第15章 心を縛る鎖
年が明けて初めての日曜日。
貴美子は自宅の最寄り駅に隣接する駅ビルの入り口に立ち、明日香と理子の到着を待っていた。
二人は高校からの親友だ。前に会ったのは、去年の7月くらいだったか。あれから半年くらいしか経たないのに、何年も会っていないような気がする。たぶん、今の自分が半年前には想像もつかないような状況にあるからだろう。
明日香と理子は、約束の時間の少し前に揃ってやってきた。笑顔で手を振りながら、近づいてくる。
「明けまし――」
と言いかけた、二人の表情が変わるのが分かった。
「貴美ちゃん?」
「……」
二人の顔を見たら、一気に気が緩んだ。かくんと膝が折れる。うつむいた拍子に、眼鏡がずれ、レンズの中にぽたりと涙が落ちた。
「どこか、避難しよう」
ちょっと待ってて、と理子に貴美子を任せて、明日香が走っていくのが見えた。
明日香は何分もしないうちに戻ってきた。貴美子の手を取りつつ言う。
「あそこ、一部屋取れたから」
明日香が指さしたのは大型カラオケ店のビルだった。
三人は、3階に上がり、少し狭い一室に腰を落ち着けた。新年会でもしているのか、どこからか歌声が漏れ聞こえてくる。
「いいね。ここなら、落ち着いて話せる」
明日香ナイス、と理子が親指を立て、貴美子に微笑みかけた。大きめの前歯がちらりとのぞいて、可愛らしい感じになる。
「それに、どんなに泣いても大丈夫だよ」
「大泣きする前提かい」
懐かしい雰囲気のおかげで少し落ち着けた。貴美子は、改めて二人に礼を言った。
フロントに温かい飲み物を三人分頼み、それが届くまでは理子と明日香の近況報告を聞いた。理子は幼稚園の教員、明日香は市役所勤めと二人とも地元で頑張っている。
しばらく話した後、
「じゃあ、そろそろ聞こっか」
理子が貴美子の方を向いた。明日香がうなずく。
昨年末、貴美子は、年末に二人にメールを送っていた。年が明けて時間が取れるようなら、話を聞いてもらえないかと。
「貴美ちゃんがそんな風になってるって知ってたら、すぐに会ったのに」
「私、そんなにひどい?」
苦笑すると、二人ともうなずいた。
「何日も食べてない人みたい」
「何日も寝てない人みたい」
「はは、そのまんまだね」
笑いが乾いているのが自分で分かる。
貴美子はなるべく要点を絞って、9月からの出来事を二人に説明した。健司が自分の容姿をどんな風に表現しているのかも、言葉通りに伝えた。”でめきんは世界一美しい魚”という、彼の特殊な美意識を伝えておかないと、貴美子が置かれた状況を理解してもらうのは難しいと思ったからだ。文通を始めてからのことは、ところどころ細かい点まで話した。
「なんか、思った以上に大変なことになってるね」
二人は驚きながら、それでも真剣に聞いてくれた。
「頭では分かってるの。あとは私がドアを開けるだけだ、って。でも怖い。顔を上げて自信持てましたって、彼に言える気がしない」
ようやく一通り話し終えた。二人から出されたいくつかの質問に答えると、貴美子は深くため息をついた。
「本当に、どうしたらいいか分からなくて」
「それは辛いね」
理子が共感するように言った。
「会社には、行けてるの?」
貴美子はうなずいた。朝になれば、玄関を開けて外に出られる。
明日香もいたわるような視線を向けてきた。
「勇気を出すために、何かヒントがほしい。そう思って、あたしたちに連絡くれたんだね」
「そうなの。ごめんね。変な相談して」
「謝らないの。三人で考えたら、いいアイデア出るよ」
二人の優しさに、また泣きたくなってきた。
「理子ちゃんは、今の話聞いてどう思った?」
明日香が尋ねた。
「わたしだったらどうするかな、って考えてたよ」
理子は自分の口元を指さした。
「わたしもさ、自分のリスっぽい顔をずっと気にしてたでしょ。リコじゃなくてリスだ、ってからかわれて」
そうだった。明日香や貴美子はその風貌を可愛いと褒め、二人がそういうならと理子はそれを受け入れた。
「貴美ちゃんと同じで、リスが大好きだから一目惚れした、って言うのはやっぱり信じられない。しかも初恋って」
「そういう時は、かえって美形があだになるよね」
「そう。すごく嘘っぽく聞こえる」
悪い冗談としか思えない、貴美子がそう言った時の、健司の哀しそうな様子を思い出した。
「でも、その人と幼稚園でしばらく一緒に働いて、顔だけじゃなくて、園児と遊ぶところとか見ててもっと好きになった、ってなったら、ちょっと揺れるよね」
「あ、見込み出てきた」
「それに、園の若くて美人の先生たち、ぜーんぶ無視して、わたし一人のために、毎晩遠くから手紙届けてくれるわけでしょ」
「手紙読んだら、性格も趣味も合いそう」
明日香がつないだ。
「そう、わたしも彼に惹かれていって」
そしたら、と理子は貴美子を見た。
「わたしは会うよ。何通目の手紙かは分かんないけど、ドアを開けて、彼に会う」
貴美子はうなずいた。理子はできる。おそらく他の女性もそうだろう。でも自分にはできない。
「なるほどね」
明日香は腕組みをしている。仕草や口ぶりが時々男の子っぽくなるところは、学生時代と変わらない。
「あのさ」
明日香が尋ねてきた。
「彼は、いつまで待てばいいのか、みたいなことを手紙に書いてくる?」
「ううん」
むしろ逆だ。
「先のことは、あまり書かないようにしてくれてるみたい」
新しくできたプラネタリウム、貴美子の好きなワインに合わせた料理。未来の楽しみにつながりそうなことは書いてあっても、いつか二人で行きたい、一緒に食べたい、といった希望は書かれていない。
「私のプレッシャーになると思ってるんじゃないかな」
口に出すと、改めて申し訳なさが募ってきた。明日香が苦笑する。
「まあ、毎晩バイクで来てるってだけでも、相当のプレッシャー、与えてるわけだからね」
「せめて車なら、貴美ちゃんもここまで苦しんでないのにねえ」
と、これは理子が言った。
でも、と貴美子は思った。仮に自動車免許を持っていたとしても、健司は配達手段にバイクを選んだのではないか。そんな気がする。
「貴美ちゃんもだけど、今の状況は、彼にも酷だなあ」
「明日香?」
理子は不思議そうだ。
「貴美ちゃんを追い詰めてること、悪いと思いながら通ってる。でも、二人をつないでる配達を止めちゃったら、先の道がひらけない」
確かに、手紙からはそんな思いが読み取れた。郵便に変えれば、寒空の下を走らせずに済むから、貴美子の後ろめたさはかなり解消される。だが、二人の関係は一層進展しにくくなる。
「彼からは止められないよ。今日まで1日も休んでないんでしょ。もう後に引けない」
明日香の言う通りだ。
「お父さんや、お母さんは?」
「一応、見守ってくれてる」
ただ、父は1日も早く、家に上がってもらい、健司に自分の金魚を見せたいはずだ。母には少し前までやんやと急かされていたが、貴美子がある晩、玄関のたたきに座り込んだまま固まっているのを見てからは、何も言わなくなった。
両親ともに、すっかり健司を気に入っており、すでに義理の息子だと思っているような雰囲気すらある。
「外堀も固められちゃってるんだ」
逃げ場がないね、と明日香がつぶやいた。
「ねえ。その毎日来てくれるってことを、プレッシャーじゃなくて、自信につなげられないかな」
理子が手を上げた。
「会社の人たちが、口開けて見惚れてたくらい、かっこいいんでしょ」
「うん」
「そんな素敵な人が、私のためだけに遠くから毎晩来てくれる。私愛されてる! 私すごい! って思ってみたら?」
「ありがたい、とは思えるの」
口には出せないが、愛されている、とも思う。だからと言って、私ってすごい、とはならない。
「じゃあ、ごほうび設定して、それに向かってがんばるのは?」
「ごほうび?」
「未来のラブラブ生活を想像するの」
付き合ったら、そのうち結婚するよね? と言われて貴美子は倒れそうになった。
「ごめん、余裕なくて、そんなこと考えたことも」
「いや、未来の妄想大事よ。ドアを開ける原動力に使わなくちゃ!」
すごい迫力だ。
「会社から疲れて帰ってきたらさ、超美形のダンナが、めちゃ美味しいご飯作って待ってくれてるんだよ」
「おかえり、貴美子」
明日香が低めの声で付け加えた。そのまま、自分の身を抱きしめる。
「ほんとは先に貴美子を食べたいな」
「二人とも、暴走し過ぎだよ」
「いいじゃん、絶対幸せになれるって。だからドア、開けよう」
彼と一緒にいられたら、幸せだろうと思う。でも、彼と並んで立つ女性は、自分ではない。そんな気がして仕方がない。
「私なんかに、そんな価値……」
「あるよ」
「ある」
二人でたたみかけるように言った。明日香が言った。
「少なくとも、彼にとっては絶対ある。そうじゃないと、ここまで大変なこと続けてない」
「だよね」
理子がうなずき、貴美子に指を突き付けた。
「もう“私なんかに”って、言うの禁止」
「“私みたいな女”もだよ」
明日香が続けた。
「貴美ちゃんがずっと気にしてたから、今まで言わなかったけど」
見かけが良くないっていうのは、貴美ちゃんの思い込みだから、と少し怖い顔で言う。
「そりゃ、ミス何とかとか、女優さんと比べたらだいぶかすむかもしれないけど。それはあたしたちも同じでしょ」
そうだろうか。
「でめきん、っていうのは、眼鏡とか黒っぽい服とか、そういうのも入ってると思う」
明日香の主張に、理子も同調した。
「前に1回、茶色のコート着てたことあったよね」
その時の貴美子は、ぬいぐるみのクマのようだった、と理子は言った。
「両手に抱えて帰りたい感じ」
「あたしも覚えてる。可愛かったよ」
「でも、わたしたち二人がどれだけ褒めてもだめなんだろうね」
そうだと思う。貴美子自身がそれを受け入れられないからだ。
「彼みたいに、世界一の美人って思う必要はないけど、せめて普通って思えたらいいのに」
二人で考え込んでいる。申し訳なくなってきた。
「ちょっと、見かけから離れてみようか」
明日香が言った。
「仕事については? 自信ない?」
貴美子は少し考えた。自信アリ、とまでは言えなくても、研究職は自分に合っていると思うし、これまでがんばってきたつもりだ。少なくとも、彼と向かい合えないほど能力に差があるとは思わない。
「彼だって、一緒に仕事して、認めてくれたんだよね」
「うん。そんな風に書いてあった」
「彼の方は? 研究者として、どうなの?」
共同研究の間、努めて接点を持たないようにしていたことが、今となっては悔やまれる。ただ、実証と分析を繰り返す中、健司のさりげない提案や別視点からのアプローチが、研究工程の短縮につながったことが何度かあった。その時は、内心やられた、と思ったものだ。
「じゃあ、二人が一緒にいたら、プラスになるんじゃない?」
明日香は言い、貴美子を見た。
「金魚の研究者と、水の専門家が会って話したら、お互いを高められるんじゃないの?」
「それ、いい」
理子が指を突き出してきた。
「お互いを高められる、ってとこがすごくいい」
確かに、理想的な関係だと思う。
「そっちの自信で、会うのもアリかもよ」
「でもさ」
あたしが言い出しといて悪いんだけど、と明日香が微笑んだ。
「それなら“お友達”でもいいよね」
そして、一度少し迷うような表情をしたが、再び口を開いた。
「失礼だけど、彼、ずいぶん寂しい人生送ってきた人だと思う」
母子家庭とかは関係ないよ、と付け足す。
「笑ったり、鼻歌歌ったりしただけで、家族が驚くって。よっぽどだよね」
貴美子には、それがどうもぴんとこない。元はそんなに暗い人だったのだろうか。健司とまともに顔を合わせたのは、片手で数えられるほどだが、初対面の時の優しい笑顔は印象に残っている。
「だいたい、今まで一度も人を好きになったことがなかった、って哀しいよ。それがほんとなら」
誰かに愛されたこともないんじゃない? 明日香は言った。
「ほとんどの女性は見惚れるだけ。何人かはチャレンジャーがいたかもしれないけど、彼と心を通わせて、内面にまで踏み込めた人は、今までいなかったと思う」
「貴美ちゃん以外は、誰もね」
理子がつぶやくように言った。
「そう。冷血人間なんて言われてた彼が、貴美ちゃんのおかげで、人を好きになる喜びを知って、笑顔になれた」
“喜びや楽しさが表情や行動に出るようになりました。あなたのおかげです”
「私、何もしてないよ」
「いいの。それで」
明日香はきっぱりと言った。
「これにもう一つ、好きな人から愛される幸せまで知ったら、彼の人生もっと変わるかもしれない」
“人が生きていく上で大切な存在を、息子は知らなかったのです”
「貴美ちゃんだって、誰かにここまで想われたのは、初めてだよね」
貴美子は黙ってうなずいた。
「もう、お友達、じゃないでしょ?」
「大好きだよね?」
二人で微笑みかけてきた。胸の中が熱くなる。
「……」
「貴美ちゃん?」
「大嫌い、だった」
最初はほんとに嫌いだった。はずなのに。
「どうしよう。こんなに好きになっ、ちゃった」
途中から声にならなくなった。心の中がどんどん吸い上げられていくようだ。
「いいんだよ、惹かれて当然だって」
それなのに、どうして怖いんだろう。好きというこの気持ちを、なぜ喜べないんだろう。
「貴美ちゃんは、何を恐れているんだろうね」
「もしかして、彼のこと、本当はまだ信じ切れてないんじゃない?」
明日香が言った。
「手紙だけの付き合いでしょ。何か隠してる、って不安があるとか」
貴美子は首を横に振った。
もともとが信じてもらいたい一心で始めた文通だから、健司の手紙には、自分のことが事細かに書いてあった。好んで自分語りをしているのではなく、隠し事がないことを示したくて書いていることは、貴美子にも分かった。
少し前には、健康診断書が同封してあった、と話すと、理子も明日香も目を丸くした。
「それ、お見合いの後なんかに出したりするやつだよね?」
今でもやる人いるんだ、と驚いている。
「変な病気持ってないから安心して、ってことなのかな」
徹底してるわ……。二人は、ほぼ同時に発した。
「じゃあ、貴美ちゃんは?」
再び明日香が尋ねてきた。
「え」
「貴美ちゃんも、自分のこと、いろいろ書いたでしょ」
「うん」
「全部、書いた?」
「……」
「彼への手紙に、書けなかったこと、ない?」
まっすぐな視線を向けてきた。自分の心を掘り起こす――必要はない。
「……ある」
貴美子の返答に、二人は顔を見合わせ、うなずいた。
「それだよ。貴美ちゃんの心を押さえつけてるのは」
理子が言った。明日香が続ける。
「押さえつけて、ぶっとい鎖で縛りつけてる、ラスボスがいる」
そいつを倒そう、と明日香は言った。
「そしたら、鎖、切れるよ。ドアも開けられる」
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