第10章 うれしい時はどうする?
その日の日付が変わる直前、15通目の手紙を投函し、運動公園へ向かって歩いていると、背後に人の気配を感じた。健司の後を追っているらしい。誰だろうと思いながらも、そのまま歩き続けた。
テニスコート脇から公園の中を通り抜け、駐輪場まで来た時、
「君」
後ろから呼びかけられた。振り返ると街灯の照明の下に、小柄な中年男が立っていた。
一目で誰だか分かった。それほど父親と貴美子は風貌がよく似ていた。
「町田さん……ですか」
静かに男がうなずく。健司はすぐに名乗り、一礼した。
貴美子の父は、一歩踏み出すと、健司を振り仰ぐようにして言った。
「このところ、毎晩家に来ているのは、君だな」
怒りを含んだ声だ。握り締めた拳を下ろしているが、それが震えているように健司には見えた。町田の問いに、その通りだと答えると、
「目的は? 貴美子に何の用だ」
からかうつもりなら――押し出すような言葉が、哀しそうにも聞こえる。
「違います」
健司はまず、深夜になることが多い訪問について町田に詫び、研究所での出会いから、毎晩手紙を届けるに至った経緯を、説明した。
長い話になったが、貴美子の父親はその間、黙って聞いていた。そして、健司の話が終わると、
「信じられんな……」
ぼんやりとつぶやいた。健司を見上げる。
「さっき、国生研と言ったね」
魚の責任者はと問われたので、直属の上司にあたる主任教授の名を挙げた。
「じゃあ、金枝君が言っていたのは、君のことか」
町田の表情が少し和らいだ。
「もう少し、いいかね」
「はい」
今夜はいつもほど寒くはないが、重装備の自分はともかく、厚手の上着を羽織っただけの貴美子の父親が気の毒な気がした。だが、傍のベンチを勧められ、町田の隣に腰を下ろした。
町田がうーん、と唸り、改めて健司の顔に視線を注いだ。
「君のような男がな。他に女性はいくらでもいるだろうに」
「貴美子さん以外、考えられません」
健司の言葉に、町田は頭を振って、大きく息をついた。先ほどの説明で真意は語り尽くしたつもりだったが。
「本気だと言われてもなあ……」
冷静に話を聞いてくれた相手ですら、この反応だ。貴美子の心の壁を切り崩すのは、やはり容易なことではないと思った。
「それを信じてもらうために、こうして通っています」
少し非難めいた口調になってしまった。町田がすまない、と言ってうつむく。
「あの子は私に似てしまったからな」
親バカだが、心配でね、と哀しそうに言う。俺にとっては絶世の美女です。心の中で反論した。
町田は、しばらく黙ったまま、はく息で手を温めていたが、ふと健司の単車に目を止めると言った。
「あれで、ここまで?」
「ええ」
「家はどこかね」
住んでいる町の名を言うと、驚かれた。それは遠いな、とつぶやくのが聞こえた。
「それで、ここに停めて、家まで歩いて?」
「はい」
町田が不思議そうだったので、言い添えた。
「音がもの凄いので」
健司の答えに、町田は再び単車に目をやったが、排気量1340ccの心臓を見て、納得したようだった。
しばらく間があって、
「実は一度、警察に連絡しようとした」
町田が言った。
「だが、あの娘に止められた。必要と思ったら自分で通報する。だから、放っておいてほしい、と」
「そうでしたか」
「君の手紙、受け取ってはいるようだよ」
父親によると、朝、新聞以外のものは郵便受けに何も入っていないので、手紙は貴美子が回収しているだろうとのことだった。
「読んでいるかどうかまでは分からないが」
申し訳ない、と頭を下げられ、恐縮した。
「どれくらい、続けるつもりかね」
健司は苦笑した。貴美子が信じてくれるまで、としか言いようがない。
「頑固なあの娘が、変われるだろうか」
町田が優しい父親の目で言った。娘のことを心底案じているのだ。健司は貴美子の父親と話せたことを感謝しながら、言った。
「実は、少しは信じてもらえてるんじゃないかと思ってます」
「そうかね」
「人をからかうためだけに、ここまで時間と労力を使う奴はいません。聡明な彼女なら、頭では分かってるんじゃないかと」
町田がうなずいた。そして健司を見据えると、
「ありがとう」
と言い、立ち上がって頭を下げた。
「まずは、私が君を信じよう」
「ありがとうございます」
健司も立ち上がり、一礼した。
「――これから戻るのでは、3時近くになってしまうだろうね」
固辞したのだが、町田は健司を見送ると言う。感謝しつつ、ヘルメットを取り上げると、健司はキーをONにして、スロットルを開けた。
地鳴りのような爆音に、町田がよろめくのが見えた。慌てて体勢を立て直している。
大丈夫かな。心配していたら、手を上げてくれた。健司は会釈で応え、スタンドを蹴って発進した。
* * *
それから、さらに1週間が経った。
健司は手紙を入れようとして、ポストの投函口に小さく折りたたんだメモが貼ってあるのに気付いた。山本君へ、とある。どきりとしながら目を通すと“この数字を覚えておいてください 556”とだけ書いてあった。字の雰囲気から貴美子の父親が書いたもののようだ。なんだろうと思いつつ、いつものように手紙を投函して帰った。
“556”の謎は、次の夜明らかになった。行ってみると町田家のポストが、かなり大きなものに変わっている。しかも取り出し口のところに、ダイヤル式の錠がついていた。三つの数字を並べて開錠するタイプのものだ。“556”はこの数字のことらしい。
わざわざ自分に番号を教えるというのは、開けろということだろうな。誰かが見ていたら何か盗んでいるように思われるだろうが、ポストの大きさが変わったことも気になっていたので、急いで開錠した。
ポストの中には、保温容器に入った缶コーヒーと、肉まんが入っていた。差し入れ?
胸の中に温かいものがこみ上げた。でも、これは本当に自分あてでいいのだろうか。戸惑っていたら、玄関の扉が開いた。差し入れを取り落としそうになりながら玄関に目を向けると、母親らしき人が立っていた。
貴美子の母親は何か言いたそうな顔をしていたが、黙ったまま、健司に向かって深々と頭を下げた。彼女の両親に応援してもらえるなんて、俺は幸せものだ。
「お心遣いありがとうございます。いただいていきます」
急いで礼を述べると、持ってきた手紙を投函し、差し入れを胸に、町田家を後にした。
翌日、健司は貴美子あての手紙とは別に、昨晩の差し入れの礼状をポストに入れた。ポストの中には昨日とは別の差し入れが入っていた。
これでは申し訳ないと思い、その翌日、今後はお気持ちだけで充分、との礼状とともに、地元の銘産品を入れておいた。なんだか貴美子の両親と文通をしているようで、少しおかしくなった。
* * *
配達を始めて25日目。もうすぐ12月だ。気象予報によると今年は厳冬らしいが、道路さえ凍らなければ問題ないと健司は思っていた。
今夜はいつもより早めに到着できた。手紙の投函に影響はないが、到着時間が早いと、復路を走る気分に余裕が生まれる。
単車を停め、今はもう慣れ親しんだ道を通って、町田家へ急いだ。
ポストの鍵を開けるたびに、差し入れを取りにきたようで気が差すのだが、たまに食べ物が入っていることもあるので、確認しないわけにもいかない。ポストを開けると、この日、保温バッグは入っていなかった。
その代わり、封筒が置いてある。表書きは健司あてだ。まさか。裏を返す。貴美子の名があった。思わずその場に、膝をつきそうになった。
不安と期待が同時に押し寄せる。怖い。でもやはり早く読みたい。
引き返そうとして、持ってきた手紙を投函していないことに気づいた。何やってるんだ、俺は。
ポストに自分の手紙を入れて、駐輪場まで走って戻ると、すぐにエンジンをかけ、ヘッドライトの灯の前で、封を切った。小さめで几帳面な感じの文字が並んでいる。
「山本健司様
毎日お越しいただいて、申し訳ありません。
先日は、父が突然お会いしたとのこと、大変失礼致しました。
山本さんのお気持ちとお手紙、ありがたいと思っています。でもどうしたらいいのか分からないというのが、今の私の正直な気持ちです。あなたのような人が私みたいな女を本気で好きだなんて、誰だって冗談だと思うし、信じられないと思います。
本当に申し訳ありませんが、まだ心の整理がつかないので、お会いすることはできません。
ですが、遠方からバイクで来られているとうかがって、せめて返事をとペンを取りました。1か月もお手紙をいただいていながら、これまで何のお返事もしなかったこと、心からお詫び申し上げます。
寒い中、毎晩来ていただくこと、心苦しく思っております。心を開くことができない私をお許し下さい。
道中お気をつけて。 町田貴美子」
3回読み返した。そして便箋を折りたたむと胸に当て、目を閉じた。ありがとう。
アイドリング音をバックに、しばらくそうしていたが、やがて携帯電話を取り上げると、健太に電話した。
「けん兄? どしたの」
「お前、ならどうする」
「は?」
「う、れ、し、い、時はどうする?」
「何かそっち、うるせえんだけど。暖気中? 聞こえないよ」
少し単車から離れて、再度尋ねた。健太が電話の向こうで、爆笑しているのが分かった。
「オレなら吼えるな。それからバック転」
「分かった」
礼を言って、電話を切ると二、三度バック転をしてみた。悪くない。吼えはしなかったが。
その後、もう一度読み返して、手紙をしまいこむと、駐輪場を後にした。
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