第14章 初めてのサシ飲み

 何かにつけ宴会を開きたがる竹中家だが、家族の誕生日のほか、クリスマスと正月は特に手をかける。手紙の配達があったため、11月の孝志の誕生日会とクリスマス宴会には顔を出す程度しか参加できなかった健司は、久しぶりに落ち着いた気分で、一家の新年会に加わった。

 正月料理は、基本的なおせち料理から、飾りや盛り付けに工夫を凝らしたものまでどっさり用意してあったが、一家の腹に収まるのはあっという間だった。おせち料理というのは、明けて2、3日は何もしなくて済むように考えられたものではなかったか、と思いつつ、今回片付け係を任された健司は、美春と一緒に、わずかに残った料理を皿にまとめ、重ねれば十段を超しそうな重箱や何枚もの大皿をせっせと洗った。

 おおまかな片付けが終わったところで、健太が、友達と初詣に行くと外出の準備を始めた。

「合格祈願? じゃあわたしのも、ついでによろしく」

 お賽銭はお兄ちゃん出しといて、と美春が調子のいいことを言っている。

「ついでに、はまずいんじゃねえの?」

「はは、やっぱり?」

 笑いながら兄を見送った美春に、

「じゃあ、私と行こっか? 二人で」

 恵子が微笑みかけた。

「ほんと?」 

 美春は顔を輝かせたが、すぐにその表情を曇らせた。何か言いたそうに父親を見る。

「いいぞ、行ってこい」

「いいの?」

「特別に許す。おれからのお年玉だ」

「やったあ!」

 美春は高らかに叫び、その場で弾んだ。合格通知を先取りでもらったみたいな喜びようだ。

「お母さん、お参りすんだらさ、どっかでお茶してこようよ」

 ファミレスならやってるよね、と興奮気味に言いながら、部屋からコートを取ってきた。

「お父さん、ありがと」

「おう」

「でもさ、どっか調子悪いの?」

 いつもならぶーぶー文句言うじゃん、と不思議そうだ。

「だから、特別だって言ったろ」

 それにな、と孝志は得意気に言った。

「あさって着物デートするからいい。びしっとキメて、高級料亭でオトナの時間。いいだろ」

「何それ、ずるいよ」

 美春が口を尖らせた。

「いいよ、じゃあ今日は手つないで、ううん、腕組んで歩いちゃうもんね」

「お前、それは越権行為だぞ」

 知らない人が聞いたら、何をめぐって父と娘がこんなに争っているのかと思うだろう。呆れつつ、渦中の人はと健司が辺りを見回すと、恵子は穏やかな顔でマフラーの形を整えていた。

 恵子さんも大変だなあ。思っていたら、視線に気づいてか、恵子が健司を見た。

「いつものことだから」

 余裕の笑みを見せ、それから言った。

「もし、縁結びのお守りがあったら、いただいてくるわね」

「ありがとうございます」

「いいわね。その笑顔、素敵よ」

 最近は、恵子に笑顔が珍しい、と言われることも少なくなった。

「恵子、今おれのこと褒めた?」

「お母さんは、けん兄に言ったの」

 美春が呆れたように言う。

「素敵、なんてこいつに言うかよ。なあ?」

 恵子は艶然と微笑み、夫の方を向いた。

「孝志の笑顔は最高に素敵よ」

 孝志は得意気にVサインを突き出し、そんな父親を見て、美春は目玉をぐるりと巡らせた。

「わたし、何でこの人の子どもなんだろ、って1年に何十回か思うよ」

 同感だ。健司も、どうしてこの人が俺の叔父なんだ、と会うたびに思っている。 

 恵子と美春が出て行ったせいか、急に室内ががらんとして感じる。

「じゃあ、おれたちはだらだら飲むか」

 先ほどまで宴会場だった和室に二人で陣取ると、孝志が一升瓶を取り上げた。健司が差し出した2つのコップにそのまま注ぐ。

「お前が今日持ってきたワイン、うまかったな」

 さっきの宴会で、孝志がカニに合う、めっちゃ合う! と騒いでいたのを思い出した。褒められて嬉しいのは、自分を褒めない孝志の言葉だからではなく、貴美子の選択が讃えられたからだ。

「彼女のおすすめなんだ」

「だと思った。お前が、あんな気の利いたもん知ってるわけねえからな」

 カラカラと笑う。

「たか兄と俺が、こんな風に差し向かいで飲むの、初めてじゃないか?」

「そうかもな」

 宴会のすぐ後で、誰かが外出するというのは今までなかったし、そもそも孝志が落ち着いて座っていることが珍しい。果たして会話が成り立つのだろうか。健司が心配していたら、孝志が口を開いた。

「そういや、姉貴、貴美ちゃんに手紙送ったんだってな」

 貴美ちゃん? こっちは、“町田さん”から“貴美子さん”になるまで、何通もの手紙をやり取りしたというのに。内心面白くなかったが、健司はそれについては飲み込むことにした。

「そうなんだ。俺は気が進まなかったんだけど」

 健司が貴美子の父親に挨拶しているなら、母親として、自分も貴美子に手紙を送りたい、と変な理屈付きで頼み込まれた。

「母さん、俺のこと人に話す時、自分のせいで苦労してきた息子、みたいに言うことがあるからさ」

 健司が言うと、孝志は笑った。

「そりゃ、ちょっと反則だよな」

 母はずっと気にしているが、日々の家事は、自分にとってそれほど重荷ではなかった。それについては、かなり早い時期に貴美子への手紙に書いておいた。

 もちろん、小中学生の頃のように、級友に冷やかされるのが嫌だった時期もあるが、そのうち “家事があるから”は、当時の健司にとって、何かを断る口実として便利な言葉になった。

 交友関係を広げることもなく、どの部活にも入らなかったのは、それらが自分にとってひどく煩わしかった、というのが一番の理由だ。

「お前は“めんどくさ星人”だからな」

 高校時代に付けられた、そのあだ名のことも書いた。“好きな人には、めんどくさい、なんて言わないよ”という健太の言葉が、貴美子に出会ってから腑に落ちたことも。

「ちょっと書き過ぎたかなって、心配になることもあるけど」

 それでも、会った後で、こんなはずではなかった、と思われるよりはいい。

「じゃあ、今んとこ、そういうのを全部受け止めてくれてるってことだな」

「そうだと思う」

「だいぶ、彼女の心もとけてきたかな。お友達くらいにはなれたか」

 手紙をやり取りしている感じでは、心はもう通い合っている、と健司は思っている。貴美子はどうだろうか。

「ついでに全部書いとけ。前科も、自分がどんだけ変態かも」

「前科なんかない、よな?」

「自信ねえのかよ」

 孝志が呆れたように言った。捕まったり訴えられたりした記憶はないが、一時期暴れ回っていた頃に、何かあったとしても不思議はない。

「心配すんな。警察来る前に逃げたから大丈夫だ」

 涼しい顔でよくそういうことが言えるものだ。

「ってことは、たか兄もその場にいたのか?」

「いたのか? お前を止めるために探し回ってたんだろうが、バカ」

 毎度のことながら、ひどい言われようだ。そう考えたのが伝わったのか、

「バカじゃねえってのか? 松葉杖突きながら、3大学のラグビー部ご一同様に一人でケンカ売る奴が」

「あ」

 学生時代、高速道で側壁に激突し、死にかけたことがあった。何とか体が動かせるようになると、病院を脱け出しては何かに憑かれたように暴れた。

「ごめん」

「まあ、何十人ぶっつぶしたとか、そこまで書くことはねえと思うがな」

 健司はうなずいた。暴れていた時期があることは書いたので、嘘はついていない。もし詳しく教えてと言われたら正直に話そう。

 書いておけ、と言われたのは、あと何だったか。

「そうだ。俺、自分では変態なんて思ってないから」

「思ってねえから、やばいんだよ」

「貴美子さんのこと、人間として好きなんだから問題ないよな」

「でも、でめきん似だから惚れたんだろ?」

 確かに一目惚れしたのは間違いない。

「あわよくば、でかい金魚鉢に入れて眺めたい、とか思ってんだろうが」

「え」

 一瞬、想像してしまった。それは、ちょっといいかも……。

「う、わあ」

 孝志が顔をしかめた。

「そこは全否定しろよ! 盛りに盛って言っただけなんだからよ」

 健太早く帰ってこねえかな、と嘆くように言う。

「おれ様に、突っ込みなんかさせんな!」

「別にさせたつもりはないけど」

「いいか。金魚鉢は諦めろ」

 犯罪だからな、と珍しく真面目な顔で言われた。

「恵子と美春がいない時で良かった。ったく」

「あのさ。もし、本人が入ってくれるって言ったら、いいのかな?」

「特大金魚鉢に、か?」

 うなずくと、深いため息だけが返ってきた。

「試しに頼んでみろ。次の瞬間から口きいてくれなくなるから」

 それは困る。残念だが、封印することにしよう。

「全部書け、は取り消す。お前の場合、さらけ出すのは、ほどほどにしといた方が良さそうだ」

「自分のことは、もう書き尽くした気がするけど」

「遅かったか……」

 そこまでうなだれなくてもいいと思うが。

「診断書のコピーも渡してある」

 そう言うと、孝志は少し呆れたように笑った。

「親子だなあ」

 孝志が言っているのは、父親のことだ。父が大学のキャンパスで母に突然プロポーズした時、母は突き出された花束を投げ返し、啖呵を切ったのだという。

“あんたの二十何股目だかの女になるとでも思ってんの?”

“悔しかったら全部の女と手を切って、どんな病気にもかかってませんって、診断書でも持って出直して来なさいよ!”

 これで諦めるだろうという母の思惑に反して、父は言われた通りにし、その後、根気強く説得を続けた結果、母の方が折れた。

「じゃあ、そのために病院行ったのか」

 健司はうなずいた。行けば吐き気にじんましん、と不快な思いをするのは分かっていたが、貴美子に安心してもらうためと思えば、耐えられた。

「ちゃんと書いたか? “母一人と決めてからは、父は一切浮気しませんでした”って」

 その必要はないから書かなかった。二十数人全員、同等に好きだったという父と自分は違う。他の女性なんて絶対あり得ない。幸いにも彼女と一緒になれた時には、自分の行動でそれを証明すればいい。

「そこまでやったなら、振られても悔いはねえな」

 愉快そうな顔で、嫌なことを言う。

「貴美ちゃんはどうだろうな」

「え」

「手紙って、本人の申告がすべてだろ」

 確かに、書かれてないことは知りようがない。だが、書かないという選択も含めて、貴美子の手紙だから、受け入れるしかない。

 実は手紙の中で1つだけ気になっていることがある。だが、いつかはそのことについても記してくれるだろうし、貴美子が知らせたくないならそれで構わない。だから、その件は健司の中で保留になっている。

「なるほどな」

 孝志はコップを傾けた。

「もしかしたら、その辺りがドアを開けるカギ、なのかもしれねえな」


* * *


 1月初めは、好天が続いた。

 ある晴れた日の夜、サービスエリアで休憩しようと停車すると、二人乗りのバイクが健司の数台隣に停まった。

 ヘルメットを外し、はしゃぐように笑っている男女はどうやら恋人同士らしい。バッグから破魔矢が飛び出しているところを見ると、初詣の帰りだろう。好きな人と一緒に乗るとあんな感じになるのかな。初めての感情だった。あまり見ているとトラブルが発生しかねないので、視線を外す。

 タンデムか。できたら嬉しいけど、乗ってくれるかな。切ない気持ちでシートの後方に手を滑らせる。それで思い出した。

 まだ、美春を乗せてやってないな。健司自身に余裕がないせいもあるが、美春も最近は高校受験の勉強で忙しい。

 “ねえ、いつまで待つつもりなの”

 “もうずっと、このままな気がしない?”

 新年会の時に言われた、美春の言葉を思い出す。打開策をあれこれ提案してくれる、その気持ちはありがたかったが、電話や脅迫状、しまいには単車に細工して事故を起こし、貴美子の気を引くなど、どんどんエスカレートしていくので参った。 

 終わりが見えないことに不安がないかと言えば嘘になる。でも、共同研究の後半、貴美子から完全に拒絶されていた時のことを思えば、手紙で友情を深めているこの状況は、とても幸せに思えた。

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