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 鈴蘭がリシアに声を掛けられる四日前のこと。

「課題って、これが課題?」

 放課後、リシアは自分の担当教官の教務室で声を上げていた。

 彼の担当である輝銀は自分の机に座り、たった今、課題を与えたばかりの半円形の課題盤越しに、わなわなと手を震わせる彼を眺めていた。

 二年前に赴任してきた輝銀はまだ学生で通るような若い教員で、背が高く容姿もなかなかで、なぜこんなところで教員をやっているのかリシアにはわからない。左右非対称に刈り込んだ黒髪と、切れ長の鋭い目、叱る時は怖いが、普段は冗談も通じる相手だ。輝銀が担当になった時、リシアは密かに怯えていたが、今では逆に幸運だったとさえ思っている。

 だからできればこんな言い方したくなかったが、それにしたって自分への課題だと渡された札に書かれた言葉はあんまりだ。輝銀はそれを気にする様子もなく答える。

「嫌なのか、俺はちょうど良いと思ったが」

「どこが」

 課題札は表が黒に近い深緑色で、そこに金色の細かい唐草模様が散っている。三年の色だ。その裏に、青い文字でリシアの名前と、彼に与えられた課題の内容が書いてある。

 それから目を離して、彼は険しい顔で輝銀に向かう。

「こんなのが課題? しかもこれ、本当に僕の課題ですか? 信じられない」

「間違いないな。三年で課題が出てるのは今のとこリシアひとりだけだ。申請中なのは何人かいるけど」

 リシアは思わず溜め息を吐く。心当たりはあった。

 後期が始まったのは三日前だ。今日は金曜日で、授業が終わった後にリシアは輝銀に声を掛けられて、この部屋に呼ばれた。課題が出たと聞いた時は嬉しかった。学期末を締めくくる最終試験は、毎年課題が出る。

 一年目は学科、二年目は演習、最終学年の三年目は総合で、王立魔法学院の最終課題は、しばしば突拍子もない課題が出ると評判だった。

「こんな課題、成績と関係ないじゃないですか」

「そうでもないだろ。リシアは学科と技術は優秀だけど、感覚力が低いじゃないか。うってつけの課題だろ」

「僕は得意分野を伸ばしたいたちで、苦手なことって、避けて通りたいんです。学院の精神だってそうでしょ、『良いところをより良くするために』って」

「確かにそうだな。でもそれは精神のひとつで、全部じゃない。それにリシアは得意な教科はもう十分得意だし優秀だし、そればっかりやってたら期末課題にならないじゃないか」

 もっともだ、とリシアも思った。返事に詰まり、彼はもう一度課題の書かれた札を見てから、それを机の上に伏せる。やっぱりだめだ。受け入れられない。

「…変えてもらえないんですか。せめてもうちょっと、マシな課題に」

「それなら再申請だな。早ければ一ヶ月後に、新しい課題が出るさ」

 輝銀の言葉にリシアは目を閉じる。課題の申請をしたのそれが解禁になる夏休みの間で、三年ではリシアが一番乗りだった。

 輝銀はついさっき、既に何人から申請が出ていると言った。課題の内容はひとりひとり違うとはいえ、自分の課題が変わるのを待っていたら、きっと彼らに先を越されてしまうだろう。リシアにとっては一番に期末課題を与えられ、それを誰よりも速く、かつ優秀な成績で修了することに大きな意味があった。

 彼は溜め息を堪えて、左手の人指し指を見る。

 そこには細い二連のくすんだ銀色の指輪が嵌っている。一年の時も二年の時も、学年末の最終課題を最も速くクリアした証だ。三連揃えるとモチーフが現れる学院製のパズルリングで、今年も最速でクリア出来ればこの指輪は完成するのだ。

 そしてリシアは絶対に最後のひとつが欲しかった。

 しばらく黙った後、彼は苦い顔のまま、それでも覚悟を決めたように、

「…わかった、やります」と、頷きながら無意識に、親指で指輪に触れる。

 輝銀が満足そうに頷き、

「それじゃリシア、手続きを。複写はいるか」

「いりませんよ。覚えるまでもない」

 輝銀は署名用のインクと羽ペンをリシアの前に押しやった。

 苦い顔のままリシアは答えて、ペン先にインクを付けると課題の札の下に自分の名前を書いた。ペンを置くと、署名がぼんやりと青く光る。彼はそれを自分の教官に差し出した。

 続いて輝銀が署名すると、彼の名前が淡く光って課題の文章が消えた。無地になった札を、彼はリシアに差し出す。

「期限は三ヶ月以内。終わったらこの提出用紙に彼女の署名をもらって、課題盤に提出すること」

「ああ、そうだ」

 札を受け取りながら、リシアは輝銀を見た。

「鈴蘭って誰ですか? それを自分で調べるのも課題のうちですか?」

「いや、そうだな」と、輝銀は今思い出したというような表情で頷き、椅子を半回転させると、壁の棚から生徒名簿を抜き出した。

「うちの学年じゃない。調べといた。間違った奴に声を掛けられても困るからな。下級生だよ」

 リシアは再び眉間に皺を寄せる。同級生だって喋ったことのない奴らの方が多いのに、下級生、それも女子だなんて。知らない奴にもほどがある。

 輝銀は頁をめくり、あるところで机に広げてリシアに差し出した。

「この娘だ」と、彼は指さす。

 リシアはそれを覗き込んだ。

 鈴蘭・女子・技法科・学院への入学は二年前。生憎全教員に配られる簡易名簿なので、写真はない。だからそれだけでなにがわかるわけでもなかった。

「知らない娘だなあ」

 溜め息混じりにそう言うと、輝銀が名簿を閉じながら小さく笑う。

「見たことあると思うぞ。あの、黒い服の女子生徒だ。毎日黒い服を着てるあの娘」

 ああ、とリシアは思い当たった。そう言われてみれば確かに見覚えはある。でも、注意して見たことは一度もない。顔も思い出せなかった。

「変わり者ってことですか」

 顔を顰めてそう言うと、輝銀が吹き出した。

「リシアに言われたくないだろ」



 始めるなら早いほうが良いと、リシアは放課後の校内へ戻った。

 同じ学校の生徒に限らず、見知らぬ人に話し掛けるなんて苦手なので、気が進まない。かといって、課題を放り出すわけにはいかない。

 それ以上の強い気持ちで指輪が欲しいのだ。

 既に人の気配の少なくなった二年生の教室へ行ってみたけれど、数人の生徒がぽつりぽつりの残っているだけで、ほとんどもぬけの殻だった。当然、黒い服の女子生徒なんていない。

 その足で図書室に行き、写真付きの名簿を当たった。学内資料の書架に、去年のものが並んでいる。引き抜いて後ろの索引から名前を探し、当時の一年生のページをめくった。一年A組、鈴蘭。写真はカラーだけど小さい。まっすぐな前髪に、眉毛はやや太く、黒い目は大きいと言うより切れ長だ。鼻は細く、唇は薄くも厚くもない。頬は少し丸いが、全体的にすごく可愛いわけでも、すごく不美人というわけでもなかった。とりたてて特徴のない顔、というのが失礼ながらリシアの感想だ。『黒い服』と、何度も言われているからこの写真の時も黒い服を着ているのかも知れないが、並んだ他の生徒の写真と同じく肩から下は写っていないし、髪に隠れてわからなかった。

 とりあえずなんとなくだが顔がわかったので、次に部活名簿を当たる。文系の部活から探したが、名前はひとつも見つからず、運動部だったら写真の印象と違うな、と勝手なことを考えながらさらに続けたけれど、彼女の名前は見つからなかった。どうやら部活はやっていないらしい。

 はあ、とリシアは小さく溜め息を吐く。再び書架を眺めて、なにか彼女の手がかりはないかと見ていると、薄い冊子の委員会名簿に目が留まる。そうだ、これがあった。

 部活への参加は自由だが、季節ごとの学内行事は全員参加だ。リシアはそれを引き抜きながら、最初からこっちにすれば良かった、と手に取ると、閲覧席に腰を下ろした。

 去年の行事の委員会一覧を順に眺めていくと、後期のページで見つかった。学園祭の委員会一覧に『鈴蘭』の名前がある。学年も書いてあるから、おそらく彼女で間違いない。

 展示担当のひとりなので、ずいぶんと仕事の楽な委員を選んでいることになる。

 あんまり派手できらびやかな女子じゃないと良いな、とまたもリシアは勝手なことを考えて、同じページに一通り目をやる。そして二年生のところで目を留めた。

(あーあ)

 リシアはページから顔を上げて、ひとりで小さく嘆息する。

 これでわかった。いやいや、確信というわけではない。でも、そうだったら良いという期待はあった。同時に彼女もか、というまったく知らない下級生に対しての、ちょっとした軽蔑の気持ちも浮かんだ。

 リシアはもう一度だけ、見つけた名前を眺めてから名簿を閉じた。

 自分の予想が当たっていれば、この課題は難しいけれど、でもまったく望みがないわけじゃない。

 立ち上がって名簿をもとの書架に戻してから、彼は図書室を出た。

 顔がわかったら、次はいよいよ声をかけなくてはならない。

 土日を挟んで授業がないので、リシアは寮の名簿を調べた。

 学院の生徒の九割は寮で生活していて、親元から通っている生徒はほとんどいない。高等部の寮は三カ所に別れていて、リシアはいつも黒い服を着ている下級生の女子を、自分の寮で見掛けたことはなかった。最も、自分が人付き合いが良いとは言えないことを良く知っているから、念のため寮の名簿も調べた。

 どの寮にどの生徒が生活しているのかは、同じ寮生なら教えてもらえる。鈴蘭という女子を探してる、と言うと、用務員は名簿をめくり、今はいないな、去年卒業した寮生になら、ひとりいたよ、と教えてくれた。それで同じ寮にはいないことが確定したし、別に目的は彼女の住処を調べることじゃなかった。

 月曜日を待ってリシアは校内に鈴蘭の姿を探した。二年の教室は三年の校舎とは中庭を挟んで向かいだ。

 自分の授業もあるので、二年の教室に張り付いているわけにも行かない。いくら課題のためとは言え、そんなことをしたら不審者だ。

 リシアは昼休みに、校舎の昇降口の前に立つ。大抵の生徒は校内にいくつかあるカフェテリアで昼食を摂るから、彼女も出てくればいいと思ったのだ。

 しかしここでも少し困った。

 学院には制服があるが、別に私服で通学しても構わない。だから鈴蘭だって黒い服なのだ。けれど黒い服を着ている女子生徒は、今日一日に限って言えば、別に鈴蘭だけじゃない。それでもリシアはどうにか、あの娘かもしれないと思う女子生徒に目を付けた。

 昼休みに制服姿の女子生徒と連れだって校舎から出てきた女子だ。スカートがふんわりとふくらんだ黒いワンピースを着ていた。そのデザインは確かに、学院の生徒の中ではちょっと浮いている。じっと見ていれば、という程度ではあるが。服装に目を奪われて、顔はほとんど見なかったが、雰囲気は地味だった。いつもたくさんの友だちと群れになって歩いているようなタイプの娘じゃなくて良かった、とリシアは少しほっとする。

 最も、そういう女子ならすぐに見当がついただろうけど。

 昼休みの間に、その彼女が鈴蘭なのかどうか、輝銀に訊きに行った。

 リシアの担当教官は、曖昧に、

「たぶん合っていると思うけど」と、首を傾げる。

 彼も二年前に赴任してきたばかりで、鈴蘭のことは夏休み中の、短期講座でしか知らないと言った。でも、それがあるだけ幸運だった。

 そして好機は突然巡ってきた。

 特別修練棟で午後の授業を終えた後、学年の区別なく移動する生徒の中に混じって、黒い服で廊下を歩く彼女の姿を見かけたのだ。眼鏡をかけた薄紫の髪の長い女子と一緒に歩いている。連れがいると気まずいけど、課題のためなら仕方ないな、とリシアが気持ちを固める前に、彼女のたちは校舎の入り口で別れた。

 こっそり後をつけながら眺めていると、鈴蘭と思しき黒い服の生徒は、独りで資料室があるほうへ向かう。胸に本を抱えているから、返却しに行くのかも知れない。

 リシアは彼女を追いかける。都合の良いことに、授業と授業の間の短い休み時間のためか、他の生徒の姿はない。今を逃してなるものか、とリシアは二階へ上ろうとする鈴蘭の後を追う。

 そして彼女が踊り場に立ったとき、思い切って声を掛けたのだ。

「きみが鈴蘭?」

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