第18章 今夜は来ないで

 1月の中頃は、何日か雪がちらついたり、少しだが積もった日もあった。そういう日はかなり減速したり、ルートを変更したりすることになるので、移動にいつも以上に時間を要した。積雪よりも、昼間解けた雪が夜になって道路を凍らせる方が、さらにやっかいだった。

 下旬に入ると、今度は雪が降らない代わりに断続的に雨が降った。手紙を届けることは苦にならない健司も、さすがに天を恨みたくなるような悪天候が続いた。

 帰りが遅くなる日が続けば、その分寝ずに研究所へ向かう日も増える。休日はほとんど体力回復に当てることが増えてきた。ただ、水槽と単車のメンテナンスだけは毎週念入りに行った。


* * *


 86日目。1月25日。

 神様はやっぱり意地悪だ。

 貴美子は絶望的な気持ちで、窓ガラスを叩いた。

 今夜こそドアを開けると、やっと決心がついたその日に、どうしてこんなに雨を降らせるの?

 会社から駅まで、駅から車までの少しの距離でも傘がまったく役に立たず、ずぶ濡れになった。

 今夜はさすがに来られない――じゃなくて、来ないでほしい。あまりに危険過ぎる。

 今日だけは来ないことを祈っているし、来たことが分かればドアを開けるつもりだから、手紙を書いて入れておくのは矛盾している。だが、迷いに迷って、結局書いた。万が一健司がやってきて、貴美子が気付かないうちにポストを開け、中に何も入っていなかったらどれだけ失望するだろうと思ったからだ。

 考えてみれば、お互いに電話番号もメールアドレスも教え合っていない。今日は来ないで、と連絡できればいいのに。

 健司さん、お願い。今日は来ないで。次に来てくれた時には絶対ドアを開けるから、こんな冷たい雨の中、バイクで走ったりしないで。


* * *


 手紙を届け始めてから、何度か雨の日はあったが、ここまで強く降るのは初めてだった。

 しばらく待っていたらいったん雨脚が途絶えたので、急いで出発したが、途中からバケツの水をひっくり返したような降りになった。前が見えない。雪よりもたちが悪い。休みなく走ったが、低速でしか進めず、結局、到着したのは午前3時過ぎになった。

 これでは、手紙を投函し、回収するのも一苦労だ。何重にもビニールで包んだ手紙を入れると、貴美子の手紙も大きなポストの中で丁寧に養生し、身に着けた。

 鍵のダイヤルをかけ直すと、雨に打たれながら2階の窓を見上げた。カーテンの隙間から灯りが漏れている。まさか、こんな時間まで待ってくれてたのか? 申し訳ない気持ちになった。

 おやすみ――もう、おはよう、かな。窓に向かってそっと手を上げると、健司は公園へ向かってゆらゆらと歩き出した。足が重い。さすがに今晩は疲れていた。 


* * *


 午前3時を過ぎた。どうか来ませんようにと祈る気持ちと、もし来た時には、外に出て彼に会うのだと自分を奮い立たせていたこともあり、時計を見て、貴美子の気がふっと緩んだ。

 もう今日は来ないと思っていいかな。階下へ下りてポットの湯でお茶を入れる。

これまでずっと大変な思いをさせてしまったから、今日くらいはゆっくり休んでもらいたいな。

 再び階段を上り、部屋に戻った。もう少ししたらベッドに入ろう。

 それにしても、ひどい雨。滝の中にいるみたいだ。これ、明日には弱まるんだろうか。

 夜、自分の部屋にいる時は、ちょくちょく窓の外を見るのが癖になってしまった。カップを机の上に置き、ふと外を見ると、どしゃぶりの雨の中、自宅から運動公園へ向かって伸びる道路の先の方に人影が見えた。

 まさか。痛いほどの衝撃が、胸を突いた。いつの間に?

 階段を駆け下り、玄関を飛び出す。

「健司さん!」

 叫んだが、凄まじい雨音にかき消された。大粒の砂利が降り注いでいるかのようだ。傘なんか差してる暇、ない。

 人影を見かけた場所を目指し、ひたすら足を進める。追いつかないと。

 テニスコートまできた。お父さんは、彼がバイクをどこに停めてるって言ってた? 駐輪場? どっちに行けばいい? 

 夜、しかも大雨の中なので、運動公園の様子も昼間とはまるで違って見える。考えていると雨音とは別の、地を打つような轟音が聞こえてきた。バイク? 方向を確認しようと辺りを見回したが、その音は次第に小さくなっていった。

 重い足取りで自宅まで戻ると、貴美子は雨に打たれながら、錠の数字を合わせ、ポストを開けた。

 さっきの人影、人違いか私の見間違いでありますように……。

 ポストの中身は、入れ替わっていた。

 貴美子はその場に、崩れるように座り込んだ。


* * *


 手紙を交換し、少し歩いたところで、かなり後ろの方で何か物音がしたような気がした。健司は一瞬立ち止まったが、聞こえるのは、腹立たしいほどの雨音だけだ。気のせいか。

 帰りも豪雨、大雨、小雨の繰り返しだった。いたぶられているような気さえした。これは誰かの悪意が働いているに違いない、と生物学者らしからぬ怒りを覚えながら、健司は復路を進んだ。


 気が付いたら自分の町に辿り着いていた。雨は上がっていた。何時だろう。もう夜は明けているはずだが、濃い灰色の雲が空を覆っているので、ぴんとこない。

 今日……休みで良かった。

 とにかく今は、早く眠りたかった。こんなに体が重く感じるのは初めてだ。

 眠い……。でも、シャワーが先だな……。

 愛馬のハンドルを撫で、大雨の中の走行に付き合わせてしまったことに心で詫びを言う。何とかエレベーターに乗り込み、鍵を取り出した。

 ウエア、乾かしておか、ないと……

 自室のドアを開ける。

 そこで意識が途切れた。


* * *

 目を開けると、自室の天井が目に入った。額に何か貼り付いている。

 頭――後頭部が激しく痛む。そっと顔を動かすと、ベッド脇に健太の頭が見えた。

ついさっきもこんなことがあった気がする。この後、健太が振り返って何か言うはず……。

「お、気がついた」

 だが、呼びかけてきたのは孝志だった。あれ? と思った瞬間、ざり、と音がした。

 何とか首を動かして、音の原因を発見した健司は激しく混乱した。鎖? それもかなり太い。布団の上から、自分がぐるぐる巻きにされている。

「何、だ、これ?」

「見ての通りだ」

「離、せ……解いて、くれ」

「何言ってんだ。解いたら暴れんだろうが」

 動かせるだけの力を動員して、身をよじる。ベッドの土台がめきめきいったが、結果的に頭痛と疲労が倍増しただけだった。息が上がる。暑い……。

 声にならない呻き声を上げながら、なおも体を動かそうとしたら、頭を押さえ付けられた。

「大人しくしてろ」

 畜生、こんな状態じゃなかったら! 憤りで火が出そうだった。

 しばらく孝志を睨んでいたが、だんだんその姿がかすんできた。なんで、こんなに苦しいんだ。たか兄、よくも……何か言ってやりたかったが、体がどんどん砂の中に埋まっていくようで、どうしようもなかった。

 気が遠くなりかけた時、額から何か剥がされ、すぐに何か冷やりとするものが触れた。

「おい、聞こえるか」

 孝志の声だ。声のした方向に顔を向ける。

「暴れないと約束するなら、解いてやるぞ」

 何を言ってるんだ。朦朧としながら腹立たしく思っていたら、

「手紙も書かせてやる」

 手紙……そうだ。今日の分を届けなければ。彼女のところへ行くんだ。

「分か、った。暴れ、ない」

 それだけを、やっと口にして息をつく。すぐ傍でがちゃがちゃいうのが聞こえた。右や左に体を何度か傾けられた後は、圧迫感が少しやわらいだ。

 それでも体が重い。頭が割れそうだし、体の中もたぎるように熱い。

 健司は手を付いて何とか起き上がると、ベッドの上で壁にもたれるようにして座った。

「水、飲む?」 

 健太の声がした。うなずくと、ミネラルウォーターのボトルを渡してくれたが、その時、ごめんな、と小さく声がした。哀しそうな顔をしている。

「どうし、た?」

 何がごめん、なのか分からない。

「ほんとに大丈夫かな」

 健太は傍に立っている父親に言った。

「大丈夫だ。こいつは石頭だから」

 孝志は笑ったが、健太は困ったような顔をしている。

「けん兄、帰ってきてからの記憶、ある?」

「いや」

 玄関のドアを開けたところまでしか覚えていない。

「玄関で倒れてたんだよ。びっしょびしょのまんま」

 昨夜の豪雨では、さすがの健司も配達を休むだろうと思った健太だったが、念のためと様子を見にきたら、健司の単車が見えない。

「朝になっても戻ってないし」

 ひょっとしたら、雨宿りついでにどこかに泊まってくるつもりかもと思いながら、昼間買い物に出た折、また寄ってみたのだという。

「そしたら、バイクあったからさ」

 気になって、ドアの前まで来てみたら、少し開いた隙間から、倒れている健司が見えた。

「めちゃくちゃ焦った」

 何とか運び上げ、着替えさせてベッドに押し込んだと聞いて、健司はかすれる声で従弟に礼を言った。

 健太によると、その後、健司は一度目覚め、昨夜回収してきた貴美子の手紙に目を通した。それから、健太に時間を尋ねると、体をふらつかせながらも、出発する準備を始めたという。

「体温計の目盛り、振り切ってんのに」

 さらに、この冬一番の寒さと言われる気温の中、バイクで行くと言い張った。

「オレ、辛かったけど、けん兄死んじゃう方が嫌だからさ」

 当然、健太は止めにかかった。

「あ」

 その時のことは、朧気だが覚えている。初めて見る健太の凄まじい気迫に、一瞬気圧された。

“暴れないと約束するなら、解いてやる”

 ふと、さっきの孝志の声がよみがえった。

「ま、さか」

 悪寒が増した。俺、健太相手にスイッチ入れたのか? 

「いや、やんなかったよ」

 従弟は傷つけられない。だが、手紙はどんなことをしても届けたい。健太の話では、現実と幻が混ざり合いそうな高熱の中、健司の中で、激しい葛藤が繰り広げられたようだった。

「すっげー、苦しそうに喚いてた」

 健太は少し考えて、

「オオカミ男が変身するみたいな感じで」

 このままでは従兄が発狂してしまう、と思った健太は最終手段に訴えた。後頭部を一撃。

「やっちゃった。けん兄の大事なフライパンで」

 頭もフライパンもごめん、とまた消え入りそうな声で謝ってきた。後頭部が痛む理由がこれで分かった。

「健太のやつ、来週受験なんだぞ」

 息子とは対照的に、孝志はいつも通りだ。

「一歩間違えば、犯罪者だ」

 受験生になんてことさせんだ、と健司をにらむ。

「ちょ、フライパン使えって言ったの親父じゃん!」

 息子の嘆きを、孝志は笑顔で受け止める。

「健太、嫌なこと、させて悪かった」

 健太に詫びると少し従弟に笑顔が戻った。健太にキレたりしなくて、本当に良かった。

 健司は健太に頼み、昨日の手紙と便箋、ペンを取ってもらった。相変わらず体中が熱い。

 思うように力が入らない手で、貴美子の手紙を再度開く。雨対策で何重にも包んでいたおかげで、中の手紙は無事だった。

「大変な雨です。お願い。今日は来ないで下さい。危険過ぎます。 

 どうかこの手紙をあなたが読むことがありませんように」

 貴美子の願いは空しく、郵便受けの手紙は入れ替わってしまった。驚いてるだろうな。

 今日は何て書こうか。ぼんやりしながらペンを握ると、

「手紙、書くまではいいが」

 孝志が言った。

「今夜は健太に届けさせる」

 耳を疑った。何を言ってるんだ?

「俺が、届けないと、意味、ないんだ」

 そんなこと分かってるはずだ。どうかしてる。

「俺じゃない、別の誰かが、手紙を入れてるところを」

 もし彼女が目にしたら?

 もし今晩、彼女がドアを開けたら? 

 俺はまた悪魔に逆戻りだ。

「心配すんな」

 健司の想いを汲み取ったかのように、孝志が言った。

「お前のお百度参りを、ぶちこわすような真似はしねえから」

「たか兄」

 健司は、自分を乗せて、車でK市に連れて行ってくれ、と頼んだ。自分の思いを通すには、どんな天候であれ、唯一の相棒で届けることしか考えていなかったが、さすがに今の自分がいつもの行程を単車で走れる状態ではないことは分かる。

 が、孝志は表情を変えずに言った。

「お前が、今晩この部屋から出るという選択肢は、ない」

 ペンを叩きつける。壁にもたれたままで、叔父をにらみ上げた。

「約束はどうした? 暴れるか?」

 おれは構わねえけど? と孝志は笑った。

「今のお前なら、半殺しにするのはわけねえからな。全治3週間くらいでどうだ?」

 畜生……。鎖は解かれても、結局何もできない。もどかしかった。

「たか兄が、今晩どうするつも、りか、聞きたい」

 喘ぎながら、尋ねた。

「一応、頭は動いてるようだな」

「聞いて納得し、たら」

 健太に手紙を託してもいい。

「ただ、少しでも彼女に誤解され、そうな可能性があるなら」

 健司自身が、K市まで行く。どんな手段を使っても。

「別に誤解なんかしようがねえと思うけどな」

 健太が健司の単車で、町田家まで乗り付けて、手紙を直接貴美子に渡す。

「熱が下がっていれば、明日の晩、またお前が届けりゃいい」

 それだけだ、と孝志は言った。

 今晩無理をして、容態を悪化させるか。早く回復して、また通うか。

「お前の好きな言葉を使おうか。どっちが“合理的”だ?」 

 それは分かっているが。

「オレが先に会うの、嫌なんじゃねえかな」

 けん兄、ずっとがんばって通ってるのに、と健太が申し訳なさそうに言った。そういうわけじゃないと言おうと思ったが、言葉が出なかった。

「構わねえさ。非常事態だ」

 息苦しい。座っていても、めまいがする。健司は、額を押えると、再び孝志に尋ねた。

「なぜ俺ので、行くんだ?」

 健太には、走り慣れた自分の単車があるはずだ。

「ああ、こいつのは今、解体中なんだ」

「マジで?」

 健太が叫んだ。またかよ~と頭を抱えている。

「文句言うな。そういう条件で金貸したんだ」

「そうだけどさ。せめて先に断ってくれっつーの」

 二度と親父には金借りねえ、と健太はこぼした。

「で、金魚狂は納得したか?」

 あと一つ、と健司は言った。

「俺を車で運ん、でもらえない理由は?」

 手紙の投函・受け取りだけなら、健司自身が行った方が、リスクはより少ないはずだ。

 息を切らしながら疑問を口にすると、

「このアホは、まだそんなこと言ってんのか」

「今、外に出たらマジで死ぬって!」

 二人からすごい勢いでにらまれた。彼女の家の前で救急車を呼んでもらうことになる、と言われては諦めるしかない。

「よし、じゃあ、作戦開始といくか」

「待って、くれ」

「なんだ、まだあるのか?」

 健太が貴美子に直接手紙を渡すなら、今晩に限ってなぜ健司が来ないのか、問われるに違いない。

「理由は何でもいい。とにかく、俺が今こんな状態だってことは、彼女に知らせな、いでくれ」

「だ、そうだ」 

 孝志が健太を見た。

「分かった」

 健太が身支度をしている間、健司は気力を振り絞って、便箋に向かった。

 最低限のことを数行書くのが精一杯だった。封筒に手紙を入れ終わると、健司はそれを握ったまま、崩れるように横たわった。

「あとはおれが面倒みるから」

「うん。じゃ、預かっていくよ」

 手からそっと、封筒が抜き取られるのが分かった。

 横たわったまま、健太の背中を見送っていると、孝志が健太を呼び止めた。

「家に寄って……も持っていけ」

 それからさらに指示を与えていたようだったが、よく聞こえなかった。

 目の前に靄がかかり、そして、体が熱い砂の中に沈んでいった。

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