第20章 うつむかないで歩けます

「おれたちは、一度家に戻るから」

 朝飯は用意しといたよ、と孝志に言われて、貴美子は恐縮した。不思議な人だ。到着した貴美子を太陽のような笑顔で出迎えてくれた時は、思わずただいま、と言いそうになった。

「ありがとうございます」

 竹、と言いかけて、急いでたか兄さんと言い直すと、孝志は満足そうにうなずき、それから貴美子に連絡先を書いたメモを寄越した。貴美子が帰る時には車で送ってくれるという。

 重ねて礼を言いつつ、孝志と健太を見送ると、貴美子は健司の枕元に座った。時折、苦しそうに顔を歪めるのが見ていて辛い。

 午前4時。聞こえるのは水槽の機器が出す、かすかな振動音と水が循環する音くらいだ。

 水槽――そういえば、あの子は? 部屋を見回し、玄関へ向かうドアの傍に水槽を見つけた。水槽の照明は消えている。近づいてそっとのぞくと、砂利の上に座り込むようにしていたでめこが顔を上げた。

 起こしちゃったかな。ごめんね。

「おはよう」

 小さな声で挨拶すると、でめこの目玉が、ゆっくりと水面近くまで上がってきた。

 そのまましばらく、でめこは貴美子の方を見ていたが、そのうち大きな尾びれを優雅に広げて、静かに頭を沈めた。おじぎをしてくれたの?

 泡を吹いて返事をするって、浩子さんの話は本当だろうか。今度、健司さんと会話するところを見せてもらおう。

 空が白むころ、熱が下がった。

「良かった」

 健司の寝顔も少し穏やかになった気がする。

 ロングサイズのベッドの向かい側には、パソコン以外に何も載っていない机と棚が置かれている。 

 棚には自然科学系の書籍に金魚の専門誌、数冊のバイク雑誌とレシピ本が、何かで計ったように高さと背表紙を揃えて並べられていた。そして貴美子が手紙で紹介したCDが一枚。

 さっきキッチンに入った時も驚いた。購入する時は機能面から徹底的に吟味する、と手紙にあった通り、厳選された調理器具が整然と収納されていた。毎晩の配達で忙しかったはずなのに、どこも掃除をしたばかりのようにぴかぴかだ。

「“邪魔だから、たか兄のは置かないよ”だってよ」

 ここには健司と健太のカップしかないからと、健司を憑依させたかのような物真似をしつつ、孝志が竹中家から持参したコーヒーセットでもてなしてくれたのを思い出し、おかしくなった。名物の“健太ブレンド”に、孝志は手紙で知らされていた以上に大量の砂糖とミルクを流し込んだ。

 これが健司さんの暮らしなんだ。健司の手紙から、貴美子が想像していた暮らしぶりのイメージが少し修正された。思っていた以上にきっちりした人みたい。散らかしたりしたら怒られそう。ほのぼのした気持ちを胸に、また枕元に座る。

 不思議。会って顔を見るのがあんなに怖かったのに、卑屈な気持ちになったりしないで、普通に彼の顔を見ていられる。寝顔だからかな。

 どうか、早く良くなりますように。

 気が緩んで、いつの間にか、そのまま眠り込んでしまった。


* * *


 しばらくして、貴美子は目を覚ました。はっと顔を上げると、優しい眼差しが飛び込んできた。

「おはよう」

「!」

 思わず後ずさった。至近距離で寝起きの顔を見られるのは、ちょっと――。

「いつから?」

「30分くらい、前かな」

 すごく恥ずかしい。

「あの、具合、どうですか」

「おかげさまで、かなり楽になりました」

 貴美子が水のボトルを差し出すと、健司はありがとうとうなずき、ゆっくり体を起こした。壁に寄りかかろうとして、痛そうに後頭部を押さえている。

「大丈夫ですか」

 水を飲むと、健司はまた頭に手をやった。

「フライパンでやられました。さすがに痛いな」

「え?」

 わけを聞いて驚いた。高熱を出しながら、バイクに乗るつもりだったなんて。殴られたのは気の毒だが、止めてくれてよかったと貴美子は孝志と健太に感謝した。

「でも、こんなに痛いってことは」

 夢じゃないんだ、と健司は言った。

「はい」

「でも、どうやってここに?」

 貴美子は昨晩のことを説明した。

「どうか、健太君のこと、怒らないであげてください」

 健司が来られない理由は、自分が無理やり聞き出したのだからと、貴美子は必死で伝えた。

「約束破っちゃった、って健太君、すごく気にしてました」

「健太には、後でお礼を言いますよ」

 おかげで会えました、と微笑まれ、安心した。

「来てくれて、ありがとう」

 彼の顔――笑顔を見るのは何か月ぶりだろう。本当にずいぶん待たせてしまった。

「こちらこそ」

 長い間、お手紙ありがとうございました、と何とか声を絞り出しながら、頭を下げた。

「ごめんなさい。私がもっと早く勇気を出していれば」

 もっと早く、極寒の夜の配達を止められたのに。

「貴美子さんのせいじゃないです」

 配達楽しかったし、と穏やかに微笑んだが、少し顔を曇らせた。

「でも、続けたことで、かえって君を苦しめてしまった」

 あなたの苦難に比べたら。貴美子は申し訳なくて、首を振った。

「会わないうちに、ずいぶん感じが変わった」

 そうだと思う。姉の魔法を差し引いても、一時、食べ物が喉を通らないような日々があったせいか、持っていた服はほとんど体に合わなくなっていた。

「髪や、眼鏡も」

「変えました」

「でめきんじゃ、なくなったね」

「がっかりしました?」

 ほんの少し、不安がよぎる。

「いや」

 健司が笑った。

「今のもいいです。すごく可愛い」

「ありがとう」

 今なら、彼に可愛いと言われて、こんなに素直になれる。

「でも、お姉さん、ちょっとやり過ぎだな」

「え?」

「いや、何でもありません」

 そうだ、私、大事なこと言わないと。貴美子はそっと息を整えた。立ち上がり、視線の高さを合わせる。

「健司さん」

 健司は黙ったまま貴美子を見ている。と思ったら、胸に手を当て、貴美子に言った。

「あの。お願いしていいですか」

「はい」

 なんだろう、急に。

「もう一度、呼んでもらえますか」

 名前を? 言われたとおりにすると、健司は、うわ、と小さな声でつぶやき、笑ってるような泣いてるような微妙な顔で頬を押えた。

 そういえば、お互いに下の名前で呼び合うようになったのは、手紙のやり取りを始めて、ずいぶん経ってからだった。おかしく思いつつ、健司の様子では、しばらくこのやり取りを続けることになりそうなので、貴美子は先手を打つことにした。

「お話ししたいことが、あります」

「あ、すみません」

 健司は頬から手を放し、貴美子を見た。

 気を取り直して、もう一度。

「私、もう大丈夫です。うつむかないで歩けます」

 ちゃんと目を見て言えた。自分の中の、芯のようなものがしっかり支えてくれているような感じがある。

「それは、良かった」

 優しい微笑みが返ってきた。

「誰かを、好きになることもできました」

「うん」

 遅くなってごめんなさい。心で詫びつつ、

「その、誰か、なんですが」

「え、それ今言います?」

 健司が意外なほど驚いた声を上げた。

「ごめんなさい。そうですよね」

 今さらわざわざ言わなくても、ね。彼の性格考えたら、一応はっきり伝えといた方がいいかなと思ったんだけど。

「俺、初めて熱出して、今かなり弱ってますから」

 健司が言った。

「体力回復した頃に、メールか何かで知らせてください」

「はい?」

「答えがどっちでも、ショックが大き過ぎる」

「どっちでも、って」

 力が抜けた。86日の間、彼が支え続けた貴美子が、ここにきて“いいお友達でいましょうね”なんて言う可能性があると思っているのだろうか。

 ショックを与えるのは気の毒だが、早く喜んでもらいたい、とも思う。貴美子は心を決めた。

「いいお知らせなら、今言ってもいいですか?」

「いい、お知らせ……」

 健司はつぶやくように発すると、何秒か目を閉じた。それから目を開け、ベッドの上で少し背筋を伸ばすように座り直した。

「どうぞ」

 今度は自分がどきどきしてきた。そうだ、私も告白するの初めてだ。顔から火が出そうだし、こんなに胸が苦しくなるんだ。

「好きになったのは、あなたです」

 健司さんのことが大好きです! 言い終わった途端、健司が何かに射抜かれたように胸を押えた。そのまま微動だにしない。貴美子自身も体が震えていたが、何とか声を出した。

「大丈夫、ですか?」

 目の前で手を振ってみる。健司の目は何もない空間を見つめている。

「だめだ。もう死ぬ。幸せ、過ぎて」

「そんな」

 何のために今までがんばってきたんですか! 自分が言えた義理ではないが、何とか健司を正気に戻そうと貴美子は必死で訴えた。

「一緒にあちこち、楽しいところ行きましょう。今まで我慢していただいた分、健司さんのリクエスト、何でも聞きます」

 しっかりして。肩を叩いたら、目に光が戻った。

「それ、本当ですか」

「ええ」

 とうなずいたものの、ちょっと後悔した。何を要求されるんだろう。

「前の眼鏡、まだあります?」

 あの黒ぶちの?

「あります、けど」

「たまに、いや、できれば時々」

 そっちもかけてもらえると嬉しいんですが、と申し訳なさそうに言う。

 貴美子は絶句し、吹き出した。

 本当に、でめきんフェチなんだ……。


(読んでいただき、誠にありがとうございました。二人の初デートは「スパイより愛を込めて」でお楽しみください。ペトラ社の浩子さんとゆかりちゃんが二人のデートを尾行します。

 プロポーズや結婚生活の様子は今後公開します。どうぞよろしくお願いいたします。

 また、おまけとして、第13章で紹介されたクリスマスのエピソード「サンタクロースの代理人」(健司15歳、健太6歳のころ)をこの後に載せておりますので、続けてご覧いただければ幸いです)

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