第2話 宝箱ー最後の言葉



「ここが、あの人が言っていた場所」


 私の目の前には、一つの建物が建っていた。

外見は黒を基調とした、長方形の建物。

その顔面には、広く綺麗なコバルトブルーの海が広がっていた。

砂浜の方に降り立って、記念写真を撮っている若者が少なからず居た。


 カサリともう一度、あの人から送られた手紙を広げて確認してみる。

あの人からの手紙が届いたのは、つい数日前のことだった。



         *       *       *


 それはいきなりの出来事だった。


「母さん……父さんが」


 いつもは鳴らない時間帯に鳴った電話。

その着信音がやけに耳に張り付いた様に記憶しているのは、その出来事が済んだから、そう結び付けたいのかどうかさえ、もう忘れてしまった。


 それくらい私には衝撃的な出来事だった。


 電話の向こうは、愛する子供の声。震えるのを必死でどうにか抑えながら、私に連絡してくれているのが分かった。


 今日は二人で出掛けたはずだ。

折角だから、夕飯は子供の好きな物を作るからと、駄々をこねる子供をあやして、出掛けるのを促した。あの人は、出掛けるまで少しだけ困った様に眉を下げて笑っていた。


 そんなあの人に、よろしく、といつもの様に手を振った。


 あの人もいつもの様に、心配しないで、と応えてくれた。



 その数時間後に、聞きたくない電話が鳴るなんて、想像にもしていなかった。



      *       *       *



 「ごめんな……さい……ごめん……グシュ……い……」


 子供は私の姿を確認するや、泣きじゃっくった声で、嗚咽をどうにか我慢しながら、ずっと謝っていた。

この子が謝ることなんて一つもないのに、この子は優し過ぎるから、あの人に似て優し過ぎるから、自分のせいだと思い込んでいるようだった。


 私が初めにすることは、あの人の顔を確認することじゃなくて、子供を安心して抱きしめてあげることだった。


「あなたは悪くないのよ」


 ギュッと子供の身体を抱きしめて、背中を優しく叩いた。

同じ目線にしゃがんで、耳元で小さく少し低く安心する声で囁いた。

それでもこの子の不安や罪悪感を全ては取り除けなかった。

私の腕の中で、私の胸の中で、子供はただただ大粒の涙を流すだけだった。


 ひとしきり子供が落ち着いてから、私は職員の案内の元、あの人の顔を見に行った。


「確認をお願いします」


 なんだかどこかでカメラでも回っているんじゃないのかって思うほど、部屋の中は静まり返っていた。


 目の前で横になっている人が、いきなり上半身を起こして、


「ごめんごめん、気持ちよく寝ちゃったよ」


 なんて右手で髪の毛をかいて、イタズラが過ぎて困惑している子供の様な顔で、そう言うんじゃないかって、少しだけ私は期待した。


 でもあの人の瞼は、ピクリとも動かなかった。


「主人です」


 ひどく冷静な、でもハッキリとした声で、自分の声だとは思えないくらい固い声が、その場に落ちた。


 あの人の顔を見て、あの人じゃないなんて、どうして言えようかと思うくらいに。


 涙が不思議と出てこなかった。

子供があれだけ私の代わりに泣いてくれていたかのように。


「それでは……」


 その後の職員の人の説明を、私は一切覚えていない。

けれど、淡々と目の前で説明をしてくれる人の通りに、私は行動した。

そうしておけば、とりあえず大丈夫だと、頭のどこかで誰かが言っているみたいに。


 ひどく疲れたのに、一睡も眠くないみたいな、でも体はダルさを感じているのに、心は酷く無心に近かった。


 怒涛の様に式を済ませ、親戚の方に少しだけ心配されながらも、気丈に振舞っているのねなんて社交辞令を言われながら。


 私はその間も、体は動いているのに、一切思考が停止しているかのように働いた。

まるで、一番基底の部分に、プログラミングされている行動を、ただ黙々とこなしているかのような感覚だった。


眠りたいのに眠れない。


泣きたいのに泣けない。


心から思いっきり感情を出したいのに出せない。


 そんな私の姿を、周りの人がどんな風な顔で見ていたのかさえも覚えていない。


 数週間は、ポッカリと体の中心に穴が開いたかのような感覚だった。

日常の生活の行動は、一つの乱れも忘れもなく行えた。

けれど、何を見ても何も感じれなかった。

何を聞いても何も思わなかった。


 ただの入れ物として、母親という形を保ったロボットのように、私は日々をこなした。


 そんな日常が過ぎると、途端に次はわけもなく涙が零れるようになった。

何を見ても何を聞いても何もしなくても、いつの間にか目からポロポロポロポロ、嗚咽は出ないで水だけが壊れた蛇口の様に零れた。


四六時中タオルが手放せなくなった。

外に出てもすぐに涙が出てくるから、外出も出来なかった。


 その間は、少しだけ回復した子供が、買い物の代わりをしてくれた。


「やっと母さんは、疲れが出てきたんだよ」

 

 ゆっくりしてよと子供は優しく、あの人に似た目を私に向けてそう言ってくれた。


掃除だけは、涙を流しながらも、一通り行った。

料理も涙を料理の中に落とさない様にしながら、作った。


「気を張っていたのが、切れたんだよ。母さん、ゆっくりして」


 そう言ってくれた。



      *       *       *



「母さん、手紙が!」


 子供が声を荒げて、ある日そう言ってきた。


「どうしたの?」


 その頃には、涙は止まっていた。

キチンと涙が出る場所も時間もコントロール出来るようになっていた。

少しばかり暢気な声で聞いた私に向かって、子供は頬を高揚させて、少し震える声でもう一度言った。


「驚かないで、母さん。手紙だよ。誰からだと思う?」


 子供が震えながら握っていた手紙に、目が留まった。


「誰からなの?」


 昔の友達? と言いそうになった私の言葉を遮って、子供は差出人の名前を私の方に見せた。

その文字を確認した途端、私の目は見開いたまま止まった。

私が止まってしまったのを子供も確認したのか、


「嘘じゃないよ? 母さん」


子供の顔を見ると、その目からは涙が一滴、二滴と流れていた。


 震える子供の手から、手紙を丁寧に受け取って、中身を二人してゆっくりと時間をかけて開封していった。


 手紙の内容を確認して、急いでチケットを取った。



      *       *       *



 そして今に至る。


「早く入ろう」


 そう子供に急かされて、私は建物の扉に手をかけた。

扉を開けて中に入ると、スタッフの女性が二人立っていた。


「こんにちは」


 中にも数人、人が居た。

目の前の受付で、入場料を支払った。

折角だからと、子供と二人して中に入った。


 一つ目の部屋には、モニターが二つ並んでいて、そこに誰の心臓の音なのかの説明が書かれてあった。


 それからもう一つ奥の部屋へと入った。

暗く暗くどこまで先が続いているのか分からない部屋が続いていた。

小さく灯が零れていて、チカチカと点いたり消えたりしていた。

その電球の方に向かって、ゆっくりとゆっくりと歩を進めた。


 他人の心臓の音が、心地良いとは思わなかった。


 普通は聞けない、自分の心臓の音しか聞けない、だからこそ、特別に思えたのかもしれなかった。


 暗闇の中から出て、受付のある場所まで戻った。

そこで、人が居ないのを確認してから、私は職員の女性に尋ねた。


「この人のメッセージを見ることは出来ますか?」


 私は家から持ってきた物を見せた。

それは、ここで録音出来る心臓の音だった。



      *       *       *



 手紙には、ここの場所と心臓の音が入ったDVDの在処が書いてあった。


 あの人が居なくなってから、あの人の持ち物を一通り片づけたけれど、それでもまだまだ手をつけれていない場所があって、そこにそれはポツンと、所有者を無くして迷子になっているみたいにいた。


 それから子供と一緒に、その音を聴いて、その中にもう一通手紙が入っていて、それをまた読んで、この場に至る。



受付の女性は、私の言葉と物を確認して、


「しばらくお待ちください」


と言って、分厚い大きな新聞紙くらいはあるような紙の束を持出して、パラリとめくり始めた。


 番号があったのか、それを確認してから、故人の名前を言われる。


「はい、そうです」


 懐かしいあの人の名前を聞いて、胸の奥をギュッと締め付ける感覚がした。


「少々お待ちください」


 また職員はそう言って、何事か確認しに、別の部屋に入っていった。


 しばらく後ろにあるベンチに腰掛けさせて貰った。


 そうしていたら、職員の人が出てきて、


「今回は『特別に』、とのことです。こちらにどうぞ」


 とある部屋に案内された。


 子供と二人、ドキドキしながら、職員の後ろをついて歩いた。


 部屋の中は真っ白で、真ん中に机が一つとパソコンの画面が一台、ヘッドフォンが一つ、キーボードが一つ、椅子が二つ置かれていた。全ての物は黒で統一されていて、尚更部屋との対象具合が際立っていた。


「こちらに掛けて、お待ちください」


 そう言われて、椅子に座る。

職員が目の前のパソコンをカタカタと操作した。

心地良いタイピングの音が、静かな部屋の中に響いた。


「どうぞ、ヘッドフォンを」


 そう言われて、


「心臓の音は、もう何度も聴いているの」


 と喉の上まで出かかった言葉を、飲みこんだ。

何度聴いても、愛しい人の今は聴けない音は、いつまでも耳元で鳴らしていたいと願ってしまう。


「はい」


 代わりに合意の言葉を伝えて、ヘッドフォンを軽くかけた。


「音量は、こちらで調節してください」


 そう柔らかい声が、優しく促してくれる。


「ええ」


 何度でも聴ける、あの人の音。


 思わず右の目尻に涙が溜まり始めた。


 職員の方がカチリとボタンを押すと、ジジジという音の後に、ドクンと懐かしいあの人の音が鳴り響いた。



ドクン……ドクン……ドクン……




 何度聴いても何度聴いても、毎回新鮮な気分になる。


 何度も生でも聴いたのに、それでも足りないかのように、私の細胞中がその音を欲していた。


「こちらにメッセージがあらわれます」


 途中で職員の人が、マウスで示してくれた箇所の説明をしてくれた。


「お願いします」


 そう言うと、カチリと音がして、不器用な言葉がそこに表示された。


【サキ・ソウタ、これを見ているということは、僕の手紙を読んでくれたのかな?

3人でこれた? 2人かな? 急で驚かせてしまってすまない。

ただ一言言いたい。いつまでも君たち二人のことを愛している。】



 イタズラのようにそこに残されていた言葉が、あの人の真実だった。



【いつまでも君たち二人のことを愛している】



 だから、もう泣かないでくれ。

もう自分を責めないでくれ。

僕は君たちの傍にいつでもいつまでも居るのだから。


 そう後ろに書かれているような気持ちを持った。


 あの人なら、きっと主人ならそう書くだろう。

ただ、文字数の制限があって、そうは書けなかったのだ。


 あの人らしい。


 一言、一番言いたいことは最後にサラリと残す。


 始めに言ってくれたらいいのに、恥ずかしいのかまるで聞こえなかったかのように最後に伝える、あの人の悪い癖。


「母さん」


 子供が私の手を握った。


「ええ」


 子供の顔を見ると、涙を流していた。

気がつくと私も両目から涙を流していた。


「あと、本当はこういうことはしていないのですが……」


 そう言って、女性が控え目に私たちにある物を差し出した。


「これは?」


 職員の手から、小さな黒い箱を受け取ってから、そう聞く。

重くはなく、むしろ軽すぎる。大きさは両手ですっぽりと収まるくらいで。


「お預かりしていた物です」


 そう言われて、箱をもう一度マジマジと見た。


「預か……り?」


 ポツリと独り言の様に声を落とした。


「本来はそう言ったことは出来ないのですが、特別に」


 【特別に】……その言葉の甘美な響きに、思わずあの人はそんな時からもう分かっていたのか、とため息を尽きたくなった。


 一言も相談してくれなかった。

自分自身の体のことを、一言も。


 そして、最後の時まで何も言わずに、同じ日常がいつまでも続くのだと勘違いさせるように振舞った。



 パコと箱を開ける。


 その中にはまた一通の手紙と、いくつかの物が入っていた。

どこに無くしたんだろうかと思っていた、子供が幼稚園で初めて作ってきたブローチ、結婚前に買ってくれた物、家族で初めて旅行に出かけた先で取った貝殻。


「また、隠していたの?」


 思わず声を出してしまった。


手紙を広げると、そこには変わらないあの人の文字が並んでいた。




      *       *       *




帰りのフェリーの中で、もう一度私は箱を開けた。


「父さん、こんなに隠していたんだね。聞いた時はしれっと知らないぞ、なんて言って」


 子供も中身を見て、そう思い出話を始めた。


「本当よね。困ったお父さんだこと」


 そう笑いながら、手紙を何度も何度も読み直す。


そこには、一言、


【 I  LOVE YOU FOREVER 】


と書かれてあった。



「なんで英語なんだろう?」


「あら? お父さん、実はクオーターなのよ? 知らなかった?」


 子供にそう言うと、


「知らなかったよ! 全然分からないし。」


目一杯目を見開いて、驚いた声を彼は出した。


「見た目からは分からないものね。でもね、あの人、父方の祖父をすごく尊敬していたのよ。だから、英語超得意なの。でもひけらかしたりしない様に、気をつけていたのよ」


 フフフと笑って、子供にそう伝える。

言ってくれたら良かったのにー、と子供は少しだけいじけていた。


 ふと船から見える空を眺めて、


「今度、お父さんのお墓にこれ持って行こうか?」


 と子供に提案した。


 すると、


「行こう。あと、僕が知らないお父さんのこと、もっと教えてよ、お母さん」


 と子供が元気な声で聞いてきた。


 まだまだ教えていないあの人のことを、子供に伝えることを私はワクワクしながら、手紙をしまった。




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