビアと芙蓉がお昼を食べに行くと言ったきり、戻ってこなくなった。昨日既に話題になったブースがいくつもあるので、昼休みついでに見て回ってるのだろう。

「あたしも後で行きたいなー」と、バレリアンが無邪気に言った。

 テーブルに客が入り、バレリアンとルピナスがついている。アイリスはその時裏にいた。

「いらっしゃいませー」

 仕方なく鈴蘭は、作り笑いを浮かべて新たにやってきた女の子三人組を迎え入れた。制服姿で、きっと学校見学のついでだ。

 飲み物の注文を聞いて、引き返す。アイリスに言うと、ちょっと変な顔をしながらも、用意してくれた。

 盆に乗った飲み物を見て、鈴蘭はふと思いついてグラスに触れる。

 音もなくグラスが大きな黒い卵に変わった。幻視パネルに囲まれたブースの中では、こういうつまらないけど見た目は派手な形成術が、ぐっとやりやすくなる。

 鈴蘭はそれを運んだ。女の子たちから可愛い、と小さく歓声が上がる。

「それじゃ、今から私たちのパフォームをお目にかけます」

 鈴蘭は彼女たちに向かってにっこり笑うと、昨日は使う機会のなかった鞭を取り出し、杖の変わりに振った。

 黒い卵が小さく震えだし、ヒビが入る。

 彼女たちの見ている前でそれが割れると、白い煙と共に銀に光る魚が、それぞれのグラスから飛び出した。魚はゆっくりと彼女のたちの顔の周りを泳ぎ回り、それから再びグラスに向かう。ふっと、その姿が掻き消え、ぽちゃんと水滴の音がする。

 女の子たちが目を落とすと、そこには飲み物のグラスが運ばれ、さっきまで魚だった氷が揺れていた。彼女たちが再び歓声を上げ、鈴蘭に向かって小さく拍手する。

「学院の技法科に入れば、誰にでもこの程度のことはできるわ」

 幻視パネルの中にいるから、容易いことなのだ。

 ふと見ると、外でも足を止めている人がいる。表に面した席で、魚が目立っていたので、人の目を惹いたのだろう。鈴蘭は彼らに向かって笑いかけると、

「良かったら中に入って見ていってください。ご希望があればもうちょっと派手なものもお見せします」

 と、声を掛けた。気に入ってくれた二、三組が、次々にブースに入ってくる。バレリアンとルピナスが彼らを迎え入れた。

 ふと視線を感じて、鈴蘭は入り口の方を見る。するとそこには戻って来たサルビアと芙蓉が、憮然とした顔を彼女に向けていた。自分が目立っているのが面白くないかな、鈴蘭はそう感じて一瞬怯んだが、すぐに彼女たちに笑顔を向けると、

「おかえりなさい。お客さんがたくさんよ」と、言った。

 そうやっている間にも、次々に客が入ってきていたからだ。

 サルビアと芙蓉は、彼女の横を通りすぎると、素早く笑顔を浮かべて、客の応対に回った。アイリスが奥から出てきて、

「鈴蘭、変わって」と、言ったので、彼女はまた裏方に戻った。

 言われるままに飲み物を用意したり、カップを洗ったりしている間にもさっきのサルビアと芙蓉の咎めるような視線を思い出し、鈴蘭はだんだん腹が立ってきた。

 彼女たちはずいぶん勝手だ。

 自分たちが翡翠たちを呼び込みたくて、私を仲間に引き入れたくせに、私がちょっとでも彼女たちより目立とうとするのが気に入らないのだ。

 けれどその日は忙しく、鈴蘭もその後何度か表に立って杖代わりの鞭を振るった。一度など半分外に出した席で見せることになって、テーブルに座った客のほかに、何人も通りすがりの人たちが足を止め、パネルの景色を組み合わせた鈴蘭の形成術に見入っていた。

 二日目が終わる頃、片づけをしている鈴蘭に向かって、サルビアが素っ気無く言った。

「ねえ、それで翡翠はいつくるの?」

 ブースのことで忙しく、それまで鈴蘭はあまり翡翠のことを考えていなかった。でも、言われてみればこの二日間は翡翠を見かけていないし、連絡も取ってない。口約束で来るよ、と言われただけで、今日までなんの音沙汰もないし、明日だって来てくれる保証はない。

「なんとも言えないけど…」と、返事に困っていると、

「翡翠を呼べるって言ったから、あなたを誘ったのに」と、サルビアも強い調子で言った。

 だったら誘ってきたのはそっちじゃないの、と鈴蘭は思ったが、ふたりに言われると口に出せなかった。それに結局、誘いを受けたのは自分だ、と鈴蘭は思う。

 ここには味方はいないのだ。自分でなにか言い返さなくては、でも、言葉が浮かばない。言葉に詰まっていると、

「ちょっと止めてよ。翡翠が来ないくらいでそんなに騒がないでよ」と、バレリアンが珍しく苦い顔で言った。

「今日はお客さんもたくさん来たし、人気投票の中間発表見た? 真ん中より上だったよー。良いことばっかりだったのに、男が来ないなんてみっともないことで騒がないで! 魔女の研究室にしようって言い出したの、サルビアでしょ。鈴蘭はすごくすてきなパネルを作ってくれたじゃない。今日は疲れてるんだよ。まだ明日一日あるんだから、今日は帰ろう」

 だからこれ以上は止め、と彼女は強い口調でその場を収めた。その態度に、サルビアたちもそれ以上言わず、自分たちのブースから出て行った。

 既に日が暮れた校内を、着替えるために教室まで戻りながら、

「バレリアン」と、鈴蘭は声をひそめて彼女の服を引く。

 バレリアンが振り返り、鈴蘭に並んだ。

「さっきの、ありがと」

「なにが」と、バレリアンは苦笑しながら首を傾げる。

 彼女のことはまだわからない。自分を笑いものにしようとしてるのか、庇ってくれたのか、鈴蘭には本当にわからなかった。

 でも、言った。

「なんでもいいの、ありがと」

 そう言うと、バレリアンは、

「ね、お礼を言うならそのコウモリのバングル、明日私に貸して。すごく可愛い」

 と、言って笑った。今日は昨日のシュシュを止めて、ラメ入りのプラスチックのバングルをつけていたのだ。

 やっぱりちょっと図々しいかも、と思いながら、鈴蘭は頷いた。



 三日目も晴天だった。

 昨日のことがあったので、鈴蘭はもう裏方に徹するつもりはなかった。

 芙蓉とバレリアンはともかく、サルビア、ルピナス、アイリスより、自分のパフォームの方が人に喜んでもらえると、はっきりわかったからだ。確かにサルビアたちに比べれば、学校では地味だし目立たないし、変り者扱いされているかも知れないが、パネルの時にしても、パフォームの能力が劣っているなんてことはないのだ。

 それに今日は衣装だって違っていた。ルピナスとアイリスまで、自分の真似をしていた。 バレリアンはいよいよ魔女と言うよりコウモリ女の格好で、けれど小柄な彼女にそれがとてもよく似合ってた。しかも彼女に貸した昨日と色違いのコウモリのついたバングルを見て、皆が口々に羨ましいと言ったのだ。バレリアンが無邪気に、

「いいでしょ、鈴蘭から借りたんだ」と、言った後の気まずい空気はちょっと忘れられない。私を羨ましがるなんて、彼女たちの中ではあっちゃいけないことなのだ。

 その話はそれきりになり、三日目が開始した。

 昨日のこともあってか、今日は朝から盛況だった。サルビアたちも鈴蘭に文句をつけている暇もない。

 鈴蘭も客と応対する時は昨日より張り切っていた。黒い卵の中から、コウモリの幻覚を飛ばしてみせたり、幻視パネル寄りの席では、浮かんだコウモリがパネルに吸い込まれるように映し出したりして見せた。ルピナスがなにを思ったのか、それ、外でやったら? と言ってきたので、外にも席をふたつ作ってパフォームして見せると、午後には少しブースの外に列が出来てしまうほどだった。

 翡翠が来ないことも、気にしている余裕はなかった。サルビアと芙蓉も心の中ではどう思っているかわからないが、何も言わなかったし、ゆっくり話している余裕はなかった。

 そして今日も終わりの時間が迫る。

 最終日の今日は、夕方に一般客を帰した後に、生徒たちだけの無礼講になるのだ。そこでブースの人気投票の発表や、他のイベントの結果を発表するステージプログラムもある。

 あーあ、と夕暮れの校内の景色を眺めて、帰っていく一般客を見送りながら鈴蘭は思う。

 結局、翡翠は来なかった。本当はちょっとだけど、期待していたのに。

 そんなことを思っていた時、ふらりと大きな人影が目の前を横切る。

「お邪魔しまーす」

 声に振り返ってぎょっとした。雷鳴だ。手に缶ビールを持っている。他の女子たちから歓声が上がり、彼はあっと言う間に囲まれた。続いて輝銀が入ってくる。

 これまた小さく悲鳴のような歓声があがった。

「隅の席にして、隅の席に」と、缶ビールを見せながら彼が言った。

 ルピナスと芙蓉がきゃあきゃあ言いながら、彼の腕を引いて奥の席へ連れて行く。輝銀がそれに続いた。

「お酒なんか飲んでー」バレリアンが席に近づいて言うと、

「この時間だからもう良いだろ」と、雷鳴が笑った。

 その表情に、周りから溜め息が洩れる。正直鈴蘭もドキッとした。

 輝銀もビールと、パッキングされたつまみを持っている。サルビアたちが話し掛けているのをぼんやりと聞いていると、一般客が帰ったかどうか自分の担当ブースの見回り中だそうだ。

 ブースの隅が急に華やかになり、他の女子たちが盛り上がっているので、鈴蘭はその中に入れずにいた。それで外の様子を見ようと入り口の傍に立つ。

 すっかり暗くなっていて、学園祭のために並んだ灯篭が橙色の明りを灯し、見慣れているはずの校内の景色がすっかり違うものに見えた。改めて自分の作った魔女の研究室を模した幻視パネルを眺めると、やはりなかなかの出来だ。

 全体的に、学園祭は自分が思っていたのとは違ったが、それなりに達成感があったかも、とぼんやり考えていると、

「鈴蘭ちゃん」と、少し焦ったような声が聞こえた。鈴蘭は我に返って振り返る。

 そこには翡翠が立っていた。

「翡翠」と、彼女は思わず顔をほころばせる。

 すると彼は顔の前で手を合わせて、

「ごめん、学園祭の間にブースに行くって言ってたのに、来れなくて」

 そう言った。鈴蘭は慌ててそれを止めさせる。

「別にいいの。昨日と今日はけっこう忙しかったし、翡翠も人の多いとこ、そんなに好きじゃないでしょ?」

「でも、嘘ついちゃったからさあ、待ち合わせ、ここにしたんだよ」

 彼がそう言って振り返ると、後ろから男子がふたり近づいてきた。あ、と鈴蘭は声に出さずに口の形を変える。

 ルチルと流星だ。

 翡翠とよく一緒にいる、三年生の男子生徒。リシアよりずっと目立つ、翡翠の友だち。

 彼らに目を奪われている間に、翡翠は彼女の脇を通り抜け、ブースの中を覗き込む。

「あー、酒飲んでる!」と、翡翠の声が聞こえて、続いて女子から悲鳴が上がったのが聞こえた。

「俺、外が良い」

 鈴蘭が振り返ると、流星がさっさと外の席に座っていた。ルチルが良い? と、目つきで鈴蘭に許可を求めている。彼女はどうぞどうぞと、手で示した。彼らさっさとテーブルに、どこかで買ってきたらしい食べ物を広げている。

 飲み物ならまだ残っているけど、と鈴蘭が一応声を掛けると、じゃあお願い、とルチルに頼まれた。取りに行くために中に入ると、輝銀と雷鳴が立ち上がるところだった。

 奥からバレリアンが興奮気味に近づいてきて、

「ルチルも来てるの?」と、鈴蘭に訊ねた。

「外にいるけど…。ムーンシャインを持ってきてって」

 わたしがやる、とバレリアンは勢い込んで再び奥へ引っ込んだ。おや、と鈴蘭が意外に思う間もなく、翡翠が彼女の前を通り過ぎ、外へ出た。それに雷鳴と輝銀が続く。入り口の横にある席のもう一方に、雷鳴と輝銀が座った。

 それだけで瞬く間に、彼らのところに人だかりができて行くのがわかった。外が騒がしい。サルビアが顔を出して機嫌の良さそうな顔で、鈴蘭に飲み物を持って来てと頼んだ。鈴蘭は仕方なく、飲み物を用意して外へ運ぶ。

 予想通り、あたりには人垣が出来て、特に雷鳴と輝銀は女子男子の区別なく、鈴蘭の知らない生徒に囲まれていた。彼らの隣のテーブルに座る翡翠、ルチル、流星のところには、女子生徒が足を止めている。遠巻きに眺めながら、端末で写真を撮ってる女子もいた。

 ルチルが彼女に向かって手を挙げる。バレリアンが持っていったはずなのに、これは彼の注文なのかな、と鈴蘭は盆を持って近づいた。ルチルの隣に、どこからか椅子を持って来てバレリアンがくっついている。翡翠はいつものようににこやかだが、一番端の流星はちょっと居心地が悪そうだった。

「このパネル、好き。やっとちゃんと見られたよ」

 翡翠が言う。そう言ってもらえて、思わず鈴蘭の頬が緩んだ。するとすかさず、ルチルの脇からバレリアンが言った。

「このパネル、作ったのは鈴蘭よ」

 そう言うと、え、と声を上げて流星が鈴蘭を見た。目が合う。ちょっとドキッとした。

「見せてもらったり、できる?」

 流星は身を乗り出し気味に鈴蘭を見据えて言った。鈴蘭は戸惑って、彼の周りを見回す。

 自分に注目が集まっている。鈴蘭はそう感じた。

「鈴蘭ちゃん、お願い。流星は技法へったくそでさー。成績が掛かってるんだよ」

「なんで専修科に行かなかったんだか」

 翡翠とルチルが流星を眺めてにやにやしながら言い、それから鈴蘭に視線を向けた。

 彼らの視線が残らず自分に集まっているのを意識して、鈴蘭は緊張する。

「他にやりたい人が…」

 そう言ってあたりを見回しても、応える人は誰もいないばかりか、

「鈴蘭がやらなきゃ。だってこのブースで一番活躍したのは鈴蘭よ」と、バレリアンがにっこり笑った。

 鈴蘭は覚悟を決めて、空けてもらったテーブルの端に寄る。都合よく、卵型のグラスが乗っている。この三日間でずいぶん繰り返したことをやった。

 割れる卵と空中を泳ぐ魚が、身体をきらきらと輝かせながらパネルに突っ込む。

パネルの景色の中を魚が回遊し、今度は飛び出させてみた。流星は魚の動きに釘付けになり、動きに合わせて自分の体の向きを変えている。

 最後に魚が弾けて飛び、氷になってテーブルの上のグラスの中に音を立てて落ちた。

「うわあ、すごい」

 流星が感嘆の溜め息を吐いた。それを合図のように、テーブルで小さく拍手が起こる。

 鈴蘭は照れてあたりを見回した。

「おみごと」と、隣のテーブルにいた雷鳴が彼女に向かってにやりと笑う。

「ちょっと趣味に走りすぎだな」と、輝銀が言った。

「今は授業じゃないし、生徒のいいところを認めない教師はダメ教師」

 雷鳴が歌うように勝手な節をつけて言うと、テーブルの下で彼が雷鳴の足を蹴った。翡翠がそれを眺めて苦笑している。

 鈴蘭は椅子を勧められ、そのままそこに座った。翡翠、流星、ルチルと、バレリアン、そして入れ替わるように変わる女の子たちの会話に、なにげなく加わる。もっとも、ほとんど聞き役だったが、鈴蘭はこの場にいる自分が信じられなかった。

 ルチルの隣を離れようとしないバレリアンと自分以外、女子は入れ替わり立ち替わりで、まともにテーブルに座れる娘はいない。サルビアや、芙蓉にしてもだ。

 流星は生真面目に形成術のコツについて訊いて来るし、翡翠はその会話を取り持ってくれている。ルチルは何度か会話に加わろうとしていたが、その度にバレリアンに別の話題で引き戻されていた。

 でも、と彼女は考える。

 こんな状況、本当はずっと憧れてた。

 でも、確かに心は浮ついているけれど、それは慣れないだけで、有頂天になっているわけじゃない。初めて翡翠と、そしてリシアと出かけた時の方が、よっぽど気持ちが浮かれていた。

 実際にこんな状況になってみて初めて鈴蘭は、自分にはこうして大勢と過ごすのは得意じゃない、と感じた。

 そして、まるでリシアみたいだ、とも。



 学園祭の終わりは、ステージ前の篝火だ。

 去年は参加しなかった鈴蘭は、ブースを閉めた後にちょっとだけ篝火を眺めに来ていた。

 着替えて、サルビアたちとは別れを告げた後だ。身体にはかなり疲れを感じている。早く寮の部屋に戻って休みたかったけれど、来年は来るかどうかわからない。ちょっとだけ見ておこうと、彼女は少し離れたところから、ひとりでステージの前の篝火を眺めていた。

 ぼうっと突っ立っていると、

「ああ良かった、まだいた。鈴蘭ちゃん」

 翡翠の声だ。振り返ると彼が近づき、鈴蘭の隣に立った。あたりには行き来する生徒も多いが、疲れから来る倦怠感で、この場を見られたらどうしようと思う思考も沸かなかった。

「翡翠」と、鈴蘭は彼を見上げて笑いかける。

「今日はありがとう。ブースにもちゃんと来てくれて」

「ううん、半分は約束、破っちゃったようなもんだし」

「でも、みんなすごく喜んでた。ルチルと流星だけじゃなく、先生たちまで来たんだもの」

「喜んでもらえてよかったよ。ただ、いるだけだけど」

 翡翠も笑った。

「私、明日から学校中から妬まれると思うわ」

「大袈裟だなあ、明日から秋休みだよ。気にする人なんていないよ」

 翡翠の言うとおりだ。明日から一週間、短い秋休みだ。学園祭の片付け期間を兼ねているので、明日も鈴蘭は学校に来なくてはならない。

「人気投票、五位だったね、おめでとう」

 上位三位には入らなかったけれど、数十のブースが出る中ではかなりの健闘ぶりだ。その結果を鈴蘭はすでに聞いていたけれど、なんの感慨も湧かなかった。

「学園祭に参加したのも、パフォームも初めてで、それどころじゃなかったわ、今になって凄く疲れた」

「きょうはゆっくり休んで」

 うん、と頷いて鈴蘭はまた篝火の方へ視線を向ける。赤々とした巨大な炎が刻一刻とかたちを変えながら燃えている。火のはぜる音が聞こえそうだ。

 鈴蘭はそれきり黙っていたが、翡翠が立ち去る気配はない。けれど彼も口を開かなかった。篝火をじっと見つめる鈴蘭を眺めて、やがて翡翠が言った。

「リシア、来てくれたら良かったのにね」

 その一言に、鈴蘭は自分でも覚えず、心臓が跳ねた。彼を振り向く。そして首を振った。

「でも、最初から来ないって言ってたわ」

「だとしても、来てくれたら良かったのにね。自分は課題を手伝わせてるくせにさ」

 翡翠が困った顔で言った。鈴蘭もそれを見て苦笑する。

 翡翠の言葉は、自分が思っていた言葉だった。この三日間ずっと。でも、自分ではそれをはっきりと意識していなかった。それを翡翠に言い当てられたようで、鈴蘭は可笑しかった。それで精一杯笑おうとしたけれど、顔が歪んだだけだった。

「ほんとね。翡翠の言うとおりよ」

 口に出して頷くと、疲れていたはずの体が少し軽くなった気がした。

 少しでもリシアに見てもらえればよかったのに、と思ったのは事実だ。


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