第17章 ドアを開けます
かたん、と階下で物音がした。台所のあたりだろうか。誰かが歩いている。戸棚を開けるような音もする。泥棒? 胃が重くなった。下で寝ている両親は大丈夫だろうか。
いつでも通報できるようにと、貴美子が携帯電話に手を伸ばしたところで、下で大きなくしゃみが聞こえた。
何だ、お姉ちゃんか。ほっとしつつ、自分の早とちりが少しおかしくなる。
そういえば、どうして今日は家に帰ってきてるんだろう。年始の挨拶に来たのはほんの1週間前くらい前なのに。貴美子が帰宅した時は、食卓で母と話していた。その時は、簡単な挨拶を交わす程度だったから、来ている理由を聞かないままになっていた。
明日香や理子と話した後、ずっと姉のことを考えていたし、今日の健司への手紙にも書いたばかりだ。いずれは避けて通れないこととは言え、自分の念が姉を引き寄せたような気がして、貴美子の胸はざわめいた。
今度は階段を上ってくる足音がする。貴美子の部屋のドアが小さくノックされた。
「貴美子、起きてる?」
「うん」
「ちょっと、いい?」
貴美子は健司からの手紙を急いで机の引き出しにしまい、鍵をかけてからドアに向かった。
開けると、姉が泣きそうな顔で飛び込んできた。
「お願い、あっためて~」
聡子はコートにマフラー、帽子まで身に着けている。
「え、全然あったかくない」
ひどく哀しそうだ。身を抱きかかえるようにして震えている。
「寒い、寒いから暖房入れて」
貴美子がファンヒーターのスイッチを入れると、聡子はヒーターを抱え込みそうな勢いでその前に座った。
「何か温かいの飲もうと思ったんだけどさ」
母親が台所のレイアウトを総入れ替えしたようで、何がどこにあるか分からないと言う。
「ポットも空っぽだし」
子どもがべそをかいているみたいだ。
「私、淹れてくるよ。何がいい?」
「何でもいいよ。あったまりそうなやつなら何でも」
「はちみつ生姜紅茶とか?」
「そう、そういうのがいい」
姉を残して台所に向かうと、貴美子は湯を沸かした。
お姉ちゃん、どうしてあんなに寒そうだったんだろう。コート着てマフラーもして。ついさっきまで、外にいたってこと?
もしかして、彼に会ってきたのかな。母親が今日話したに違いない。それを聞いて、興味本位で見に行ったか、あるいは妹や両親を騙すなと文句を言うかしに行ったのだろう。
何のぼせてんのよ。あんな二枚目が、あんたみたいなのを本気で相手にするわけないじゃん。
また、そんな風に言われるんだろうな。貴美子は軽く息をついて、目を閉じた。
心にいるラスボス、そいつ倒したら、鎖が切れるよ。
明日香の言葉を思い出す。
最終決戦がこんな風に始まるなんて。胸がどきどきしてきた。
大丈夫。彼が本気だってことを、今の私は信じてる。自分を奮い起こすように、貴美子は胸の前で手を握り合わせた。
手紙をもらうたびに、彼の心に少しずつ近づいた。外見のすごさに圧倒されるけど、それだけが彼じゃない。内面は生真面目過ぎて不器用な人。従弟の名前から取って、自分のでめきんに名付けて、その名前をバイクにも付けちゃうような人。
忙しいお母さんの代わりに家事を切り盛りしたり、ちっちゃな従妹を抱っこしながら受験勉強したり。私を何通もの手紙で支えてくれてるのはそういう人。心の灯が大きくなっていくのが分かった。私も彼を支えたい。一緒に幸せになりたい。
だから、もう“つり合わない”なんて思わない。
自分でも驚くような、強い思いが飛び出してきた。
そうだ、言わせておけばいい。お姉ちゃんに信じてもらう必要はないんだ。ラスボスと戦う、っていうのは、私が気持ちの上でお姉ちゃんに負けないってこと。
とは言え、相手は最強のラスボス、緊張で息が詰まりそうになってきた。貴美子は深呼吸すると、カップを2つトレーに載せ、ゆっくり階段を上った。
* * *
部屋に戻ると、まだ聡子はヒーターに張り付くようにしていた。
「そんな風にしてたら、危ないよ」
姉は意外にも素直にうなずき、少し下がってコートを脱ぎはじめた。
「ありがと」
二人で座りこみ、カップを手に取る。聡子は何口か啜ると、
「なんか懐かしい」
そう言って、穏やかな笑顔を見せた。
「あたしも貴美子も寒がりだから、冬になったら、よくお母さんがこういうの淹れてくれてたね」
そうだね。そういう日もあったね。貴美子は黙ってうなずいた。変だ。今日のお姉ちゃんには、いつものはなからバカにしてかかるような雰囲気がない。ふと思い出して尋ねた。
「今日はどうしたの? 一彦さんやあゆむ君たちは?」
聡子は決まり悪そうに笑った。
「しょーもないことで夫婦喧嘩しちゃってさ」
頭を冷やそうと、今晩だけのつもりで帰ってきたのだという。
「明日には帰るよ」
「そう」
お姉ちゃん、外で何してたの? 聞くのが怖い。でも、聞かないと始まらない。
「あの」
「あたしね、さっきまで外にいたんだ」
「え」
「山本君と、話してきたよ」
やっぱり。
「今日、お母さんから文通の話聞いてさ。お父さんもお母さんも信者みたいになってるから、心配になっちゃって」
不思議と腹は立たなかった。話だけ聞けば、騙されていると思うのが当たり前だ。貴美子が姉の次の言葉を待っていたら、姉が唸った。頭を押さえている。
「何から言ったらいいかなあ」
くる。貴美子がそっと手を握り締めると、聡子は座り直し、床に手をついた。
「貴美子、ごめん」
「え?」
「今まであたし、あんたにひどいことばっかり言って、傷つけてきた。ほんとにごめん」
ごめんなさい、と頭を下げられ、驚いた。
「お姉ちゃん?」
一体何がどうなっているのだろう。ひとまず頭を上げてもらった。
「あのね。あたしは自分が変われた、と思ってる」
いつもなら、姉の言葉は上から降ってくるように思えたのに、今は違う。
「一彦がさ、付き合ってる時に言ってくれたの。自分のことバカっていうの、もうやめ、って。学校の勉強ができんのと頭が悪いのはちゃうぞって」
興味あること、好きなことだったら覚えられるんだよね、と聡子は静かに言った。
「そのうち、コンプレックスもだんだんなくなって、あんなに気にしてたのが不思議なくらい」
「うん」
「だから、ほんとは貴美子のことも気になってた。変われるチャンス、何度もあったのに、って。まあ、あたしが全部つぶしてきたんだけど」
これが、あの自分を笑いものにしてきた姉だろうか。貴美子は信じられないような気持で姉を見守った。
「彼からいろいろ聞いたよ。過去の話も、貴美子のどういうところを好きになったかも。手紙をやり取りするようになって、二人の気持ちが通じ合ってきてることも」
聡子の声は、少し震えているようだ。
「ここまで貴美子のこと想ってくれる人が現れたなら、これは貴美子が変われるチャンス、っていうか、あたしが貴美子に謝る最後のチャンスなんじゃないかって思った」
しんみりと言った後、聡子は貴美子を見た。優しい表情をしている。
「山本君言ってた。人を、貴美子さんを好きになれて、自分が笑ったり喜んだりできるようになって、すごく、幸せだ、感謝してるって」
途中から涙声になったが、姉の言葉は貴美子に届いた。
「貴美子もそうだよね。彼のおかげで変われそう、彼の気持ちに応えたいと思ってるよね。もうただの文通相手じゃない」
貴美子はうなずいた。鼻の奥がじんと痛くなってきた。
「こんなに、やつれちゃって」
哀しそうに言う。
「彼のことを想って、こんな寒い夜に、暖房もつけないで遅くまで起きてるんでしょ」
「……」
暖房のことまで言い当てられるとは思わなかった。
「これからは、あったかくして、ちゃんと寝なよ。気持ちは分かるけど、貴美子が風邪ひいたら、彼、哀しむよ」
「うん……分かった」
「それでさ、今までのお詫びっていうのも変なんだけど、もし、もしもだよ。貴美子が変わりたいと思ってるなら、それ、私にもちょっと手伝わせてくれないかな」
「お姉ちゃん」
「うちのお客さん見て、思ってたんだ」
「美容院の?」
「うん。仕上げして、最後にどうですか、って鏡を見てもらうとね」
ほとんどの客が、ぱあっと華やいだ顔になる、と聡子は言った。
「最初に座った時と、ぜんぜん違う雰囲気で。それを見るのが、あたし嬉しくて」
貴美子がカットをする時は、義務のような気持ちで行っていたから、鏡はおざなりにしか見ていなかった。
「貴美子もこんな表情になれたらいいのに、って心のどっかで思ってた」
でも言えなかった。
「今さらだし、もし言っても、たぶん、今までのあんたじゃ聞かなかったと思う」
姉が言う通りだ。ひたすら頑なになっていたと思う。でも、今なら素直に聞けるかもしれない。
「言うの遅くなって、ごめん」
「ううん。ありがとう」
貴美子の目にも熱いものが浮かんだ。深く頭を下げる。
「私も、今までごめんなさい」
相手を侮辱してきたのは、自分も同じだ。少女時代、姉の未来を、可能性を、どれだけ否定してきただろう。胸が痛んだ。
「お姉ちゃん、資格も取って仕事がんばってるって、お母さんから聞いてた」
「うん。あたし、やればできる子だったらしいよ」
おどけるような姉の口ぶりに、優しさがにじんだ。
「じゃあ、お互い許しっこ、ってことでいい?」
「うん」
ティッシュボックスが空になるほど、二人で涙を拭いた。そのうち、聡子が思い出したように笑った。
「お父さんとお母さん、山本君のこと、我が家の救世主、って呼んでるんだってね」
知らなかった。それはちょっと行き過ぎだと思う。姉が心配するのも当たり前だ。
「あたしもそんな気がしてきたよ」
「お姉ちゃんまで?」
「だって、あたしたち、ずっと仲悪かったのに、今晩彼に初めて会って話しただけで、あたし貴美子に謝れたし。こんな風に話もできた」
すごくない? と微笑む。
「そっか、そうだね」
「でも、なんていうか、見かけはものすごいんだけど、ちょっと変なとこあるよね」
「でめきんと散歩したいとか?」
「そう。それもそうだし」
聡子は外に出る時に、護身用にと父のゴルフバッグからアイアンを1本持って行ったのだという。
「それ見て、不思議そうにしてたからさ」
プロを目指してんの、と言ってみたところ、
「“へえ、そうなんですか”って普通に信じてた」
彼なら、そんな風に言いそうだ。
「冗談が通じないっていうか、気を許してからは、あたし何回かボケてみたけど」
全然突っ込まないのよ! と悔しそうだ。
「あたしをお義姉さんって呼ぶつもりなら特訓しないと。あんなんじゃ一彦とは話せないよ」
「お義姉さんって、健司さんそんな話したの?」
「ううん、あたしが勝手に望んでるだけ」
「びっくりした。気が早いよ」
貴美子が胸に手を当てると、姉は笑った。貴美子も、慣れない突っ込み役をやらされている健司の様子を想像したら、何だかおかしくなってきた。
「ねえ。さっき、貴美子を手伝うって言ったけど」
どうなりたい? と姉が尋ねてきた。
「貴美子がいいなら、そのままでもいいと思うんだ。山本君も、そっちの方がいいらしいし」
貴美子は少し考えたが、具体的なイメージが湧かない。
「お姉ちゃんに任せる」
いろいろやってみて、と言うと、
「いいの? あたしがんばっちゃうよ」
「いいよ」
「でも、あんまり変えちゃったら、彼がっかりするよね」
貴美子に魔法をかける、と言った聡子に、健司は“でめきん風味はなるべく残してください”と頼んだという。おかしくなった。
「うん。でも構わない」
自分がドアを開けるには、相当の変身が必要だと思う。姉が言っていた“ぱあっと華やいだ顔”を自分もしてみたい。今度こそ変われる、と思う。
それに、見かけを変えたことで、健司が心変わりするようには思えない。根拠はまったくないけど、なぜか大丈夫な気がする。
「もし、でめきんじゃない君は好きじゃない、って言われても、それはそれでいい」
「貴美子、よく言った!」
聡子が笑った。
「よし、二人で、あのでめきんフェチをびっくりさせよう」
あれはもう変態の域だよね、と姉が言い、姉妹で笑った。
* * *
「昨夜、姉と話をしました。まともに話をしたのは子どもの時以来です。それに、一緒に泣いたり笑ったりしたのは初めてです。
今度、一緒に買い物に行きます(これも初めてのことです)。
まさかこんな日が来るとは思っていませんでした。健司さんのおかげです」
手紙の最後にそう付け足した貴美子は、封をしたあと、それを捧げるように持った。
ごめんなさい。あともう少しだけ、時間をください。
* * *
01/11
To:理子ちゃん、明日香
Sub:和解
この間は本当にありがとう。
ラスボス、倒しました。というか、仲直りしました。姉と私に長い間かかっていた強力な呪いがやっと解けました。
姉は、私に魔法をかけてくれるそうです。
うまくいくかな。
見事変身できたら、私、ドアを開けます。
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