第6話 第六章
「幸せ……幸せです、私は。んっっ、思うままに引き裂いて。跡をつけて下さい」
赤い蝶が舞う。意識が遠くなった。魔物の支配だった。
飛び交うような赤い光の記憶しかない。
魔物は満足したのだろう。イートスは暖炉の前に座って炎を見ていた。
隣にレクシアがローブを纏うようにして、座っていた。
「……済まない。恐らく大半は記憶がない」
「切り替わった瞬間は分かりました。大半ではありません」
声が明るい。
笑顔だった。
「私なんかでも満足できるんですね。魔物は」
小さく笑った。満ち足りたような表情に罪悪感が僅かばかり減ったように思えた。
火のような耐えがたい羞恥は消えない。押し殺して耐える。
レクシアの心が耐えているだろうものに比べれば何でもない。
「傷跡はないか? あれは痛みも喰らうようだ」
「『治療』で治る範囲でした。ご心配には及びません」
腕を、脚を見せる。無傷だ。
安堵を一つの傷が壊す。
背中に傷が有った。緑に光る。
「これは? 何だ?」
「『鑑定』しました。魔への帰属を意味するものらしいです。あまり広がると……取り込まれてしまうようですね。いつか高等魔術で消して見せます」
笑顔に影が差したように思えた。
「ご心配なく。私だって必ずレニアと同じ、いえ、それ以上に成って見せます。そうしたら、ずっと一緒に…………いえ、申し訳ありません。出過ぎた事を言いました」
「レニアに除去を頼んでくる。そのままでいろ」
レクシアの表情は気にせず、階下へと向かおうとした。
「これは自分自身の力でないと除去できない傷のようですよ」
寂しいような声だった。
「……済まない」
椅子に戻って、暖炉を見詰めた。
「いえ、私から言い出したことです。お気になさらないで下さい。お願いします」
白い髪が顔の前に回り込む。歎願するような顔だった。
「こうして魔に染まっていくんだろうか。これが当たり前なのか?」
「一年もあれば高等魔術でも学んで見せます。そうすれば、ただ魔に侵されるだけではなくなります」
目を見詰めたまま、レクシアはそう言った。
鳥の声が聞こえる。もうすぐ夜明けだった。
「朝までか。よく、耐えたな」
立ち上がって窓辺まで歩いた。
「耐えさせた俺が悪いんだが」
「い、いえ、一瞬というか、どうということはありません」
――朝食はいつも通りだった。レニアが眠そうなレクシアをにやにやと見ていた。
「ポーションでも飲みますか? 疲労回復効果もありますよ」
「……頂くわ」
それ以上の会話は無かった。
パンを胃袋に詰め込んで馬車に乗る。
「その、イートス様はお疲れではないんですか?」
窓の外を見た姿勢のまま、レクシアが聞く。
「疲れどころかあれが魔物の『食事』らしい。何ともない」
「昨日は頑張ったんでしょうねぇ。分厚い木の床が軋んでましたからねぇ」
レニアがはしゃいだ声で割り込む。
ぴくっ、とレクシアの脚が動く。
前の席を蹴るのは辞めたようだった。
「……そういえば何故余計な印をレクシアにまで刻んだんだ」
苦言くらいはいいだろう。
「あの程度は嗜みです。もっと強い印もあるんですよぉ」
嗜みで人の身体を好き勝手にするな。
ごん、と前の席が軋むほどの音が響いた。
レクシアの蹴りだ。
「あ、邪魔でしたかね。あれ」
「常識で考えろ」
冷え切ったレクシアの声。
背筋が凍る。
これ以上の侮辱は許さない。声だけで分る。
一触即発だ。
「魔力は増やせるのか?」
試しに聞いてみた。話題を変えたい。
「副作用を気にしなければ幾らでも。いずれ施術致しましょうか?」
身体錬金術師、そう思い出した。
何も気にすることはないというように口角を上げる。
「……その時が来たならな。俺は魔法に取り込まれてはいるが、使いこなしてはいない」
いずれ高等魔法を使うというレクシア。自分には低級の魔法さえ思い付かない。
せめて『治療』でも使えれば戦闘での補給には役立つだろう。
魔法の世界から取り残されている気がしてならない。
どれだけ魔物になろうと、魔法に使われているだけだ。
「初等の魔法だけでも教えて貰えるか。レニア」
「よろしいですよいつでも。では夕食後にしましょうか」
意味ありげな目くばせをする。
「他に時間も無い。任せる」
この都市で夜といえば夕暮れ以降眠るまで全てだ。修練するにはその時間を使うしかない。
薄暗い中、外で待っている馬車の灯りが眩しい。
揺れにも慣れた。乗り込んで出発する。
異変が起きたのはそれから程なくの事だった。
馬車が急停車する。馬はだく足でゆっくりと進み始めた。
寡黙な御者は
「女王陛下の視察団のお通りです」
とだけ告げた。
「どういうことだ」
女王?
「急ぎの用なら走り抜けてもいいんですけどね、万一怪しまれたら誰何で余計に時間がかかるんですよ。敵だと見なされたら死を覚悟しないと」
「……そもそも、王政ではないはずだろう?」
「呼び名です。実際は最高位、レベル8の魔法使い様の別称です。この街では最強の者が全ての上に立つんです。ちなみにお二人はまだレベル1です。これでも魔法強化したんですよ。もちろん階級制などないけど、実力は全部、会議所が管理しています」
「身の程ということか」
レベルで測られる。いいだろう。人は何であれ測られる。
「全員が対等ですよ。都市神の前では。……やばいっ。呼び止められたっ」
笛が高く響く。魔法剣士達が騎乗している馬を止める。
豪奢な黒塗りの馬車が止まった。
『レニアさん。確かこの辺りで捕虜を管理していたかと。早朝から何の用?』
声が直接頭に響く。高位の魔法。そうとしか分からない。
「あ、あの、捕虜が回復したので、手始めに山で狩りを教えようかと」
レニアが馬車を降りると、声を張り上げる。
『悪くないわね。ホロモスの森は、いえ山と言ってもいいでしょうね。あれは都市の西の要衝。手を付けておくのはいい考えよ。……ところで人体実験紛いの錬金術師にして禁呪使いのレニア。まだ謹慎処分は解けていないはずだけれど。だからこその捕虜の管理任務でしょう。見ればとっくに改造をしたようだけれど。客人にその仕打ちはどうかしら。謹慎期間を十年にしてもいいのよ? 後で会議所の検討事項に入れておこうかしら?』
頭が痺れるほどの声量とでも言うのだろうか。
暫時、頭が支配されたようにさえ感じた。
「あ、いえっ、それぞれの適性を見た上で、あくまで許容範囲内で強化をしただけですっ」
張り上げた声は震えていた。
『そうは思えないけれど。レベル1は会議所の登記上の値でしょう。ポテンシャルはレベル3以上。手際は認めるけれど禁呪も惜しみなく使ったわね? 違う?』
「……認めます」
『やり過ごせば終わり。今そう考えたわね』
「それ、禁呪じゃないですかっ」
狼狽した声が響く。
『誰にでも股を開く。こいつを恥辱まみれにしてやりたい。もっと化け物みたいなのに犯されたい。何の事?』
とんでもない言葉に女王自身は動揺する様子もなくそれは頭の中に響いた。
「考えてません! 全然考えてません!」
『頭を全部読んだだけよ。自分でも気づかないだけよ?』
「やめてくださいっ。恥ずかしいですっ」
『だから禁じられているのよ。客人には最大限尽くしなさい。酷い副作用があるわね。人として限界よ。魔装にこれを追加しなさい。青き心臓』
光がレニアの手に集まる。巨大な青い魔晶が現れていた。
『これで毎夜、女の快楽を集めなくても生きていけるわよ。イートスさん』
「あの、これは私の手には余ります。とてもこんなものを魔装には……」
『淫魔紛いの力は与えられても逆はまるで駄目なのね。仕方ないわ。セフィさん。暫くこの地で客人の面倒をお願い出来るかしら。嫌ならいいのよ?』
「赤の……セフィ……」
凍り付いたように目を開いたままレニアが呟く。
『では、視察旅行にも飽きましたので冒険行に参加させて頂きますね』
初めからそこに居たかのように、赤い魔装の魔法使いが馬車の近くに立つ。風が巻いた。長く赤い髪が揺れる。
『よろしくお願い致します』
ドレスのような魔装で小さくスカートを摘まんで、頭を下げる。
『ホロモスの森は確かに要衝。今の内に制覇しておくのも手でしょ』
にっこりと微笑んで、馬車の二列、二席の前の席に乗り込んだ。レニアの隣だった。
「イートスさん、レクシアさん、しばらく行動を共にします。セフィです。赤の魔法使いと恐れる人も居ますが、過大評価なんです」
はにかんだような笑顔だった。
怒らせればただ事では済まないだろうが、人好きだろう顔立ち。
「火使い、ですね?」
レクシアが恐る恐る、という声で聞いた。
「畏まらないでね。そう。見た通り。狩りの邪魔はしないわ。森ごと焼いて欲しければそうするけどね。……ちょっと、レニアさん! 早く青の心臓を持って乗って。どう加工するかはこれから考えるから」
「はっ、はいっ」
慌ててドアを開けてレニアが乗り込む。背筋を伸ばしてセフィの隣に座った。
「あなたは懲罰任務だから畏まってていいわ。ま、いいか」
機嫌は常に良さそうなセフィがくすくすと笑う。
馬車の乗員では誰よりも若く見えた。だが実力では畏敬すべき存在なのだ。
イートスも魔力は感じることくらいは出来る。まるで違うというのが体感出来る。
その気になればゴブリンの集団など一瞬で灰になるだろう。
隣に座っているレニアが心なしか青ざめている事からも分かる。
四人、しかも一人は実力者となれば森の制覇という大仕事も現実味を帯びる。
同時に不法改造された自分を思った。
セフィに頼ればこれ以上誰にも恥辱を与えなくて済むのだろうか。
青く輝く魔晶が明るく馬車の室内を照らしていた。
魔晶を見詰めていることに気付いたのか、
「別に昨日の事くらいでしたら私は幾らでも協力致します」
と、レクシアが小さな声で言って窓の外を向いた。怒っているようにも見えた。
「ずっと忘れられませんから」
そう言って遠くを見ていた。
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