第19章 夜中のタンデム

 午後10時30分。 

 昨夜の豪雨は朝には止んだが、寒さは一層厳しくなった。あれから無事に帰れただろうか。貴美子は今日一日中、そのことばかり考えていた。

 今夜も、来てくれたら出て行って会うつもりだ。なのに、会おうと決めてから、天候や気温が健司にとってますます過酷なものになっている。どうしてこう、うまくいかないんだろう。

 その時、外で爆音がした。こちらに近づいてくる。バイクだ。でも家まで乗りつけることはないから、彼じゃない。

 そう思いつつも、胸騒ぎがして貴美子は階下に降りた。リビングから両親も出てきた。

「音は似てるが、違うよな」

 父も貴美子と同じことを考えたようだった。

 爆音は貴美子の家の前で止まった。

 どういうこと? 思っていたら、呼び鈴が鳴った。

 貴美子がドアを開けると、健司と同じくらい長身の、男というには顔に少し幼さを残す、少年が立っていた。

「こんばんは」

 真っ赤な顔で、寒気の中に白く息を吐きだしながら、少年は頭を下げた。

「竹中健太と言います。遅い時間にすみません」

 健太君?

「けん兄から、貴美子さんへの手紙を預かってきました」

 貴美子は差し出された封筒を受け取った。

「あり、がとう」

「ちょっと君、少し休んでいきなさい」

 父親が健太に声をかけた。

「いや、すぐ帰りますから」

「そんなこと言わないで」

 母親も心配そうだ。

「すごく寒かったでしょ。温まっていって」

 健太は少し迷っていたが、

「じゃあ、すみません」

 お邪魔します、と言って、がっちりとした上着のファスナーに手をかけた。

 健太がリビングに入ると、貴美子は玄関の上り口に立ったまま、手紙を開封した。

 今晩、健太君が来たのはなぜだろう。

「本当に申し訳ない。今日は行けません。健太に手紙を預けて下さい。楽しみにしています 健司」

 彼の字に間違いない。ペンのインクもいつも通り。でも、おかしい。リビングに入り、呼びかけた。

「健太君」

「え? はい」

 健太が振り返った。

「健司さんに、何があったんですか?」

「いや、えっと、確か研究所で」

 泊ま――と健太は言いかけたが、貴美子が鬼気迫る勢いで足元に座り込んだせいか、途中で言葉を飲み込んだ。

「病気なの? それとも事故?」

「……」

 顔いっぱいに浮かんだ“やっべえ”が、みるみる哀しそうな表情に変わっていく。“健太は、誰にでも優しく、俺が地球上で一番信頼している男です”と健司は手紙

に書いていた。

「お願い。本当のこと教えて」

 貴美子は泣かんばかりにして訴えた。それを見てか、健太はますます辛そうな顔になった。しばらく頭を抱えていたが、やがて固く目を閉じて、ごめんな、とつぶやくと、貴美子に向き直った。

「高熱を出して、寝込んでます」

 やっぱり。昨日の雨だ。あんな冷たい雨に打たれ続けたら、熱を出すのは当たり前た。

 ううん、違う。

「私のせいだわ。私が待たせ過ぎたから、こんなことに」

 なぜもっと早くドアを開けなかったのか。手紙を胸に当てる。本当にごめんなさい。

「貴美子さんのせいじゃ、ないすよ」

 小さな声が降ってきた。

「――健太君」

 貴美子は顔を上げた。

「私を、彼のところに連れて行ってください。お願い」


* * *


 それからしばらく、町田家は大変な騒ぎだった。

「連れて行って、って貴美子。高速走れるの?」

 車は使わないつもりだ。貴美子は健太に尋ねた。

「健太君の後ろ、乗れますか?」

 それを聞いて、両親が驚いたような声を上げた。

「乗れます。乗れますけど」

 寒いし、かなりキツいすよ、と健太は心配そうだ。

「いいです。お願いします」

 それでも、普通の冬服にコートではとても乗っていられないというので、母親の発案で、何年も使っていなかったスキーウエアを引っ張り出して、その中に何枚も着こんだ。着替えや財布など、必要な荷物は母にリュックを借りて詰め込んだ。

「ヘルメットは?」

 母親が思い出したように言った。

「二人乗りするなら、要るでしょ」

「聡子のは? 前に使ってただろう」

「あれは、ずいぶん前に捨てちゃったわよ」 

 三人で頭を抱えていたら、

「ありますよ」

「え?」

「ヘルメットなら、妹のがあります」

「用意がいいね」

 父の感心したような声に、健太は照れくさそうに微笑んだ。

 準備を整え、外に出た。玄関の前には、艶消しブラックのフレームが重々しい大型バイクが停まっていた。

「む? これは」

 貴美子の父親の声に健太はうなずいた。

「はい。従兄のです」

 でめきんブラックの“でめ太号”。これで毎晩来てくれてたんだ。手紙で読んだり父親から聞いたりして、だいたいの雰囲気は分かっていたつもりだったが、思っていたよりもだいぶ大きかった。確かに古いアメリカ映画に出てきそうな感じ。

「貴美子さんは初めて見ますよね」

「ええ」

「旧車カスタム。いいでしょ」

 健太は自分の愛馬を自慢しているようだ。

「ほんとは、もっとカッコよかったんだけど」

 健司が取り替えたシートに、健太が不満を持っていることは、手紙で読んで知っていた。でも、二人乗りにしてあったおかげで、こうして会いに行くことができる。

「じゃ、行きますか」

「よろしくお願いします」

 バイクの二人乗りなんて、生まれて初めてだ。健太はあまり飛ばさずに走ると言ってくれたが、ウエアの隙間から入り込む冷たい風に、身を切られるようだ。それでも、貴美子の前には健太の背中があり、前からの風を遮ってくれる。前でハンドルを握る健太は――そして、86日もの間、往復を続けた健司は、その身にどれだけ寒風を受けたことだろう。

 轟音の中、彼は毎晩どんなことを考えながらこの路を走ったんだろう。実際に走ってみると、思っていた以上に遠く感じる。貴美子は改めて健司の想いと、バイク便の文通が今まで続けられたことの奇跡を思った。

 これだけ長い間、何かに跨がっているというのは、普段の生活にはないことなので、途中休憩でバイクを降りた時には、歩くのもままならないほど足腰が強張った。

 そして、一つ気付いたことがある。健司とはずいぶん雰囲気が違うが、健太も整った顔立ちをしている。これまでの貴美子だったら、初対面の男子高校生にどう接したらいいか分からず、逃げ出したくなっていただろう。人当たりの良さそうな、健太の持ち味のおかげかもしれないが、自分が気後れしないで話せることが不思議だし、嬉しかった。

 途中何度か休みながら、ようやく健司の住むマンションに着いた。午前2時を回っていた。


* * *


 健司は砂漠を歩いていた。

 自分を中心に砂と空だけの世界。

 どこに向かえばいいんだ?

 目指す方向が分からないのでは、太陽を標にするのは無意味だ。でも止まるわけにはいかない。

 傾きかけた太陽を背にして、一歩踏み出す。熱砂の上は歩きづらい。上からも下からもじりじりと焼かれているようだ。 

 暑い……熱い。

 この砂漠はどこまで続いているんだろう。

 顔を上げる。はるか先にそこだけ色の違う部分があった。

 近づくにつれ、その正体が見えてきた。萱のような植物が砂から突き出るように生えている。さらに近づく。砂の中の小さな湖。オアシスだ。

 不思議と、湖水を飲もうという気は起きなかった。水際に立って湖面と植物を眺めていると、向こう側の砂地に、何か黒い塊が見えた。

 砂に足をとられながらも、走って湖を周りこんだ。砂地の上でじっとしている、それは。

 でめこ――。なぜ砂漠に? 

 でめこは湖に向かって、普段眠っている時のように、ぽたりと座り込むようにしている。

 寝てるのか。

 そっと近づく。でめこはでめこだが、健司が飼っている愛魚の大きさではない。サッカーボールくらいに巨大化した状態で、そこにいた。

 ひょっとすると、ここは水槽の中か? だったら息苦しいのも当たり前だ。なぜ自分が呼吸できているかはともかく。それにしてもこの温度は、でめこには暑すぎる。

 でめこがかすかに尾びれを動かし、砂をかいた。不思議な光景だ。水槽に砂なんか入れたかな。

 急に疲労が襲ってきたので、自分もでめこの隣に横になった。片頬に砂が触れたが、それほど熱くなかった。

 でめこの隣で寝られる日が来るとは思わなかったな。でめきんと添い寝。 

 もういつ死んでもいい。幸せだ……。幸せだけど、暑いな……。

「――苦しそうだね」

「ああ。でもさっき、うなされながら、でめこ、ってつぶやいてたぞ」

 頭上で声がする。よく知っている声だ。

「一緒に、泳いでんじゃねえか?」

「どんな夢だよ」

 遠くで笑い声も聞こえた。

「あの、病院に行かなくて、いいんでしょうか」

「けん兄はね。病院だめなんです」

「え?」

「看護師さんって女の人ばっかりでしょ。昔、すげー怖い目にあったらしくて」

 急に不快感が襲ってきた。でめこの傍にいるというのに。

「ま、こいつの病院嫌いも、そのうち治るさ」

「なんで、そんなこと分かるんだよ」

「いつか、こいつも家族を持つようになる。嫁さんが病気することもあるだろうし、子どもができた日には、病院とは無縁でいられなくなるだろ」

「そっか。そだね」

 声が少しだけ、遠くなった。どこかで、かすかに物音がしている。何もない砂漠で。変だな。

「ごめんな。単車なんかで連れてきて」

 寒かったろ? と聞こえた。

「はい」

「寒いどころじゃねえって! 顔切れそうだったもん。鼻水凍ってたし!」

 この声が一番大きい。

「あんなの毎晩なんて、オレは、ぜってー無理!」

「でも、乗せていただいて良かったです」

「マジすか?」

「ええ。彼が毎晩どんな道を通って、どれだけ大変な思いをして来てくれていたのか」

 胸に詰まるような声。

「車や電車じゃ、絶対分からなかった……」

 ありがとうございました、と女性の声がした。聞き覚えがある。

「そう言ってくれると、こいつも報われるよ」

 ねえ、親父。大きな声が呼びかけた。

「オレが行く前に、美春のメットも持っていけ、って言ったじゃん?」

「ああ」

「今晩、一緒に来てくれるって、知ってたの?」

「何回言わせんだ。おれは神様なんだって」

「これですよ。いつもこう」

 小さな笑い声がした。

「本当はどうなんだよ?」

「3か月近く、奴の字を見続けてきたんだぞ。字と文面見りゃ、分かる人には分かるんだよ」

「へえ、そうなんすか?」

 問いに答えがあったようだが、よく聞こえなかった。

「すっげー!」

 何なんだ、こいつは……。

「でもさ、オレので行かなくて良かったね」

「何が」

「来てくれるって言ってもさ、オレのはソロシートだから、乗せてこれなかったもん」

「偶然だと思うか?」

「は?」

「お前の単車、ばらすのは明日だ」

「おお~! さすが親父!」

 拍手? 頭に響く。

「うるさ、い」 

「あ、気がついた!」

 あいかわらず、頭が痛い。体中が熱い。ふと頬にしっとりとしたものが触れた。手――手のひらだ。 

「下がりませんね」

 少し瞼を開くと、名前を呼ばれた。

「分かりますか? 私です」

「え……?」

「貴美子です」

 そういえば、砂漠のでめこはどこへ行ったんだろう。

「でめ…こ」

「やっぱり、打ち所が悪かったのかな」

 焦点が合わない。

「けん兄、しっかりしろ! 貴美子さんだよ」

「貴美、子さん?」

 目が合った。

「私、来ました」

「あ…」

 心配そうな顔が目に入った。自分の知っている貴美子とは、少し印象が違う気がするが、間違いない。

 でめこが呼んできてくれたのか。

「ありがとう……」

 なんて素敵な夢なんだ。

「夢、でもいい」

 砂漠に日が落ちた。急激に暗くなる。

「逢えて、よかった……」

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