<7>


 上級生のことも、普段話すことのない華やかなクラスメイトからの声をかけられたことも、鈴蘭の気持ちを沈ませた。自分みたいな目立たないくせに、黒い服を着続けているような女子が翡翠に近づく。それだけのことが気に入らない女子生徒が、この学校には山ほどいるのだ。

 そんな彼女の気も知らず、また端末にメッセージが届いた。

『次はどこに行きたい? また、翡翠を誘うよ。詳しく決めたいから、放課後また学習室で』

 画面を見ながら鈴蘭は溜め息をつく。

 もう、やめよう。翡翠のことは好きだけど、今までどおり遠くから見てるだけで良い。たまにすれ違って挨拶してもらえれば、その日一日がなんとなく幸せ。紫苑に責められるような視線を向けられることもなくなるし、指輪に執着してるリシアには気の毒だけど、もう、断ろう。

 それに、断るにはうってつけの理由がある。

 放課後に鈴蘭が部屋に入ると、リシアは挨拶もそこそこに、

「次はどうする?」と、彼女に言った。

「そんなの無理よ」

 向かいに腰を下ろして答えると、リシアが変な顔をする。でも本当に、もっともな理由があるのだ。

「もうすぐ試験じゃない」

「いや、そうだけど…」

 十月の半ばに行われる中間試験は、要は生徒の夏休みボケから引き戻すための試験だ。学科より実技や演習に重きが置かれる。

「勉強しなくちゃ」

「だって、後期の中間は技法の実技試験がほとんどだよ? なにを準備することがあるのさ。学科だったら授業聞いてれば十分だろうし」

 本当に不思議に思って訊ねると、鈴蘭があからさまに嫌な顔をする。

「成績優秀な先輩の言うことは違うわねえ…」

 考えてみたら、リシアは二年生の時の期末課題も首席を獲っているのだ。技法課題なんて得意だろう。

「充分てほどでもないけど、学科はいいのよ学科は。中間試験だから、ある程度取れるし」

「じゃあ、技法?」

 問われた鈴蘭は頷く。

「苦手なの?」

「形成術の演算式が苦手なの。詰めが甘いって、いつもそこで落とすの」

「ああ、なるほど」

「だから練習しなきゃいけないの」

「じゃあさ」と、リシアが良いことを思いついたというように、顔を輝かせて言った。

「翡翠に教えてもらえば? 得意だよ」

 鈴蘭は声に出さずに、えええええええと口の形を作る。それからぶんぶんと首を横に振った。

「そんなに気軽に頼めないし、頼んだとしても相手が翡翠じゃ集中できないわよ」

「じゃあ、試験前になったら翡翠には会わないってこと?」

「あのね、リシアが期末課題が大事なのと同じで、私も中間試験が大事なの。ずっとあなたに付き合って翡翠翡翠って言ってるわけにはいかないのよ」

 怒った調子で強く言うと、リシアは顔を曇らせる。その表情を見ると言い出しづらかったが、声を掛けてきた上級生やクラスメイトのことを忘れたわけではなかった。

「…だから、試験もあるし、もう止めようと思って」

「なにを」

「課題に、協力するの」

「また? 本気?」

 さらに顔を顰めて、リシアは鈴蘭の顔を覗きこむ。彼女は思わず目を反らし、頷いて、上級生やクラスメイトに声をかけられ、遠まわしに軽々しく翡翠に近づくなと言われたことを話した。

 聞き終わる前に翡翠は、小さく吹き出す。

 まさか笑われるとは思っていなかった鈴蘭は、

「なによ、その態度。もとはと言えばリシアが…!」と、言いかけて、

「ごめん」と、いうリシアの言葉に遮られる。

「きみは本当に、人目ばっかり気にしてるんだって思って。誰かを好きだって気持ちは、他の人に遠慮してたらずっと本人に伝えられないよ」

「…誰かを好きになったりしないリシアに、言われたくないわ」

「そうだけど」

 ああ、とリシアは軽く頭を振る。

「でも、僕の課題の協力してもらえないのは、ほんとに困るんだ」

「そんなに指輪が大事?」

「うん」

 リシアは鈴蘭の目を見て頷く。

「でも、リシアに悪いけど、とりあずそれはいったんお休みよ。私は他の女子にどう思われるかってリシアほど割り切れないし、それに中間試験の練習しなきゃ」

 彼は遠慮がちにそう言った鈴蘭を眺めてから、

「…演算式、どうやって勉強してる?」

「教科書と、あとは問題集と、応用は実際に形成術式をやってみてはいるけど」

 ふーん、とリシアは頷き、またしばらく考えてから、

「鈴蘭の成績が上がって、試験後は僕の課題にまた協力してくれるなら、勉強を教えてもいいよ」

「取り引きする気?」

「ちょうどいいじゃないか。校内で翡翠に会いたくないって言うなら、その間に僕もそれ以外のやり方を考えるよ。翡翠が好きなことには変わりないんだろ?」

「そうだけど…」

「技法は演算式の理論と発動力だけど、僕はどっちもAだよ」

 そう言われると、鈴蘭は言葉に詰まる。断る理由はないし、正直、彼の勉強のやり方を教えてもらえるというのには、心が動いてしまった。

「実際に、勉強のやり方を見てもらってから、課題に協力するかどうか考えるわ」

 次の日からさっそく技法を見てもらうことになり、鈴蘭はリシアと特別学習室を借りて、形成術を壁に披露して見せた。基礎的な実在の景色を壁に浮かび上がらせるのを二三度繰り返して、リシアは続いて彼女のノートをめくる。

「だいたいわかった。演算式は基礎公式の組み合わせだけど、鈴蘭はただ暗記してるだけで、理論がわかってないんだ。明日僕が一年の時に使ってた参考書を持って来るよ。でも、理論がわかってない割に再現度が高いね」

「感覚力でカバーしてるの。リシアは苦手でしょ」

 半ば冗談の、軽い気持ちでそう言ったのに、彼は図星を指されたらしく苦い顔を彼女に向けた。

「でも、僕の方が総合成績は上だし」

 その不機嫌そうな声に、鈴蘭は思わず笑ってしまう。

「二年生に対抗心を燃やさないで」

「そんなことしてない。ほら、基礎に戻ろう」

 鈴蘭はその後もリシアに渡された問題集を解き、彼に指導してもらった。

 正直、彼の普段の態度から、独りよがりな勉強の仕方を教わるものとばかり思っていたが、予想は外れた。

 リシアは彼女がどこまで理解しているのかを把握して基礎公式を教え、応用問題に必要な公式の組み合わせを、自分ではすっかりわかりきっていることだろうに、鈴蘭に理解できるよう噛み砕いて辛抱強く教えてくれた。

 意外にも説明はわかりやすく、中間試験前のまでの二週間で、鈴蘭は授業だけではわからなかったことが腑に落ちた気分だった。

「うん、だいぶわかってきたみたいだな。きみがバカじゃなくって安心したよ」

 渡された応用問題をきれいに解いたのを見て、翡翠が笑顔を見せる。

「ひどい物言いね」

 鈴蘭は鼻白んだが、リシアの機嫌が良さそうなので、この数日の間思っていたことを口にする。

「リシア、ほんとに人間関係が苦手なの?」

「苦手って言うか、まあ面倒だな、とは思ってるけど。突然どうしたのさ」

「誰も好きになったりしないって言う割には、丁寧に教えてくれたな、と思って」

「それは、まあ」と、リシアは軽く首を傾げる。

「課題の協力が掛かってるし」

「ほんとにそればっかりね」

 鈴蘭はわざと大袈裟に顔を顰めた。

「で? 僕の親切かつわかりやすい教えのおかげで、課題に協力してくれる気になった?」

「まだよ」と、鈴蘭は容赦なく言った。

「試験が終わって、成績が出たらね」

 今度はリシアが顔を顰める。けれど鈴蘭はその態度に笑ってしまった。



 中間試験の後に、成績表を渡されるついでのような短い面談がある。

 それでリシアは今、輝銀の教務室で机を挟んで座りながら、自分の成績表を一通り眺めた。完璧とまではいかないが、まあ申し分のない結果だ。卒業試験もこの成績をキープしたい。そう考えながら成績表を閉じて、一度机に置く。

 すると自分の担当教官と目が合った。

「期末課題の成果、もう出てるんじゃないか」

 彼はそういいながら薄く笑う。課題の進み具合についてなにかしら言われると覚悟していたリシアは、表情を変えずに、

「そうですか?」と、首を傾げた。

 得意教科は相変わらず満点に近く、Aが並んでいたけれどずっと苦手だった感覚力が伸びている。今までB以上になったことがないのに、Aマイナスだった。

 三年のこの時期に珍しい、と輝銀が言った。

「でも、期末課題のおかげだとは限りませんよ。僕の努力の賜かも知れないし」

 涼しい顔でそう言うと、輝銀は肩を竦める。

「強情だな。でも、良い傾向じゃないか。推薦も有利になるぞ。それで、課題の進み具合は」

 リシアは溜め息を吐く。

「そんなに簡単じゃないみたいです。一緒に出掛けるくらいならどうにでもなるけど、翡翠があの変わり者のことを好きになるかっていうと、そうでもなくて。嫌いでもないでしょうけど」

 なんで僕、こんな課題なんだろと、彼は深く溜め息を吐く。その様子を眺めて輝銀が笑った。

「課題を変えなかったんだから、首席で通りたければこのまま続けるしかないよな」

 リシアは苦笑して見せる。

 面談が終わり、成績表をもらって部屋出てから、何気なく端末を見ると珍しく鈴蘭からのメッセージが届いていた。

『成績表戻って来た! リシアに報告したいから、放課後図書館まで来て』

 目を通すだけで鈴蘭の興奮が伝わってきて、彼は思わず頬を緩める。わかった、と一言だけ返信すると、絶対よ、と念を押すメッセージがすぐに届いた。



「リシア」

 図書館に入ると、待ち構えていた鈴蘭が声をひそめて彼を呼んだ。いつものように学習室に入ると、扉を閉めた直後に鈴蘭は成績表を取り出して、リシアに突きつける。

「ありがと、リシアに見てもらった技法、Aマイナスだった!」

「マイナス? 僕が教えたのに? Aプラスでなくちゃ困るよ」

 リシアはわざと顔を顰めて見せたが、上機嫌な鈴蘭につられて結局笑ってしまった。

「今までBマイナスより上だったことないから、凄いって。担任にも褒められちゃった」

「それは良かった。協力した甲斐があったよ。それで、これからもまた僕の期末課題に協力してくれる気になった?」

 リシアがそう言ったので、鈴蘭は浮かれた気分から現実に引き戻される。

「もうちょっと、一緒に喜んでくれても良いのに…」

「僕が教えて、成績が上がらないわけないよ」

「そう言われても、これから学園祭と準備期間よ? どうやって協力するの?」

 鈴蘭の言葉に、今気づいたというような表情でリシアが顔を上げる。

 彼女の言葉の通り、これから二週間の準備期間の後に、学園祭が待っている。

 そのせいで中間試験が終わると、学院内の雰囲気は急激に変わるのだ。なにがどう、とはっきり説明できないのだが、どことなく浮き足立った気配が立ち込める。

 学園祭は十一月の第一週だ。学園祭と言っても生徒のための催しと言うより、対外的な学校宣伝の要素が大きい。三年生を除いて全員参加だし、学院には人が溢れ、ステージイベントや模擬店は注目の的だ。

 最もお祭り騒ぎを好まない生徒のための逃げ道もちゃんと用意されていて、研究発表などでお茶を濁しても良い。その研究は少し手直しすれば、期末試験の自由課題に流用しても良いことになっている。去年は鈴蘭も、そしてたぶん翡翠もそれを利用していた。

 反対にパフォームやステージイベントに参加して、学校の宣伝に加わるような目立つ生徒は、学園祭の時期は大いに張り切る時だ。

「そうか、僕らはいいけど、鈴蘭は参加しなくちゃいけないんだな」

「そう。去年みたいにラクなのを選んで、当日は来ないつもりだけど」

「鈴蘭が去年みたいに翡翠と同じ委員会に入れれば良かったのになあ」

 リシアが顔を曇らせる。

「翡翠は今年、参加しないって? そんなにお祭り騒ぎが好きじゃなさそうだものね」

「それは聞いとく。あとさ、十一月、翡翠の誕生日だよ」

 言葉の途中でリシアが顔を上げて言った。

「知ってるわよ。確か、三十日でしょう」と、鈴蘭は頷いた。

 好きな人の誕生日くらい、どこかしらで聞いて知っているものだ。

「リシアが知ってる方が驚きよ。友だちの誕生日なんて覚えてるのね。そう言うのあんまり興味なさそうなのに。ほんとに翡翠とは仲が良いのね」

「というか、月が一緒だから」

 そう答えてから、余計なことを言った、とありありとわかる表情でリシアが顔を反らす。

「なにが?」と、鈴蘭は彼の顔を見つめた。

「…僕と」

 どことなくぼやかした言い方だったが、鈴蘭にはわかった。

「リシアも十一月が誕生日なのね。何日?」

「…十一日」

 しぶしぶと言った表情で、彼が答える。鈴蘭は笑った。

「一が並ぶ日なのね。でも、残念だわ、秋休み中じゃないの」

 学園祭が終わったら、後片付け期間でもある一週間足らずの短い秋休みがあるのだ。

「残念てことはないだろ」

「おめでとうって、言えないわ」

「そんな必要ないよ」

 リシアが少し呆れたように笑う。それから思いついたように、

「その気持ちがあるなら、課題に協力してくれれば」

「ほんとにそればっかりね」

 鈴蘭は苦笑した。リシアは構わずに話を戻す。

「翡翠の誕生日、どうしたい?」

「何をプレゼントしたら喜んでもらえると思う?」

「あげなくても良いくらいだと思うけど。翡翠は一杯もらうだろうし。でも、そういうわけにもいかないかな。学園祭の期間中に、なにか対策を立てるよ。僕はいいけど、鈴蘭は参加しなくちゃならないしね。このままだと学園祭が終わって秋休みが終わるまで、会う機会がなくなっちゃうんだよなあ。一ヶ月近く間が空くのはきついなあ」

 リシアは頬杖をつき、浮かない顔をする。

 鈴蘭は何かを考え込むように黙ってしまった彼をしばらく眺めていたが、リシアがこちらに目も向けないのがわかると、

「ねえ」と、窺うように気になっていたことを切り出した。

「リシアは学園祭、参加するの?」

 彼が鈴蘭を見て、小さく笑うと首を振った。

「しないよ。そもそも学校に来ない」

「そう…」

「リシア、去年はなんだったの?」

「…片付け係」

 ちょっとだけ言い難そうに言った彼に向かって、鈴蘭は思わず吹き出す。

「私や翡翠よりやる気ないじゃない。でも片付け係じゃ、秋休みに実家に帰れなくなっちゃうわ」

「言っとくけど、一年の時もだよ。秋休みに帰省しないから、別にいいんだ」

 きっぱりとした返事に、鈴蘭は俯く。彼は腕を組むと再び考え込み、

「今は、なにも思い浮かばないな。悪いけど近いうちにまた声掛けるよ。学園祭の期間中、どうにかしないと」

 鈴蘭は頷いて、その日はそれでリシアと別れた。その頃には、彼のおかげで成績が上がって浮かれていた気持ちはすっかり消えていた。


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