第3話 若かりし頃の思い出-後編-
悲愴な覚悟で領主になろうと決めたキリクを、エルノワ山脈に連れ出したのはヴァスタだった。
夏休み、領地へ戻ったキリクを「爺さんの了解は得ている」と言って飛竜に乗せた。
ルワイエット領にあるエルノワ山脈は深く険しいため、飛竜乗りが上空を飛ぶことはない。ここを大きく迂回して飛行するのが普通だった。
しかし、ヴァスタは竜騎士に指示してまっすぐ飛んだ。
そして深い山中の中にぽっかりできた、まるで飛竜の発着場のような場所へと降り立った。
猟師の格好をした男らが待っていて、ヴァスタに小声で囁く。
「予定通りか。では、出発する。迎えは八日後で良い」
竜騎士にそう言うと、ヴァスタは荷を背負って歩き始めた。
キリクもここまで来ると仕方ないとばかりに追いかけた。
猟師たちは斥候をしながら周囲の警戒も行いつつ山奥へ入っていく。
ヴァスタは何も説明せず、キリクはただ付いていくだけだった。
二日そうやって過ごしたが、話す内容はオスカリウス領についてばかり。
ヴァスタが尽力してくれた話を聞いては感謝し、彼や仲間たちが自由に過ごせているのかが気になった。
彼等は自由人だ。
流れるままに冒険を続ける。
そんな彼等をこの地に留めていることへ、良心の呵責もあった。
それでも、もうどこに行ってもいいのだとは言えなかった。
彼等の力が必要だという理由もあったが、それ以上にヴァスタの存在が大きかった。
激昂することなど一切なく、学者のような雰囲気を漂わせるヴァスタはそこに静かに佇んでいるだけで安心できるのだ。
彼ができると言えば絶対にできるのだと信じられた。
ここは引いておこうと彼が言えば、冒険者たちは無理をしない。その見極めや穏やかながらも意思を通す力強さは、他の冒険者やキリクのような若造にはないものだった。
道標のような人だ。
その彼と離れるのを、キリクは恐れていた。
そんなモヤモヤとした気持ちを抱いていた時、キリクは一生を共にする相棒に出会った。
ヴァスタが指差す崖の途中に、飛竜の巣の残骸はあった。
「雄の争いに巻き込まれ、雌が死んだ。あれらは残された卵だ」
ひゅっ、と喉が鳴った。
「すでに三日以上、経っているはずだ。新たな夫婦がやってくれば、あの巣は蹴り落とされるだろう」
どうする? と、その顔に書いてある。
試すつもりなのかとカッとなったが、ヴァスタにその意識はないのだ。
彼はキリクに選択肢を与えたにすぎない。
竜騎士の道を選んだキリクに、お前は自分の飛竜を持たないのかと問うているのだ。
繁殖させて育てた飛竜に乗るのも多いが、野生の卵を育てる場合もある。野生の方が力強く病気などに強いからだ。
そして卵から育てることが絆を深める。より強い主従関係ができあがるのだ。
キリクは躊躇うことなく卵を貰い受けると宣言した。
険しい崖を猟師たちに助けられながら登り、卵を大事に背負って下りた時には息が上がっていた。
卵は一つしか残っていなかった。
他は全て、割れているか死んでいた。
光を当てて生きていると分かった時は心から安堵した。
その後、毛布に包んで移動した。帰りはゆっくり進むことになった。
飛竜の卵は硬いが、割れないわけではない。希少獣の卵石よりもずっと壊れやすいのだ。
野営が長引くと、静かだったヴァスタや猟師たちとの会話が耳に入ることもあった。
時折難しい話になる。古代語でのやり取りなど、キリクがいかに井の中の蛙かが分かった。
彼等の会話で、往路に二日かかったのはキリクの足が遅いからだとも知った。衝撃だった。ヴァスタを含め、全員がキリクに合わせていたのだ。
騎士学校では運動能力を含めてトップを走っていたので、恥ずかしかった。
猟師の中にはどう見ても初老の男性さえいたのに、だ。
もっと本格的に鍛えなくてはならないと反省もした。
その日の夜、ヴァスタがぼそりと語った。
「初めて出会った時と同じような顔をしているぞ」
「えっ?」
「そうやって心に溜め込むから、体の中の力が淀むのよ」
キリクの腹のあたりに手を置いて、これこの力がな、と微笑む。
「爆発するより、出してやればいい」
「ど、どうやってだよ」
「そりゃあ、人それぞれだ」
猟師たちもほんの少しだけ頬を緩めている。バカにするでもなく、ただヴァスタの言葉を当然のように聞いているだけだ。
キリクが意味も分からず戸惑っていると、ヴァスタはまたぼそりと続けた。
「逃げることの何が悪い?」
「それは――」
「お前さんが逃げ出したことを、誰かが責めたのか?」
親族には責められたが、だからといって彼等に言われた言葉が身に堪えることはなかった。
では誰か。
誰が、責めたのか。
己だ。
「どうしようもなければ逃げてもいいと、俺は思うがね」
「……それは、ヴァスタが冒険者だから。一流の冒険者で、どうにでもなるからだ」
「違いない」
口を挟んできたのは猟師の男だった。初老の男は何度も頷いて、少しだけ笑った。
「それに、俺は、オスカリウス領を継いで責任を負わねばならない」
「だから逃げちゃならんのか? お前さんとて、他の奴と同じ人間なのに」
ふと、腹が熱くなった。
「人間は弱い生き物だ。逃げたくもなる。逃げなきゃ生きていけない時もある。それで何が責められようか。逃げずに死ねば良かったと言われるのなら、お前が死んでおけと返せば良い。ただそれだけのことよ」
「それは、乱暴だろ」
「逃げる人間を、責めるだけの能無しにはなるなよ?」
そこでハッとした。
キリクは今、どっちだったのだろうと、その怖い考えに思い至ったからだ。
キリクは、逃げていった人たちを、責めていたのだ。
逃げた自分を責めたように。
弱い人間を、責めていた。
ヴァスタは静かに続けた。
「お前さんの気持ちは分かる。正しいとも思う。だが、それは時に刃ともなる。お前さん自身を傷付ける、刃だ」
もっと気楽になれと、頭を撫でる。
キリクが肩肘張っていることなどお見通しだったのだ。
その後も、飛竜への思いについて、彼なりの考えを口にした。
「飛竜の意思を無視してやるな。あれらは逃げない生き物だ。戦うことを恐れてはいない。寿命が短いからと、それで恐れをなしたか? そうじゃない。飛竜の短命を恐れるのは人間なんだ」
愛するがゆえに失うことを恐れる。
それは正しい気持ちなのだと教えてくれた。
誰もがそれを乗り越えるのに苦心する。
ヴァスタもまた、大事な人を失ったのだと吐露した。
「ルカスを毒で失ったのは不幸なことだったが、すべての不幸を自分のせいだなどと思いあがってはいけない。お前さんはただ、領民が幸せになれるよう努力すればいいだけだし、その飛竜の子を幸せに育て上げればいい。腹に溜まった淀んだ力も、暴れて吹きとばせばいいだけだ。逃げたくなれば、時々逃げればいい。どうせ、お前さんは元に戻るのだからな」
難儀な性分だ、とキリクの頭を強く撫で、日焼けした顔を笑みにする。
ヴァスタは、彼の仲間たちによくこう言われていた。
「フラフラしていつの間にかどこかへ行っている。まるで一流の逃亡者だ」
と。
好きなように生きて、好きなように決める。
でも、好きなようにする理由の中に彼の信条がある。
今回も、キリクのために動いてくれた。
「ヴァスタ、ありがとう。俺、もうちょっと気楽にやってみる」
肩の力を抜くことを教えられ、キリクは随分と楽になった。
卵は夏休みの間に孵り、雌の飛竜が生まれた。
大きな体だ。将来群れの長になるだろう。
ルーナと名付けられた飛竜は調教に随分と時間がかかったものの、キリクが卒業する頃にはなんとか形だけでも乗れるようになっていた。
他の飛竜に乗ると嫉妬するので、キリクは散々苦労した。
ルカスとは全く違った性格で、飛竜の個性を知ったのもこの頃だった。
そしてヴァスタは、キリクが騎士学校を卒業してオスカリウス辺境伯を継いだ頃、姿を消したのだった。
仲間たちは残っており、後始末はしておくからなーと笑っていた。
いつものことだと分かっていたようだ。
「次にいつ会うか、どこで会うのか分からないのがいいんだ」
なんという気ままさだとキリクは呆れたものの、なんとなくヴァスタらしいなとも思った。
それでも最初の頃はいつかひょっこり帰ってくるのではないかと、冒険者ギルドをチラチラ覗いてみた。
やがて、置いていかれたのだろうか愛想が尽きたのかと、女々しい気持ちにもなった。
彼の仲間たちも一人二人と去っていった。
去り際は明るく、またなーと手を振って気楽な様子だ。
それが数人続くと、なんだそんなものかと受け入れられるようになっていた。
彼等にとって別れは寂しいものじゃない。
またどこかで会える。
事実、この仲間たちとはその後も幾度か顔を合わせた。
それはスタンピードで戦っている最中だったり、地下迷宮での訓練中であったり。あるいは隣国との小競り合い、他国への親善試合に出た時などなど。
出逢えば彼等は、昨日も会ったような感覚で気さくに挨拶してきた。
だからキリクも気軽に現状を話した。
飛竜の育て方を研究したこと。
戦い方も編み出した。
飛竜を使った新たな技や、上空から使う魔道具の開発にも乗り出した。
飛竜をただの道具にしないよう苦心するうちに、それは人間にも通じるのだと知った。
スタンピードへの対応も年を追うごとに短期決戦でできるようになった。他領への応援にも走ったほどだ。
それが原因で「隻眼の英雄」と呼ばれるようになり、かつての仲間たちにはからかわれた。
ヴァスタならからかったりしないだろう。ただ、よく頑張ってるなと言うだけだ。あるいは、少しは逃げ足を鍛えたか、と微笑むのかもしれない。
だから、キリクもヴァスタに出会ったら、こう言うつもりでいる。
「今日は天気がいいな。これから魔獣でも狩りに行くか? ちょいと仕事を抜け出して逃げてきたんだ。ルーナに乗って、一緒に行こうぜ」
きっと、彼は断らないはずだ。
キリクはそう信じている。
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