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 約束の日まで一週間ある。その間に対策を立てようと、リシアは翌日の放課後、図書館の中にある学習室に鈴蘭を呼び出した。お互いの端末のアドレスは、翡翠を誘った後に交換している。

 学習室は図書館の中にある施設で、受付で申し込めば複数人で使える部屋だ。喋ってもいいし、特別学習室では技法の練習をしても良い。

「それで」と、鈴蘭と向かい合って座り、リシアは言った

 今日の彼女は黒い七分袖のブラウスに、スカートだ。それにジレを合わせている。

「きみは翡翠と、どの程度親しいの?」

「…なんでそんなこと、あなたに言わなきゃいけないの?」

 顔を顰めて放たれた不服そうな言葉に、リシアは目を上げる。彼女は続けた。

「昨日は突然だったし混乱してたし、今日も言われたからここまで来たけど、よく考えたらあなたに協力してもらう必要なんてあるかしら」

「仕方ないだろ、課題なんだから」

「あなたの課題で、私の課題じゃない」

「つまり、迷惑ってこと?」

「そこまでじゃないけど、急すぎて…」

 リシアは息を吐いてから、椅子の背にもたれた。ここで彼女との関係に失敗したら、課題の成績どころじゃなくなってしまう。心の中で面倒だな、と思わないこともなかったが、課題課題、と言い聞かせて、彼は鈴蘭のほうへ身を乗り出した。

「確かに、課題のことで頭が一杯で、焦ってた。きみの気持ちを無視したことは認めるよ、ごめん」

「期末課題の提出って、年明けからでしょう? 三年生はもっと早いの?」

「いや、年明けからだよ。でも、一番に出したいし、課題が課題だったから、きみが翡翠と一緒になる機会を作ればいいかと思って、とっさに誘っちゃったんだ」

 ごめん、ともう一度言うと、鈴蘭の表情が少し柔らかくなる。ただしかめ面ではないだけで、困ったような表情は相変わらずだ。

「あなたは翡翠と親しいの? ルチルや流星と一緒にいるところは良く見かけるけど」

「うーん、まあクラスも違うし、あの二人みたいにいつも一緒にいるとは言えないけど、悪くもないと思うよ。翡翠にだって、いつも一緒にいるグループじゃない友だちくらいいるよ」

 それもそうね、と鈴蘭が頷く。彼女の様子を見ながら、ものは試し、とリシアは続けた。

「きみが翡翠と会ったのは? 去年の学園祭の委員会が最初?」

 鈴蘭は頷く。

「もちろん校内じゃ有名人だから、見かけて知ってはいたけど。委員会で一緒になったの。名簿は見たのよね。展示の担当だったから、やることも大してなかったけど、何年がどの教室を使うかとか決める打ち合わせがあるでしょ、それで顔会わせて、何回か喋ったの」

「それだけで好きになっちゃったんだ」

 その程度の関わりで翡翠に恋する女子生徒がたくさんいることはわかっていたが、思わず呆れた調子が滲んでしまった。鈴蘭は敏感にそれを感じ取り、再び顔が険しくなる。

「でも、遠くから眺めただけで翡翠に夢中になる女子もいるからね」

 と、リシアは内心で慌てて付け足した。鈴蘭は、

「それだけじゃないの。私のこの服、翡翠は誉めてくれたの」と、強い口調でそう言って、衿元を手で押さえた。

 昨日も今日も真っ黒だ。「それなんだけど」と、リシアはぼそりと言った。

「どうして毎日黒い服着てるのさ」

 探すとき役に立ったけど、と言う言葉は心の中だけで呟く。そして彼は鈴蘭の全身を一通り眺めた。

 学院には制服があるが、着用は自由だ。男女とも上下が三種類ずつくらいあって、どれを着てもいいし、私服と組み合わせても良いし、着なくても良い。生徒の制服着用率は半々くらいで、やや着用組が多いというところだ。一応名門校なので、制服を着たがる生徒も多いのだ。反対に、毎日私服で通学している生徒だっている。

 けれど鈴蘭のようにそれが毎日同じような服、と言うのも珍しい。

「自分でも、理由はよくわからない。黒い服が好きなの」

「好きだからって、毎日毎日ずっと着る?」

「うーん、なんて言うか」

 リシアの茶化すような言葉に、けれど鈴蘭は真剣な表情で考え込んだ。

「黒い服ならなんでも良いってわけじゃなくて、こういう格好が好きなの。気持ちがしっかりして、自分が少し良くなったみたいな気持ちになれるの」

「着るものは気持ちに変化をもたらすって言うからねえ」

 あまり同感する気持ちにはならなかったが、リシアは一応、相槌を打った。すると鈴蘭が嬉しそうに笑う。

「だから翡翠に誉められて嬉しかったの」

「翡翠も制服、着崩すの好きみたいだからね」

 リシアは彼の姿を思い出しながら言った。翡翠もブレザーやトラウザーズなど制服を着ていることもあるが、着ていないことも多い。そして流行とはちょっと外れた、カジュアルになりすぎない服装を好んでいる。

「普通はダサいとか、変な奴って言われるのに」

「言われたことあるんだ」

 鈴蘭が頷いた。

「目立とうとして失敗してるって、陰口叩かれてるみたいよ。確かに学院でちょっと浮いてるのはわかってるんだけど」

「でも、止めないんだね」

「これを着ないと力が出ないの」

 鈴蘭はそう言って悪戯っぽく笑う。

「あとね、服を誉められたことだけじゃなくて」

 と、彼女はちょっとはにかんだように続けた。

「私、一度、委員会の集まりの時間を勘違いしてたことがあったの。そうしたら教室まで翡翠が呼びに来てくれて。教室の女子みんなが翡翠を見てた。それから一緒に委員会に行ったんだけど、みんなの注目を浴びて、正直、ドキドキしたわ」

「ふーん」

 服の話ほどには彼女の気持ちがわからなかったので、リシアはつい、つまらなそうな返事をしてしまう。でも今の言葉で彼にもわかったことがある。

「つまり、きみは翡翠のことが好きってことだね」

 そう言うと鈴蘭は我に返ったような表情で、顔を赤くする。

「…『きみ』じゃなくて、鈴蘭よ」

「じゃあ、鈴蘭」

 リシアは顔の前で両手を組むと、彼女の目を見て言った。

「翡翠とのこと協力するから、鈴蘭も僕の課題に協力してほしい」

「でも別に、翡翠と付き合いたいとか、そんな大それたこと、考えたこともなかった。あんなに人気があるのに、今まで彼女も作らない翡翠が私のこと好きになってくれるなんて、考えられない」

「でもきみはいつも黒い服だしこだわりがあるし、翡翠のこと好きなその他大勢とは全然違うだろ。翡翠の趣味もちょっと変わってるから、案外鈴蘭の方が望みがあるかもよ」

 さらりと言うと、鈴蘭が少し驚いたように目を瞠り、それから少し顔を赤くした。

「よく、平気でそう言うことが言えるわね…」

「指輪が掛かってるからね」

「そう言えば昨日、翡翠にも嘘ついてたものね」

 誘い文句を思い出しながら、鈴蘭は苦笑した。

「指輪が掛かってるからね」

 リシアがもう一度繰り返す。

「そんなに指輪が大事?」

 鈴蘭が彼の顔を覗き込んで訊ねると、リシアは左手を持ち上げて、人差し指に嵌った二連の指輪を見つめた。

「うん」と、彼が深く頷く。そして顔を上げて鈴蘭を見た。

「だから水曜はよろしく」



 鈴蘭が心の準備をする間もなく、あっという間に次の水曜日が来てしまった。午後は学院全体での教職員会議とやらのため、授業は午前中だけだ。

 ホームルームを終えた鈴蘭は、裏門近くの待ち合わせ場所に急いだ。そこには既にリシアと翡翠が立っていた。彼女を見ると、翡翠は笑顔で小さく手を振る。

 鈴蘭の胸が高鳴った。男の子と出掛けるなんて、初めてだった。ましてや上級生のふたりとなんて。彼女は今さらながら、それを思い出した。

「お待たせして」

 鈴蘭は緊張気味に言ったが、翡翠は笑って、リシアも気にした様子はなかった。

 天文館のそばでお昼と食べようと話が決まり、異存はない、と鈴蘭が言うと、

「じゃあ、行こう」と、リシアが言った。

 学校の裏通りのバス停から町を走る、黄色いバスに乗る。平日の昼間だから車内は空いていて、座席に座る時リシアがさりげなく鈴蘭を翡翠の隣に座らせた。

「その鞄」と、翡翠が鈴蘭の膝に乗せた鞄を指さす。

「黒いけど、よく見ると王冠型なんだね」

「そうなの。今日は授業少なかったし、出かけることになったから、これにしたの」

 気づいてもらえたことに嬉しくなって、鈴蘭は膝の上の鞄に両手を乗せて、笑顔で彼を見上げた。そんな彼女に、翡翠も優しい笑顔を浮かべる。

「鈴蘭ちゃん、ずっと黒い服を貫いてて、安心したよ」

「そんな信念があってやってるわけじゃないけどね」

 照れくさくなりリシアを見ると、彼は鈴蘭たちから顔を反らして窓の外を見ていた。

 十五分ほどでバスを降りると、辺りは住宅街だった。鈴蘭は来たことがない場所だ。緑が多く、晴れているし、初秋の気温は程よく、気持ちが良い。

 並んで歩く時にもリシアはまたもさりげなく一歩下がって、鈴蘭と翡翠が並ぶようにしてくれた。翡翠は翡翠で、後ろを歩くリシアにも振り返って話しかけ、彼がひとりの気まずさを味わわないように気を使っている。

 鈴蘭はそれがわかったが、自分は気持ちが高ぶって、ふわふわと宙を浮いているような気分だった。そのせいか翡翠の言葉に答えながら歩くのに精一杯で、ふたりに気を使う余裕はなかった。

 天文館は赤煉瓦の塀に囲まれた、趣のある建物だった。鈴蘭は施設の存在は知っていたけれど、訪れるのは初めてだ。

 手前に漆喰壁と木造の入り口、奥にコンクリート打ちっぱなしの建物がある。古い洋館を増築した建物だと、翡翠が教えてくれた。

 チケットを買う時に、上映時間が差し迫っているのがわかった。お昼はあとだね、と話が決まり、中へ入る。古い木材と、かすかに黴の匂いがした。廊下は広々しているが、古い建物のせいか一歩ごとにわずかだが軋んだ音を立てる。

 鈴蘭は翡翠とリシアに促されて、古めかしい字で仰々しく『第一展示室』と書かれたプレートの部屋へ入った。

 重たい二重扉の向こうは、古い映写室だった。窓が無く、照明は薄明るい橙色の光だけだ。木造の装飾的な客席が、円形天井の下に並んでいる。中央に夜空を映す機械が据えてあった。客は三人のほかに誰もいない。

「変わってないねえ」

 室内を見回して、翡翠がのんびりと言った。

「そりゃそうだろ。前来た時から一年も経ってないし、改修したって話も聞かないし」

 リシアが答える。鈴蘭がふたりに顔を向けると、翡翠と目があった。

「古い建物、ずっと使ってるんだよ。鈴蘭ちゃん、どこに座りたい? どこに座っても、けっこう楽しめるよ」

 彼はそう言ってくれたが、鈴蘭にはわからなかったので、リシアと翡翠に決めてもらった。奥の席の中央と壁の間くらいの場所に、三人で席を占める。

「こんなに空いてるのに、固まって座るのも変だよな」

 一度座ったリシアが立ち上がる。

「言われてみれば、そうだね」

 翡翠が言い終わらないうちに、リシアは立ち上がって室内をうろうろしている。鈴蘭は翡翠の隣に座っていたが、リシアの行動は課題のためで、だったら翡翠まで離れたところに座られたら困る、と彼女は口を開いた。

「翡翠はここに、何回くらい来たことあるの?」

「五、六回かなあ。見つけた当初は楽しくて、季節ごとに上映プログラムが変わるから、通ってたんだ」

「リシアも?」

「うん、だいたい一緒だね」

 翡翠は鈴蘭の方へ顔を寄せて話し、距離が近くなって鈴蘭の胸は高鳴った。明るい部屋じゃなくて良かった、と彼女は膝の上で拳を握る。リシアの姿を探すと、中央の映写機に近いところにひとりで座っていた。

 そろそろ時間だ、と思っていると、天文館のスタッフが入ってきて、短く挨拶して出て行くと、部屋の明かりが落ちた。

 プログラムは鈴蘭が初めて見るものだった。天井だけでなく、壁や床すべてに天体が映し出され、自分が星空のただ中にいるようだった。それに驚いて翡翠を見ると、翡翠の身体にも星座が映っている。よく見ると自分の黒い服にも、星座が浮かんでいた。

 上映時間は四十分もあったのに、鈴蘭にはあっという間だった。

 明かりがついてもまだぼんやりしなが部屋を出ようとすると、出入り口のささやかな段差に躓いた。あ、転ぶ、と思った瞬間、

「危ない」と、後ろから翡翠の声がして、強く腕が引かれ、揺らいだ身体を支えられた。

 そのおかげで、鈴蘭は倒れずに、体勢を立て直す。

「あの、ありがとう…」

「気をつけて」

 翡翠はそう言って離れると、扉を押さえていてくれた。掴まれた場所がなんだか熱い。

 廊下に出ると鈴蘭はリシアの姿を探す。彼は別の出入り口から出てきて、目が合うと満足そうに笑った。

 新しい建物の新館へ抜けると、宇宙の成り立ちや隕石を展示してある第二展示室があったけれど、先に昼食を食べようと、彼らはそこを後回しにした。

 出口近くの庭に面した一角が、軽食の摂れるカフェテラスになっている。そこには他に客が二組いたけれど、静かで、鈴蘭の頼んだリーズナブルなランチメニューは、味もなかなかだった。

 鈴蘭が食べている間、一緒に丸テーブルを囲んだ翡翠とリシアも食事しながら、見てきたばかりの天体プログロムの話をしていたが、そのうちに鉱物がどうだの次はどれを買うだのという話に変わっていった。

 食後のお茶をもらった鈴蘭は、彼らを交互に眺めてから、

「翡翠とリシアは、いつから親しいの?」と、気になっていたことを訊ねる。

 翡翠の周りにはいつも華やかな男子や、それを取り囲む女子で溢れているのを鈴蘭は実際に見て知っていたけれど、リシアは違う。翡翠が歩いているのは人目を惹くが、少なくとも鈴蘭は今まで校内でリシアに目を惹かれたことはなかった。去年、翡翠と同じ委員会だった時も、翡翠の周りにリシアを見かけたことはない。

 鈴蘭だったら自分のグループ以外の生徒は、女子だとしても話し掛けるのに多少気後れする。なのに彼らが親しそうなのが不思議だった。

 リシアと翡翠は一瞬顔を見合わせる。それから翡翠が口を開いた。

「実はおれたちが一年の頃には天文同好会っていうのがあって、おれは一年の途中で転校してきたんだけど、そこに入ったらリシアがいたんだ」

「今はなくなっちゃったの?」

「そう」と、今度はリシアが頷く。

「一番熱心だったのが、僕たちが一年の時に三年だった先輩で、その人が卒業してから活動停止状態になっちゃって、そのまま霧消」

「翡翠たちだけで活動続けなかったの?」

 うーん、と翡翠が首を傾げながら呻く。

「もともとそんなに熱心じゃなかったんだけど、去年の五月の一角獣座の流星群の時、夜中に屋上で見ようと思ったら、学校が許可してくれなくて、あれでやる気が完全に失せた」

「あー、そうだ。結構粘ったなんだけどな。顧問が全然やる気がなかった」

「でも活動自体はゆるゆるで楽しかったよね。天体観測とか言って、夜中にしょっちゅう集まって。なのに目標とかなにもなくてさ」

「だから消えたんだろ」

 翡翠の言葉に、リシアが笑いながら頷く。それもそうだね、と翡翠も笑った。

「今でも星を見るために集まったりしてるの?」

「三年生になったら、あんまりその余裕がなくて。時間ていうより気持ちの」

「それはそうかも」

 そんな調子でしばらく喋っていると、鈴蘭は自分が翡翠といても最初ほど緊張しなくなったのに気がついた。カフェを出てゆっくり第二展示室を覗き、最後にミュージアムショップをひやかして、翡翠とリシアは鉱物標本の前でなにやら言っていたが、結局なにも買わなかった。

「悪いけど翡翠、方向同じだから鈴蘭を送ってあげて」

 最初に乗ったバス停まで戻ってくると、リシアが当然のようにそう言って、鈴蘭を慌てさせた。けれど翡翠も当然のように頷き返し、彼女が引き留める間もなくリシアは、

「じゃあまた学校で」と言って、行ってしまった。

 突然ふたりきりになり、鈴蘭は頭の中が真っ白になった。けれど翡翠はそれまでと変わることもなく、

「おれたちも帰ろう」と、彼女を促した。

「鈴蘭ちゃんは東寮なんだね」

 並んで歩きながら、翡翠が言った。リシアは南寮だから、方向が逆だった。

「翡翠は寮生活じゃないのよね?」

「そこよりもう少し学校に近いところに、部屋を借りてる。急に転校することになったから、寮の手続きが煩わしくて」

 翡翠はそれ以上言わなかった。鈴蘭はもうちょっと彼の普段の生活について聞きたかったが、自分から詮索するのは図々しい気がした。それで話題を変える。

「翡翠、今日はありがとう。天文館すてきだった」

「ほんと? 良かったよ。途中あんまり喋ってなかったから、退屈だったかなって心配だったんだけど」

 鈴蘭は思わず激しく首を振る。

「そんなことない。ただ、リシアとの話についていけなかったの。天体とか鉱物とか、そんなに詳しくないし」

「ごめん」と、翡翠が苦笑した。

「リシアと出掛けたの久しぶりだったから、つい白熱しちゃった。リシアくらいしかいないんだ、ああいう話ができるの」

 でも、と彼はわずかに鈴蘭の方へ顔を寄せる。心臓はもうだいぶ落ち着いていたけれど、突然のことに、また鼓動が早くなる。

「リシア、課題のこと教えてくれなかったね。なんとなくはぐらかされちゃった」

 わざとらしい苦い顔で、翡翠が言った。

「で、でもでも」と、高鳴る胸を押さえながら、

「リシアも課題の内容、まだよくわからないって言ってたし…」

「鈴蘭ちゃんにも同じだった? 課題の内容も話さずに協力しろなんて、厚かましいね」

 そう言いながらも翡翠は笑っている。

 鈴蘭はさっきよりも鼓動が早くなるのを感じながら、強く首を振った。

 リシアの課題の内容なんて、口が裂けても言えない。

「翡翠は、今日みたいにリシアの課題に協力するの、嫌じゃないの? 自分の方が先を越されちゃうとかって、思わないの?」

「おれは総合成績に掛けてるからね。リシアは課題は最速だけど、教科の好き嫌いがありすぎるんだよ。鈴蘭ちゃんこそ、リシアに課題手伝えって言われて、嫌じゃなかったの」

「それが…、あんまり考える間もなく押しきられちゃった感じで。とにかくどうしても指輪が欲しいから、手伝ってくれって」

 言いながら鈴蘭は気がついた。指輪のことを翡翠なら、なにか知ってるかも知れない。

「どうしてリシアは、あんなに指輪にこだわってるのかしら」

「あれ、聞いてない?」

 翡翠は意外そうに言う。鈴蘭は軽く肩を竦めた。

「だって、私がリシアと初めて喋ったの、一週間前だもの。突然声かけてきて、課題を手伝ってくれって言われて」

「ずいぶん強引だったんだね。鈴蘭ちゃんも災難だ。指輪は、確かお父さんも学院の卒業生で同じ指輪を持ってて、それでリシアは小さい頃から憧れてたんだって」

「お父さんと同じ指輪が、そんなに欲しいのかしら」

「まあ、ただの指輪じゃなくて、成績優秀者の証明でもあるからね。それに」

 と、翡翠はちょっとだけ考えてから続ける。

「お父さんと今は一緒に住んでないって言ってたから。寮暮らしだから変な言い方だけど、実家にもリシア、ほとんど帰らないし。詳しくは知らないけど、なにか俺たちも知らない、憧れてるだけじゃない理由があるのかもしれない。でも、これだけ頑張ってるんだから、指輪、手に入れられると良いと思うよ。鈴蘭ちゃんも協力してくれるみたいだしね」

 柔らかい笑顔を向けられて、鈴蘭は胸がつぶれそう、と胸を押さえた。タイミングよく、寮の建物が見えてきた。これ以上翡翠と一緒にいたら、落ちつきを取り戻していた心臓がまた暴れだしそうだ。

 一緒にいられることを嬉しく思いながらも、一方で鈴蘭はほっとした。

 玄関に近づくと、そこに立っていた人影が動いた。誰だろう、と視線を向けて、鈴蘭は顔には出さずにぎょっとする。年齢は一回りくらい上だろうか、背が高く体格の良い男だった。長めの金髪を後ろで結い上げ、彫りの深い顔立ちの中でも目立つ大きな鋭い目で、ふたりの方を見ていた。全体の雰囲気がなんとなく、柄が悪い。

 その佇まいに威圧感を感じて、鈴蘭は緊張する。けれど彼女の脇で翡翠は、

「遠雷」と、言った。

 目の前の男に呼びかけたようだ。二人の前に立った彼が、くしゃりと顔を歪ませて笑った。その表情は、たった今感じた威圧感が嘘のように柔らかい。

「まさか今日、鍵を忘れるとは…」

「だから昨日、飲み過ぎだって言ったのに」

 呆れた顔を翡翠が向けるが、すぐに鈴蘭に向き直った。

「鈴蘭ちゃんは、知らないか」

「えっと…」

 金髪の男を指して言った翡翠の言葉に、鈴蘭は首を傾げる。言われてみればどこかで見た覚えもあるが、はっきりとは思い出せない。

「今日はありがとう、翡翠」

「うん、じゃあまた学校でね」

 翡翠が言って、軽く手を振る。

 金髪の男は結局誰なんだろう、と思っていると、彼が唐突に、

「俺のことは、内緒」と、鈴蘭に言って人差し指を口に当ててた。

「寮の前まで来て、内緒もなにもないよ。鈴蘭ちゃん気にしないで。それじゃあね」

 呆れたように言った後、翡翠はまた鈴蘭に笑顔を向けた。そして彼らは二人とも鈴蘭に背を向けて行ってしまう。

 彼女はすぐには寮に入らず、彼らの背中を眺めていた。ついでだから買物して帰ろう、と言う翡翠の声がかろうじて聞こえただけで、すぐに見えなくなってしまった。


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