<5>
自分は完全に浮かれていた、と鈴蘭が思い知ったのは翌日だ。
「鈴蘭」
朝の登校中、目の前に学校が見えるところで声が聞こえたので振り向くと、白いブラウスと薄灰色のスカートの女子が、長い髪を揺らして足早に近づいてきた。
「おはよう、紫苑」
相変わらず黒い服の鈴蘭は立ち止まって、クラスメイトの彼女が近づくのを待った。紫苑が並んだので、鈴蘭は歩き出す。
そんな彼女を紫苑はいつもとは違った、少し心配そうな表情で覗き込んだ。眼鏡の奥で、大きな深紫色の目が光る。頬にかかる艶やかな長い髪は、彼女の名前の通り紫苑色だ。
「どうしたの?」
探るような視線に、鈴蘭は首を傾げて彼女を見つめる。校門を通り抜けながら、紫苑が言った。
「ねえ鈴蘭、昨日の放課後、翡翠と一緒にいなかった?」
「いた、けど…」と、鈴蘭が反射的に頷くと、途端に紫苑の目に好奇心の色がありありと浮かんだ。
紫苑は学院で最も仲の良い友だちだ。
でも、彼女にはリシアのことも翡翠のことも、今まで話していなかった。
昨日の放課後は、リシアに言われるままに学校の外で待ち合わせ、近くのバス停からバスに乗ったから、誰かしら見ていた生徒がいても不思議じゃない。それに翡翠は学院の中では目立つし有名人だ。
「でも翡翠とふたりだったわけじゃないのよ」
彼女の表情を見ていると、何も話していなかったことが後ろめたく感じられて、鈴蘭は考える前にそう言った。
実は紫苑には、だいぶ前に翡翠のことが気になっていると話してはいたのだ。でも、それだけで、去年の委員会以来、遠くから見かけたり、たまにすれ違う時に会釈する以外に、今まで接点なんてなかった。
「噂になってる?」
「ちょっとだけね。鈴蘭たちを見かけた上級生が、私と同じ寮なのよ。話してるの聞こえちゃって。黒い服の知らない女子って言ってたから、まあ鈴蘭かなって思って」
ああ、と鈴蘭は納得した。紫苑は鈴蘭ともリシアとも違う、西寮の寮生だ。
「話してなくてごめんね、実は私にも事情が良くわかってなくて、上手く言えなかったの」
そう話している間に、校舎にたどりつき昇降口を通りすぎ、階段を上り、教室についていた。続きは昼休みね、と鈴蘭は言って午前中を過ごし、昼休みに広々とした第一食堂の隅のテーブルで紫苑と向かい合う。鈴蘭は弁当、紫苑は日替わり定食だ。彼女はリシアに声を掛けられたところから、昨日のことまでかいつまんで話す。
「リシアって誰?」
食事中は髪を後ろでひとつに束ねた紫苑が、首を傾げてそう訊ねた。
「翡翠の隣のクラスの三年生。いつも一緒にいるグループじゃないけど、親しいみたい。私も声掛けられるまで知らなかった」
彼の課題を手伝って欲しいと言われたこと、それで翡翠を誘って三人で出かけたこと、そこまでは話せたが、
「で、課題ってなんなの?」と言う、紫苑の最もな質問に、鈴蘭は言葉に詰まった。
(私の恋に協力すること、なんて)
言えるわけない、と鈴蘭は思い、
「実は」と、目を反らしながら続けた。
「私も良く知らないの。ほら、三年の期末課題って突飛なものが出るって話、紫苑も聞いたことあるでしょ? リシアにも良くわかってないらしくて」
「ふうん」と、紫苑は頷きながらも眉を顰める。
「そんなあやふやなのに、協力するなんて返事しちゃったの?」
彼女の言葉に鈴蘭の鼓動が早くなる。確かに、見ず知らずの三年生にいきなり期末課題に協力してくれと言われたって、それに頷く理由なんてない。鈴蘭は必死に言い訳を探した。
「ほら、だって私たちも来年通る道でしょ? なにかしら参考になるかと思って」
「そうだけど…」
綺麗に食事し終えた紫苑は、皿の端にスプーンと箸を揃えた。彼女は本当に食べ方が綺麗だ。昼休みは一緒のことが多いけれど、いつでも鈴蘭は一瞬それに見惚れてしまう。
「ねえ、からかわれてるんじゃないの?」
鈴蘭は紫苑のその言葉で意識を彼女に引き戻された。
「えっと…」
「その、リシアって三年生に」と、彼女は食事の盆を脇に押しやり、鈴蘭の方へ身を乗り出す。
そう言われると、初めて声を掛けられた日の、通りがかった翡翠にいとも簡単に嘘をついたリシアのことが、鈴蘭の胸の内に甦った。
「そんなことしても、リシアにはなんの得もないと思うけど…」
首を振りながらそう言うと、紫苑は、
「まあ、いいけどね」と、肩を竦めた。
「リシアって三年生ならいいんじゃない。ただ、翡翠と一緒にいるのは目立つわよってだけ」
そう言われたのにその後、授業が始まるので教室に戻ろうとした時、鈴蘭はリシアに声を掛けられた。放課後、また図書館の学習室に来て欲しいというのだ。
隣に立った紫苑の視線が気になったので、鈴蘭は頷いたものの、かなり素っ気ない態度を取ってしまった。
リシアはわずかに驚いた顔をしていたが、申し訳ないと思う気持ちにはならなかった。
「今日も行くの?」
帰り際、紫苑が怪訝そうな顔を鈴蘭に向ける。その時、本当は行かないで紫苑と一緒に帰りたかった。そうすれば紫苑は納得してくれると、わかっていたからだ。
けれど彼女には、リシアの課題の内容を伝えていない。少なくとも今日は彼に会って、課題に協力するかしないかを伝えなくてはならない。
「うん、協力するって、約束しちゃったし」
「でも、無理やりでしょ? 上級生だからって、断ればいいのに」
「そうね、だから今からちょっと話し合ってくる」
紫苑と別れて図書館へ向かった鈴蘭は、わざと閲覧室で時間を潰して、少し遅れてから学習室へ入った。
座って待っていたリシアが顔を上げる。会釈はしたものの、鈴蘭は笑えなかった。
「機嫌が悪いね」
彼女が座るのを待って、リシアがテーブルに頬杖をついて言った。鈴蘭は両手を組んで、
「私…、軽く考えてたかも」と、俯きがちのまま言った。
「なにが? 翡翠のこと?」
「っていうか、リシアの課題に協力すること。昨日の放課後、リシアと翡翠と出かけたこと、もう噂になってる。紫苑も知ってたし、たぶん三年生の間でも知られてると思う」 鈴蘭は紫苑に言われたことを詳しく話す。リシアは黙って聞いていた。
「正直浮かれてたの。自分で気づいてなかったけど、リシアが一緒とは言え、翡翠と出かけられるって、舞い上がってた」
彼女は右手で左腕に触れた。翡翠が自分を転ばせないよう掴んだところだ。
「それに水を差されて嫌な思いしたから、僕のせいだってわけだね」
「そうじゃないけど…」
そうは言ったものの、考えていたことを見透かされ、鈴蘭は決まり悪くなって黙りこむ。リシアもそんな彼女を見たまま何も言わない。その沈黙に耐え切れなくなって、
「もともと」と、鈴蘭は口を開いた。
「別に付き合いたいとか、大それたこと、思ったこともなかったし…」
「怖気づいたの?」
「翡翠がどれだけ高嶺の華かって、垣間見た気分よ。翡翠が私のこと好きになってくれるかどうかはともかく、これ以上、冴えない黒い服の変な二年生と一緒にいるのを見られたら、どんな女子に目をつけられるかわからないし、それに紫苑も良く思ってないみたい」
「あの、薄紫の髪の女子かな。昼間一緒にいた」
「そう」
「自分の気持ちより、友だちの目が気になる?」
そう言われて、鈴蘭は溜め息を吐いた。
「バカバカしいと思うかもしれないけど、私、こんなだし」
と、彼女は自分の黒い装いを指しながら続ける。
「友だちって、あんまりいないの。仲良いって言えるのは紫苑くらいで。だからできれば、彼女が嫌だと思うことをしたくないの」
そう言って俯いた鈴蘭を眺め、リシアはわざとらしく溜め息を吐く。
「それって、つまりどういうこと?」
「もう、課題には…」
「それは出来ないな」
鈴蘭の言葉を待たず、リシアはきっぱりと首を振った。それから彼女の方へ身を乗り出す。
「始まってからまだ二週間も経ってないし、翡翠と出掛けたのだって、僕を含めた三人でだろ。友だちにちょっと嫌な顔されたくらいで、諦められちゃ困る」
「指輪のため?」
「そうだよ」
リシアが力強く頷く。
「そうは言っても、どうなったら優秀な成績ってことになるの? 翡翠が私を好きになったら? それとも付き合ったら?」
「どっちもが、ベストだとは思うけど」
「でも、好きじゃなくても付き合えるし、付き合ってなくても両思いってこともあるでしょ。今の私のことじゃないけど」
「うーん」と、リシアは難しい顔で考え込んでしまう。
「ほんとはこういうの、得意じゃないからなあ」
「得意じゃないって…」
無責任ね、と鈴蘭は顔を顰めた。
「そうだね、白状すると、きみと似たようなもんだよ」と、彼は気まずそうに言った。
「僕、友だちはほとんどいない。誰かとつるんだりするの、好きじゃないんだ。人間関係って、苦手だし、面倒くさくて」
「なのに翡翠とは友だちなの?」
「同じクラスじゃないし、同じグループでもないからかな。あと、趣味がちょっとだけ似てて、適度に距離が取れて、そういう話ができる奴、学院では他にいないから」
そう言ったリシアを見ながら、鈴蘭は紫苑の言葉を思い出す。
(からわかれてるんじゃないの?)
リシアにはあの時、何の面識もないのに突然声を掛けられて、相手は上級生だし、課題だと言われた上に、翡翠のことまで言い当てられてしまって、完全に動揺してしまった。
その後に課題の札を見せられて、すっかり課題のことを信じてしまったのだ。
でも、あの札は課題が消えた後で無地だったし、その後リシアが悪びれることなく翡翠に嘘をついたのも見ている。
リシアにとっては翡翠は特別と言っていいほどの存在なのに、そんな彼にも平気で嘘がつけるのだ。自分にも嘘をついていない証拠はない。
「課題が本当だって言うなら」と、鈴蘭は言った。
「翡翠がどうして彼女を作らないのか、理由を聞いてきて」
リシアが露骨に顔を顰める。でも、鈴蘭は怯まなかった。
「だって、課題の達成に重要なことでしょ」
「翡翠とそういう話、したことないんだよ。翡翠もするの好きじゃなさそうだし」
「じゃあ、なにか理由があるとして、まったく見込みのないことに私を付き合わせる気なの?」
「そういうわけじゃないけど」
「一番重要なことでしょ。それをちゃんと、翡翠の口から理由を聞いてきてくれたら、リシアのことを少し信じても良いし、課題に協力するかどうか、考えてみても良いわ」
「それで少し?」
割に合わない、とリシアがぼやく。けれど鈴蘭は譲らなかった。リシアは少しだけ険しい視線を彼女に向ける。けれど鈴蘭の方をそれを受け止めたまま、目を反らさなかった。
やがてリシアの方が先に目を反らし、
「わかったよ…」と、小さく溜め息を吐く。
「翡翠に聞いとく。それをちゃんと、きみに伝えるよ」
彼は鈴蘭の方を向き、しっかりと目を見てそう言った。その言葉に鈴蘭は気持ちが少し和らいで、
「ねえ、リシア、苦手って言ってるけど、そんなに難しく考えないで自分に置き換えてみてよ。リシアは彼女はいる?」
「いないよ」と、彼はすぐに首を振る。
「でも、好きな女子はいるでしょ?」
「いない」
「じゃあ、今まで好きになった女の子くらいは」
「いないよ」
彼はまたすぐに否定して首を振った。あまりにもきっぱりした物言いに、鈴蘭が戸惑っていると、
「僕、誰も好きになったりしないから」と、言って小さく笑った。
その調子は得意気でも自嘲気味でもなかった。淡々と事実を伝えた、そんな口調だ。
「なに、それ…」
「言った通りだよ」
彼はそう言って肩を竦める。
「僕にとって重要なのは、課題を学年で誰よりも早く、良い成績で修了することだけ。だからきみが翡翠を好きな気持ちがどんなものなのか、僕にはよくわからない。でも僕は指輪が欲しいから、全力できみをサポートするよ」
鈴蘭は少し納得のいかない表情で頷き、リシアに翡翠のことをもう一度念を押した。
数日後の放課後、紫苑と廊下を歩いている時、端末が震えた。
ごめん、と断ってから画面を見ると、リシアからのメッセージが入っている。
『翡翠といるからおいで。三年の校舎に一番近いテラス』
それを見て鈴蘭は、隣の紫苑のことを一気に忘れて動揺した。確かに何日か前に言ったけど、私を呼べとは言ってない。
モニタを見ながら表情をめまぐるしく変えていたらしい。
「鈴蘭?」
顔を上げると紫苑がこっちを見ている。
「えっと、リシアが…」
「またあの三年? まだ連絡来るの?」
顔を曇らせて紫苑が言った。鈴蘭は曖昧に頷く。もし、リシアだけだったら断りたかったが、翡翠もいるとなると心が揺れた。
『友だちの目が気になる?』
翡翠の言葉を思い出す。そうだ、紫苑にどう思われるかよりも、翡翠と会いたい気持ちを優先したっていいはずだ。
「翡翠もいるみたいだから、こないだのお礼を言いたいから、ちょっとだけ行ってくるわ」
気がつくと鈴蘭はそう答えていた。紫苑は一瞬、打たれたような表情になったが、
「そう」と、だけ頷いた。
昇降口までの短い間、紫苑は口をきかなかった。いつもどおりじゃあねと言って別れて彼女に背を向けた瞬間、鈴蘭はやっぱり止めとけば良かった、と一気に後悔した。
けれど足はテラスに向かう。二年生の多くが使うのとは別の、三年の校舎に面した中庭にあるテラスだ。生徒が使えるように、テーブルと椅子がやや乱雑に並んでいる。
普段は三年生が多いので、気持ちの上では敷居が高いが、実際に行ってみると鈴蘭に注目が集まることはなかったし、メッセージのとおりリシアが本当に翡翠と同じテーブルに座っていて、すぐに彼女の姿に気づいて手招きしてくれた。
「鈴蘭ちゃん、まだリシアの課題に付き合わされてるの?」
テーブルに近づいて空いた椅子に座ると、さっそく翡翠が彼女の顔を覗きこんで苦笑した。
「当たり前だよ。期末課題が一日二日で終わるわけないって、翡翠だって知ってるだろ」
「おれ申請もまだだよ。今月中にはするつもりだけど。でも、リシア詳しい課題の内容を教えてくれないんだもん。おれたちはこうやって付き合わせるくせに」
翡翠は多少咎めるような視線でリシアを見た。ふたりの間にちょっと沈黙があったので、鈴蘭は翡翠の方を見る。
「あの、翡翠、一昨日はありがとう…。帰り、送ってもらったし」
「別にいいよ。誘ったのはリシアだし」
「それでさ、翡翠、また課題に関係あることなんだけど」
と、リシアが翡翠の方へ身を乗り出す。
「翡翠はどうして彼女、作らないの?」
突然の言葉に、鈴蘭は思わず肩を震わせた。翡翠はわずかにだが眉をひそめてリシアを見ている。
「なに、急に。それ、課題と関係あるの?」
「うん」
本当かなあ、と翡翠は怪訝な顔をしたが、リシアは淡々と続けた。
「だって、翡翠のこと好きな女の子はたくさんいるのに、翡翠は誰とも付き合わないじゃないか」
「おれはルチルみたいなことはできないんだよ。ねえこれ、ほんとに課題と関係あるの?」
言葉の途中で翡翠は鈴蘭の方を向いて訊ねる。鈴蘭はやや青ざめながら首を振った。
「私にも、課題の内容までは教えてくれなくて…」
「それなのに協力してるなんて、お人好しだねえ」
翡翠は苦笑する。
「郷里に婚約者がいるって噂もあるよね」
「ああ、それ」
リシアの言葉に、翡翠が途端に表情を変えて彼を指差す。
「二十年前までほんとにその習慣が残ってたんだよ。おれの父親が前の奥さんと結婚したのは、生まれた時に親に決められてた人だって。二十年前だよ。信じらんない。姉さんたちは犠牲にならなくてよかったよ」
「お姉さんがいるの?」
「うん」と、翡翠が頷く。別に秘密でもなんでもないらしい。
「母親が違うんだ。上とは十歳、下とは八歳離れてる。すごく可愛がってもらった。もうふたりとも結婚したから、年に何度も会わないけど」
「家族仲はいいの?」
「まあまあだと思うよ。上の姉と母は、さすがに本物の親子みたいにってわけにはいかないけど。姉弟仲は悪くないよ。鈴蘭ちゃんは?」
「私は三歳下の妹がひとり。リシアは? ご兄弟はいるの」
話の流れで、視線を移して訊ねた鈴蘭に向かって、
「いないよ」と、彼は素っ気無く首を振る。
その冷たい返事に、鈴蘭は自分がまずいことを聞いたのだとわかった。
けれどリシア自身すぐにそれに気づいて、悪戯っぽい表情を浮かべると、
「婚約者がいるってのはデマだけど、彼女つくる気もないってことだね」
「うん」と、翡翠が小さく笑う。
「それどころじゃないんだ」
そう言うと彼はリシアから鈴蘭へ視線を移し、目が合うと改めて笑った。
その笑顔は優しかったけど、鈴蘭はこんなことを言う翡翠に好きになってもらえたり、彼女になれたりなんて、考えられない、と思ってしまった。
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