<3>


「どういうことですか…」

 階段を上がって目の前に立った上級生を見つめた鈴蘭は、確かに今日も黒い服を着ている。くるみ釦で止めた半袖のブラウスに、黒い膝下丈のスカート。女子の制服のスカートよりいくらか丈が長く、そしてふんわりと広がっている。どちらも無地だ。でも間近で見ると意外に質が良い。足下は靴下留めで吊った黒いソックス、それと横で留める、エナメルの黒い靴。靴だけなら他の女子生徒もよく履いているデザインだ。

 自分を眺める目は写真で見たより丸く大きく、それを縁取る睫毛も濃い。肩の上で結っている髪も真っ黒だ。写真で見た印象と違って、毎日毎日黒い服を着てくるような娘じゃなければ、けっこう可愛いと思われるのかも知れない、とリシアは考える。

 そして案の定、彼女はとても不審げな表情を浮かべている。ひとつだけ、他に人の気配がないのは幸いだった。

「実は」と、リシアは口を開いて、鈴蘭の方へ一歩近づく。

「僕の今年の期末課題が、さっき言ったみたいにきみに協力することなんだ」

 鈴蘭はあからさまに顔をしかめた。リシアは心の中だけで唸る。確かにこんな、見ず知らずの上級生に突然話し掛けられ、恋に協力するから、それが自分の期末課題だから、なんて言われて、すぐに納得できるはずもない。

 彼の思ったとおり、

「本当ですか…? いくら三年生だって、そんな課題が与えられるなんて」

 と、彼の思惑を窺うように鈴蘭が訊ねた。

 一年二年の課題はもっと具体的な学科と演習課題だったし、最終課題の突拍子のなさを噂では聞いていても、まさか自分にこんな課題が出されるなんて思いもしなかった。

 リシアは少し離れたところで立ち止まる。そして左手を挙げると、

「うん、信じてもらえないのも仕方ない。きみの気持ち、わかるよ。僕だって変えられるなら変えてもらいたいんだけど」

 そう言いながら人差し指に嵌めた二連の指輪を見せた。あ、と気づいたように鈴蘭の口が開く。

「これ」と、さらに彼は右手で指輪を指し示す。

「今年手に入れられれば完成なんだよね。今から課題変えたら、一番じゃなくなる。それは嫌なんだ」

「それ、首席の指輪でしょう。二年続けてなんて、すごい」

 彼の指を眺めた鈴蘭が感心したように呟く。リシアは頷いた。

「そう、僕、どうしてもこれを三つ揃えたくて。だからきみに協力してほしい。僕もきみに、協力するから」

 彼は強く言ったが、鈴蘭はまだ疑り深そうな顔をしてる。

 リシアは小さく溜め息を吐く。そして頭の中で昨日見た委員会名簿のページをめくった。これははっきりと確信があるわけではない。でも与えられた課題と、学院の中での、自分でも本当はちょっと情けないくらいささやかな交友関係の中で、課題に役立ちそうな相手はわずかだ。

「きみに信用してもらうためなら、何でもするよ」と、彼は言い、曇った表情のままの鈴蘭にさらに続けた。

「だからまず、翡翠をデートに誘っても良いよ」

 彼女の顔が真っ赤になった。



「どうして、どうして知ってるの」

 苺牛乳の紙パックを両手で掴み、まだ顔を赤くしたまま俯いた鈴蘭が呟く。

 中庭の第二カフェテリアは既に閉まっているけれど、テーブルと椅子は放課後の生徒たちが自由に使える。

 図書館でリシアが驚くほど真っ赤になった鈴蘭は、続いて泣き出しそうになり、そのまま何も言えなくなって固まってしまった。リシアの方でもこれほどまでに彼女が動揺するとは思わず、まずごめんと謝り、とりあえず落ち着こう、良かったらもう少し話をさせて欲しい、と普段の自分からは想像もつかないほど積極的なことを言って、ここへ彼女を引っ張ってきたのだ。

 庭に面した廊下に並ぶ自販機で彼女に苺牛乳を買って渡し、自分用には缶のカフェオレを買った。

「あの課題だと」

 と、プルタブを引きながらリシアは気を使って、彼女の方を見ないようにして答える。

「僕が協力できそうなのは、翡翠くらいしか心当たりがないんだよね。それに去年の委員会名簿できみの名前探したら、学園祭の時、翡翠と一緒だったってわかったから」

 名前を出すと、鈴蘭は更に肩を竦めて小さくなった。

 やっぱりそうか、と缶に口をつけながら、彼は心の中だけで小さく溜め息をつく。

 翡翠と言うの彼女より一学年上の、リシアと同じ学年の少年だ。一学年の終わりに転校してきて、今は隣のクラスだが、その経歴がなかなかだった。

 北国の高地に広大な敷地を持つ領主の息子で、順当に行けば跡取りとなる。あからさまに言うと家柄の良い金持ちだ。加えて常に学科は学年で五位以内に入っているし、体術と技法の成績も申し分なかった。

 でも彼が注目を浴びるのは、それが理由じゃない。単純に、容姿が人目を惹くからだ。

 紅茶色の見るからに柔らかそうな髪を、顎の長さまで伸ばしている。目元は柔らかく、長い睫毛に縁取られた双眸は、名前の通り翡翠色だ。すっきりとした鼻筋と、薄い唇。肌は陶器のように白い。体つきが少々頼りないが、あくまでそれ見かけだけだ。成長しきらない線の細さは、魅力になることをリシアは知っている。

 とりわけ女子生徒に人気があるのは、育ちの良さを申し分なく発揮しているからだ。翡翠は決して進んで人に交わるほうではないことを、リシアは知っているけれど、それでも彼は誰にでも、卒なく物腰柔らかく、そして礼儀正しく振る舞った。

 相手に警戒心を抱かせない術を心得ているのだ。少し年の離れた姉がふたりいて、女性に対しては優しく振る舞うように徹底的に教えられているらしい。家柄のために、人の集まる場所に出る機会も多いだろう。

 同年代の男子にありがちな、女子に対して照れたり気後れしたりする素振りが、彼にはまるでないのだ。

 彼がいつも一緒にいるのは、なぜ隣の専修科ではなくこの技法科にいるのか不思議な流星と、翡翠よりさらに見た目が良く、けれど彼と違って女の子が大好きなルチルという男子だ。他にも二三人、同じグループの男子がいるが、最も目立つのはその三人だった。だからリシアと翡翠は、普段はつるんでいる友達も、学校での華やかさも立場もまるで違う。

 でもリシアは、実は翡翠とはそこそこ親しいのだ。そんなに知られているわけではないけれど、隠しているわけでもない。そこに目をつけた同級生の女子たちから、翡翠の連絡先を訊かれたり、手紙を頼まれたり、遊びに誘って欲しいと言われたことも、実はけっこうな回数がある。

 リシアはそのすべて関わりたくなかったのできっぱりと拒否し、今までどれひとつとして受けたことがなかった。けれどまさか、自分の期末課題でこんなことになるとは思ってもみなかった。

 喋ったことがなくても翡翠に憧れる女子がたくさんいるのに、なぜか彼女を作らないのも彼の人気のひとつだ。ルチルなんて女の子の入れ替わりが激しく、悪い評判まで立っているのに。噂では郷里に決められた婚約者がいるらしい。

 その真偽も訊こうと思えばリシアは訊けたけれど、それについては今までまったく興味がなかったので理由は知らない。

 学院の女子の三分の一は翡翠に恋していると言われていて、それは大げさだとしても、学院中で一クラス分くらいの女子が翡翠に恋しているのは、その気持ちの多寡はあるとしても、おそらく事実だった。

「突然こんなこんなことを言って驚かせて、本当にごめん」

 リシアはもう一度謝った。鈴蘭は俯いたまま、黙っている。しばらく沈黙が続いたが、やがて鈴蘭が苺牛乳を手元に引き寄せ、本体にくっついていたストローを外すと、袋から出して飲み口に差し込む。そしてようやく顔を上げ、けれどリシアからは目をそらしたまま、ストローの先に口をつけた。

「…そんなにわかりやすい? 私、ほとんど翡翠と喋ることもないんだけど」

 と、彼女は呟く。

「と、言うより…」と、リシアは肩を竦めて、

「翡翠と一緒だったことがあるから、なんとなくそう思っただけで、きみを見てどうこうってわけじゃないんだ。ただ、僕の知り合いで、女子から好かれそうなのが翡翠しかいなかったから、カマかけただけ」

 そう言うと鈴蘭はやっと、おそるおそるという目つきでリシアを見た。そして探るように、

「…からかってるわけじゃないんですよね」

 そう訊ねる。

「違うよ。本当に課題なんだ」

 リシアはそう言って、今は無地になった札をテーブルの上に取り出した。学院の生徒なら誰でも見たことのある、期末課題の札だ。濃い深緑に鈍い金色の唐草模様だけで、生徒なら三年の課題札だとわかる。

「今は消えてるけど、僕の三年の期末課題」

 鈴蘭も去年、暗赤色の同じ札を見ているはずだ。一年の時は炭灰色だった。

 課題が消えていることが一目でわかる札の裏を、鈴蘭はわずかに身を乗り出して眺めた。リシアはそこを指差して、

「『鈴蘭の恋に協力して、一定の成果を上げること』って」

 そう言ってから彼女を見る。鈴蘭は困り果てたように眉を寄せ、

「それって本当に私? 他の鈴蘭じゃなく? 私たちなんの面識のないのに」と、首を傾げる。

「僕も思ったよ」と、リシアは椅子の背にもたれ、彼女に負けない溜め息を吐いた。

「でも今、学院の生徒に鈴蘭はひとりしかいない。教務課にいるけど、ずっと年上の既婚者だし、あとは中等部にひとり。」

「でも…」と、彼女は納得していない様子で続ける。

「協力するって言われても、翡翠とは去年からすれ違う時の挨拶くらいで、喋ってもないし、別に今のままでいいんだけど…」

 彼女はまた頬を赤くして、俯いた。

「それじゃ僕が困るんだ。指輪が欲しいから」

「それ、すごく勝手な話だと思う」

 まだ顔を赤くしたまま、鈴蘭は怒ったような表情でリシアを睨んだ。彼は頷く。

「わかってる。でも、きみが嫌だって言っても、その気になるまで勝手に協力させてもらうつもりだから」

 そこで、彼はふと顔を上げ、視線を鈴蘭の更に先へ向けた。

「お、噂をすれば…」

 鈴蘭も振り返り、彼の視線の先を追う。中庭に面した円柱の並ぶ廊下を、翡翠がひとりで歩いてくるところだった。

 なんて幸運。この課題は、ひょっとしたら上手くいくかも。

 そう考える前にリシアは立ち上がって、

「翡翠!」と、呼びかけていた。

 それを見た鈴蘭は、声こそ上げないが悲鳴のかたちに口を動かす。

 その間に翡翠はリシアに気がついて、目が合うと軽く笑ってふたりのほうへ近づいてきた。鈴蘭は再び顔を赤くして、顔を反らす。

 リシアはそんな彼女に向き直り、

「頼むよ鈴蘭、課題の達成が掛かってるんだ。お願いだ」と、早口ながら力強く言った。

 翡翠が彼らのテーブルの脇に立つ。

「リシア、まだ残ってたの? そして鈴蘭ちゃんだ。久しぶり。リシアと知り合いだったんだね」

 彼はそう言って、言葉の途中で鈴蘭の方へ視線を向けた。彼女は顔を上げて、会釈する。先ほどまでの表情は消えて、はにかんだような笑顔を浮かべている。リシアはそれを眺めてから翡翠に向き直った。

「実は先週末に期末課題が出て、それで彼女に協力してもらうことになったんだ」

「えー、もう課題? おれ、申請もまだだよ。いつ申請したの」

「八月の終わり。申請解禁になった当日」

「リシア、執念だね」

 感心に呆れを少々含ませた表情で翡翠は言って、それからリシアの左手に視線を向けた。

 それに気づいて彼は左手を上げる。

「うん、三つ全部揃えたい」

 彼らを眺めていた鈴蘭は、指輪のことを知ってるんだ、と心の中だけでそっと思う。

「翡翠は? 図書室?」

「うん、夏休みのレポートがまだ終わってなくて。明日提出なんだ」

 翡翠が苦笑する。それを笑ったリシアは、その後一瞬だけ鈴蘭に視線を向けると、すぐに翡翠に向き直り、

「あのさ、翡翠」と、言って続けた。

「すっごい急なんだけど、僕の課題のことで、翡翠にお願いがあるんだ」

 鈴蘭がリシアに顔を向けたのがわかった。けれど彼はそれに気づかないふりをする。

「なに? 聞いたら足引っ張るよ?」

 翡翠はそう言って、悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「僕の課題に協力してほしいんだ。それで、次の日曜日、一緒に出かけてくれない? 僕と翡翠と」

 そこまで言って翡翠は鈴蘭に視線を向ける。突然のことで、彼女は目を反らすことすらできなかった。

「彼女とで。場所はどこでも良いんけど」

「なにそれ、それが課題なの?」

 翡翠が怪訝な顔をする。鈴蘭は赤くなった顔を見られないよう、そっと俯いた。リシアが笑って答える。

「そうだよ。噂通り変な課題が出たんだ。天文館は? しばらく行ってないだろ」

 うーん、と翡翠が少し困ったような顔をする。鈴蘭はその声だけ聞いて、心臓が凍るような気持ちだった。

「悪いけど、日曜は無理だな」

 そんな翡翠の声が、彼女に耳に届く。顔を上げる勇気もないまま聞き耳を立てていると、

「来週の水曜は? 午後、授業ないよね」

 と、鈴蘭には予想外の言葉が聞こえてきた。彼女は思わず顔を上げる。

「いいよ。助かる。鈴蘭も平気だよな?」

 そう言った翡翠が彼女を見た。鈴蘭は考える前に頷いていた。翡翠が彼女の方を向いて、

「じゃあ、水曜で決まりだね」と、笑いかける。

 鈴蘭が久しぶりに自分に向けられた笑顔に固まっている間にも、翡翠はすぐにリシアに視線を戻して、

「課題のこと、詳しく聞かせてよ。おれも早めに申請したいし」

「言いたいのはやまやまなんだけど、僕もまだ課題の内容を全部掴めてないんだよ。探り探りって感じで」

「噂どおり変な課題だった?」

「うん」と、苦笑しながらリシアは頷く。

「だから、翡翠にも協力して欲しい」

 彼が言うと、翡翠がわざとらしく意地悪そうな笑顔を浮かべた。

「敵に塩送る奴なんていないよ。リシアの課題の提出、遅らせるからね」

「翡翠にできるとは思えないな」

 リシアも同じように意地悪く笑い、ふたりで顔を見合わせた後、翡翠がそろそろ帰らないと、と時計を見て言った。

「急に引き止めてごめん」

「いいよ別に。水曜、リシアに任せるから、決まったら教えて」

 そう言って翡翠は彼と鈴蘭にじゃあまたね、と言うと、その場から立ち去った。

 彼の背中を見送ってから、リシアは鈴蘭に向き直る。

 彼女はなんとも言えない、けれど不満の方が表に出た表情で彼を見つめた。

「ちょっと、あんなこと言って良かったの?」

「あんなことって?」

「課題が良くわからないとか、協力して欲しいとか、色々。ぜんぶ嘘じゃない」

「全部が嘘ってわけじゃないだろ。課題に協力して欲しいのは、本当だし」

「でも…」

 鈴蘭は納得しきれない口調で呟く。リシアは肩を竦めた。

「きみに協力したつもりだったんだけど」

「だって、翡翠とは友だちなんでしょう。嘘までついて、翡翠を騙して出かけるなんて」

「翡翠だって、本気で行きたくなければ断るよ。それとも今から、あれは嘘でした、って言って誘いを断った方が良い?」

 今なら間に合うよ、とリシアは言って鈴蘭に視線を向ける。急に選択を迫られた彼女は絶句して、しばらく黙って彼の顔を眺めた後、俯いて言った。

「…来週は、よろしくお願いします」

 鈴蘭の頭の上で、リシアの勝ち誇ったような笑い声が聞こえた。


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