第12章 Air mail from London
12月10日。
その日、帰宅した貴美子に、母親が手紙を差し出してきた。
「エアメールよ」
イギリスから、と不思議そうだ。
「ごめん、誰からだろうって、差出人の名前見たんだけど。山本葉子さんって、もしかして」
母の予想は当たっている。
「そう、健司さんのお母さん」
「あんた、お母さんとも文通始めたの?」
「そうじゃないよ」
何日か前、健司から、母が手紙を出したいと言っているのだが、住所を教えても構わないかと問われた。貴美子が承諾して番地まで知らせておいたので、送ってきたのだろう。
「お母さんも知ってる人だよ。間接的にだけど」
「え、どういうこと?」
貴美子は、リビングに置いてある本を指さした。貴美子が母に貸している海外ミステリーだ。本を手に取った母親が驚いたような声を上げた。
「あら、ほんとだ」
翻訳者の名前を確認して、喜んでいる。
「このシリーズ、訳者が変わってから断然面白くなった、って話してたやつよね」
貴美子はうなずいた。
「やだ、こういうのは、早めに教えといてよ」
「私もつい最近知ったの」
手紙で、最近読んで面白かった本について尋ねられたので、このシリーズを挙げた。その返事に“母が訳した作品です”とあった時は、貴美子も驚いた。健司はまだ読んでいないそうで、読んだらお互いの感想を伝え合うことになっている。
お父さんが帰ったら話そう、と楽しげな母を残し、貴美子は2階に上がった。
「初めまして。突然お手紙をお送りして、ごめんなさい。健司の母で葉子と申します。
二人の文通のことは、姪の美春からのメールで知りました。びっくりして、とても嬉しく思いました。健司に事情を尋ねて経緯を知り、貴美子さんにどうしてもお手紙を差し上げたくなって、連絡先をうかがった次第です。
息子は子どもの頃からめったに笑顔を見せない子でした。母親ながら、私はこれまで健司が大声で笑ったり、はめを外して楽しんだりするところを見たことがありません。そんな健司に笑顔が増え、最近では鼻歌まで歌うことがあると甥や姪から聞いて、信じられない思いです。すぐに飛行機に乗って、息子の様子を見に行きたいくらいです。
これから書くことは、すでに健司が手紙でお知らせしているかもしれませんが、母からの視点、ということで読んでいただければ幸いです。
健司は5歳の時に父親を亡くしました。海での事故でした。健司は、自分がどれだけでめきん好きかを説明するのに“肩に乗せて散歩したい”と表現しますが、相手が魚なのに“一緒に泳ぎたい”でないのは、健司が、海はもちろん川やプールなど水の中に入ることができないからなんです。
それからずっと、私と息子、二人で暮らしてきました。子どもの頃から、仕事を持つ私の代わりにほぼすべての家事を引き受けていたため、料理や掃除が得意になりました。でも、そのせいで、友だちと遊んだり、部活動に打ち込んだりすることができませんでした。これは今でも申し訳なかったと思っています。弟の孝志が言うには、中学校に上がるくらいまで“僕が母さんを守らないと”が健司の口癖だったそうです。
健司が大学1年の冬、私はパートナーと渡英することを健司に伝えました。私としては、この機会に息子を私から解放しようという気持ちがあったのですが、健司にとっては、それまでずっと母を守ろう、助けようと張り詰めていた糸が切れてしまったようです。すぐに家を出て、大学の近くで一人暮らしを始めました。そして、引っ越しがとても慌ただしいものだったため、その時、長く大事に飼っていた金魚、健司が生物学者を目指すきっかけにもなった大事な友達を亡くしてしまいました。
私の渡英と家族のように思っていた金魚の死が重なったことは、健司に大きなショックを与えました。これで完全に独りきりになってしまった、と思ったのかもしれません。私はその時もう日本にいませんでしたが、みずから死に場所を求めるような、荒んだ生活をしていたようです(知人に様子を見に行ってもらったのですが、あまりのひどさに、知人がその事実を伏せていたため、私がそれを知ったのはずいぶん後になってからでした)。
また、息子が誰に対しても恋愛感情を持てなかったということも、その人が教えてくれました。どういう経緯でそういう発想に至ったのかは分かりませんが、大事にして敬意を払うべき存在(家族や友人)と、性的な対象としての女性を息子の中で完全に分離した結果、その両方を合わせた女性、つまり恋人や妻にあたる存在が抜け落ちてしまったようです。そういう存在こそ、人が人として生きていく上で必要なはずなのに、息子は少し前まで、それを知らなかったのです。
知人と私は、息子を立ち直らせる大役を彼の従弟・健太に任せました。健太から教わりながら、健司は自分にとって大切な存在を探す練習を始め、それからしばらくして出会ったのが、貴美子さん、あなたなんです。運命の出会いだ、27歳の初恋だと、私や弟一家が大喜びする理由が、お分かりいただけるかと思います。
貴美子さん、健司に笑顔をくれてありがとう。孤独な息子の心に灯をともしてくれて本当にありがとう。
二人の文通に、母親が出ていくのはとても無粋なことですけど、どうしてもあなたにお礼が言いたくて。ごめんなさいね。
どうか、このご縁がつながりますように。貴美子さんとお会いできる日を心待ちにしています。 山本葉子」
貴美子は便箋から目を上げると、健司とその母に想いを馳せた。
健司さんも、私の心に灯をともしてくださいました。感謝しています。
近いうちに、航空便を出そう、そう思った。
* * *
ペトラ社の研究開発部では、貴美子と亜紀がそれぞれ別件の報告書をまとめ終わったところだった。二人が一息入れようとしたところで、
「失礼しまーす」
軽い調子で誰かが入ってきた。浩子だった。
浩子は、貴美子と亜紀の席までやってくると、抱えていた紙袋から、水色のボトルを取り出して貴美子と亜紀の間に置いた。
「二人とも、お疲れさまでした」
「できたんですか?」
亜紀が嬉しそうに言い、ボトルを手に取った。
「AQUA Care」
ラベルを指さして、くすりと笑う。
「“国立生物学研究所と共同開発しました!”が、めっちゃ主張してますね」
「そこ、一番大事なポイントだからね」
浩子も満足そうだ。
貴美子も見せてもらった。裏側の説明書きには、どういう仕組みで水の汚れを防ぎ、魚にとって良い状態を保つのかが、分かりやすく説明されていた。貴美子がボトルを亜紀に戻すと、
「浩子さん、これって」
ラベルの下の方には何種類か淡水魚が描かれている。亜紀が指さしているのは、黒いでめきんだった。
「でめこちゃん?」
「そうなのよ」
使わせてもらった、と浩子は笑った。
「ちゃんと許可、取ってあるからね」
「へえ」
「でめこちゃん本人から」
「え、何ですか、それ」
でめこのイラストを新製品のラベルに載せても構わないかと浩子が尋ねたところ、健司はちょっと待ってもらえますか、と答えたらしい。
「イエスかノーか、すぐに返事もらえると思ったんだけどね」
不思議に思った浩子が見ていると、健司は水槽の方へ行き、でめこに声をかけた。
「私が言った通りに、説明してるのよ。ラベルに載るかもしれないけどいい? って」
「ほんとですか?」
亜紀が吹き出した。
「しかもね。でめこちゃん、それに返事したの」
「浩子さん、それはちょっと盛り過ぎ」
「ほんとだってば。ぷくって泡を吹いたんだから」
浩子も亜紀も笑っている。貴美子もおかしくなってきた。
「で、使ってもいいそうです、って飼い主さん経由で許可もらったってわけ」
「へえ」
そんなやりとりがあったとは。
「彼が、でめこ相手に普通に話しかけた時は、さすがに、ぎょっとしたわよ」
「ですよね」
「でもね。あんな顔見せられたら、もう何でもアリ、って思った」
資料用にと、今度は撮影の許可を得たうえで写真を撮らせてもらい、撮った写真を見せたところ、飼い主の顔がほころんだ。
「その写真、パソコンの壁紙にするって言ってた」
「子煩悩ですか!」
「うん。兄貴が自分の赤ちゃん抱っこしてる時とおんなじ顔してたよ」
「ほんとに金魚が好きなんですねえ」
亜紀がしみじみ言った。
「てわけで、これ、今から国生研に届けてくる」
彼らにお礼も言いたいし、と浩子が紙袋を持ち上げた。
「行くんですか、いいなあ」
「一緒に行く? あっちの窓口、大野君だから、彼がいることしか確認してないけど」
亜紀はうなずき、貴美子に尋ねるような視線を向けてきた。
「課長にひと言行っていけば、大丈夫じゃないかな」
貴美子の言葉に、亜紀は嬉しそうな顔をした。
「また、お肌つるつるになるかも」
実験してみますよ、と笑っている。
「私は行けないから。皆さんによろしく」
「分かりました。浩子さん、ゆかりちゃんは?」
「今日はお得意先周ってる。あの子連れて行くといろいろ厄介だから、ちょうどいいわ」
その夜届いた、健司の手紙にはこうあった。
「新製品、拝見しました。俺たちの2か月間がこんな風に形になるのは、嬉しいものですね。
でめこがモデルのイラストも、可愛く描けてました。ありがとうございます。御社の売り上げに貢献したいので、発売したら買い占めます(占める、は嘘です)。楽しみにしています」
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