第9章 夜ごとのバイク便

 強引ながらも、気持ちは伝えた。大きな荷物を降ろしたような気分だ。

 肝心なのはこれからだ。

 手紙を届けるとなると、貴美子の自宅の場所を確認する必要がある。これについては、送別会終了後の雑談が大いに役に立った。これがなければ、調査から始めなければならなかったのだから、大野には深く感謝した。翌朝、研究所で顔を合わせた時に、感謝の気持ちを表そうとしたら、ひどく気味悪がられてしまった。

 昼休み、健司は図書館に出向き、K市運動公園付近の住宅地図をコピーしてきた。

 テニスコート側とおぼしき区画を探し、町田邸を見つけた。近隣に同姓はなく、貴美子の家で間違いなさそうだ。少し離れた一画に大野の実家もあった。

 研究所から戻り、急いで夕食を済ませると、健司は便箋に向かった。考えてみれば、恋愛自体が初めてだから、想い人にあてて何かを書き送るという行為も初体験なのだった。

 何を書こうか迷ったが、早く出発したかったし、初日だからと所信表明のつもりで、思いつくままを綴った。

「町田貴美子様

 研究所はペトラの皆さんが来なくなったので、華がなくなった感じです。ずっと一緒に研究したかった。残念です。

 御自宅の場所は、送別会の時に大野と話していたのをヒントにさせてもらいました。すみません。  

 書きながら、自分のやってることはストーカーのようだと思えてきました。迷惑なのは充分承知の上ですが、宣言どおり手紙をお届けします。町田さんのご判断で、いつでも警察に通報して下さって構いません。

 今夜から冷え込みが厳しくなるそうです。風邪などひかれませんように 山本健司」

 手紙を封筒に納め、貴美子の名前を記すと、健司は配達のための身支度を始めた。

 貴美子の自宅までのルートは確認してある。走行距離約110キロ。最寄のインターチェンジから高速道路に乗って、100キロ超で飛ばせば、貴美子が住む町まで2時間程度で到着できるだろう。

 外へ出て、愛馬のハンドルに手をかける。そのまま少し押して、住宅街を抜け、表通りまで運んだ。

 今夜の冷え込みと、ここ3、4日エンジンをかけていなかったので、少し心配したが、意外とあっさりエンジンがかかった。幸先がいい。

 しばらく、その場で重低音を響かせると、その爆音とともに、健司は走り始めた。


* * *


 防寒対策はしてきたので、市街地はそれほどでもなかったが、さすがに高速に入ってからは寒気が堪えた。ほんとに11月か? 明日からは真冬並みの準備をしてこようと、健司は思った。

 冷気と轟音だけの世界で、貴美子のことを考える。

 昨夜の彼女の言葉。半分は疑っていると言っていた。悪い冗談としか思えないと。

1日経った今、9割は信じていないかもしれないな、と思った。疑いの割合が、少しずつ減り、逆転する日はくるだろうか。いや、100%信じてもらうために、今こうして走ってるんだ。

 Hインターで高速を降りると、K市を目指してしばらく走った。運動公園に着いてみると想像以上に広い。野球場、体育館、プールなど、一通りの施設がすべて揃っている。野球場横に駐輪場があったので、そこに単車を停めた。

 エンジンを切ると静寂が際立つ。午後11時過ぎだから、人気がないのは当然だった。健司は単車のサイドバッグから手紙と地図のコピーを取り出すと、テニスコート側へと進んだ。

 住宅地図で確認していたので、貴美子の家はすぐに見つかった。表札を確認し、門柱のポストに手紙を投函する。

 玄関も部屋の電気も消えている。この家のどこかに彼女がいる、そう思うと心がざわめいた。だが、夜更けにあまり長く人の家の前で立ち止まっているのも怪しいので、家に向かって一礼すると、来た道を戻った。

 こうして、夜ごとの手紙配達が始まった。


* * *


 貴美子は昨日で共同研究が終わったことにほっとしていた。なるべく早くこの2か月間のことを忘れたかった。

 寝不足で重苦しい気分の中、何とか神経を集中して仕事を終えると、貴美子は急いで家に帰った。昨夜寝ていない分、少しでも早く休みたかったし、その日は夕方からぐんと気温が下がり、11月初めとは思えないほどの冷え込みだった。

 その夜、11時ごろ。貴美子がベッドに入ろうとした時、家のすぐ外に人の気配を感じた。何だろう。2階の窓からそっと見下ろすと、背の高い人影が郵便受けに何か入れるのが見えた。

 どくん、と胸が鳴った。

 彼? ――本当に来たんだ。

 見ていると、健司が去ろうとして足を止め、振り返った。貴美子の家を眺めている。部屋の明かりはもう消してあるから、向こうからこちらは、よく見えないはずだ。

 外に出て、何か一言、言うべきなのか。でも怖い。体が動かない。迷っている間に健司は行ってしまった。

 一体、ここまでどうやって? 

 家族に見られては困るので、上着を羽織ると急いで郵便受けを見にいった。入っていた白い封筒に貴美子の宛名が書いてあった。


* * *


 手紙を届け始めて、5晩目のこと。出発間際に電話が鳴った。健太だった。竹中一家には、無事告白できたとしか報告していなかったので、心配してかけてきたらしい。

 簡単に現状報告をすると、健太は驚いたようだった。

「K市まで? でめ太号で?」

「俺の足はあれだけだから」

 大事な人への手紙は、愛馬で届けたい。

「だって、100キロ以上あるよな。どんくらいかかる?」

 天候や道路事情にもよるが、片道1時間半から2時間半くらいだと言うと、受話器の向こうで、げ、と聞こえた。

「やっぱ、車の免許も取れば?」

「そうだなあ」

 と言っても、正直あまり気乗りがしない。今のところ不自由していないし、四輪車には興味が湧かない。

「毎晩行ってんの?」

「今日で5日目」

「寒くねえ?」

「ウエア変えたからかな。今はそれほど辛くない」

 ただ顔は出ている部分が痛い。そう言うと、だろうな、と健太は笑った。

「そうだ。手紙って、彼女の返事は?」

「ないよ」

 別れ際の貴美子の様子を思えば、当然だろうと思う。

「俺が勝手に決めて、一方的に届けてるだけだから」

 健太がうーん、と唸った。

「あのさ、彼女の家の方は大丈夫なのかな」

 ストーカーみてえなことしてて、と遠慮気味に言う。ひとまず、本人にはっきり拒絶されるか、通報されるかするまでは、続けるつもりだと言うと、何か怖ぇ、と笑われた。

「健太の言った通りだ」

 健司は改めて、従弟に礼を言った。

「人を好きになるって、いい気分だ」

 困惑した貴美子の表情を思い出すと、複雑ではあるが。

「手紙を書くのも届けるのも、何もかも初めてで、すごく新鮮だ」

 健司の言葉に、9歳年下の従弟は照れくさそうに言った。

「27歳の初恋だから、想いがすっげえ凝縮してるんだろうね」

「普通は、こういうこと、小中学生で経験するものなのか?」

「いやあ、それはちょっと違うな」

 うまく説明できねえけど、とまた健太が笑った。


* * *


 その後も毎晩配達を続けたが、貴美子の家の前で、健司が警官の職務質問を受けることはなかった。今のところ明らかな拒絶はない。その代わり貴美子自身が出てくることはもちろん、手紙の返事もなかった。 

 もともと簡単に貴美子の心を動かせるとは思っていなかったし、健司の方は、手紙を書き、愛馬を駆って届けるこの日課をそれなりに楽しみにしていた。さすがに学会の準備などで帰宅が遅くなり、K市到着が深夜の1時2時になると、家に戻るのが明け方という日もあった。そんな風に、ほとんど寝ないで研究所に出た日は一日辛かったが、好きな人へ向けて次は何を書こうかと考える喜びの方が大きかった。


* * *


「国生研の近くの銀杏並木が、黄色一色に染まりました。葉が色づく前もこの道を通るのは好きでしたが、この時期はまた格別です。しばらくは毎日、黄葉狩りができそうです」


「うなぎのタレ、先日教授のOKが出ました。うな吉さんの味も生かしたかったので、刷毛で上から少し塗る形にしました。

 金枝うなぎは、うな吉さんでは上得意だけに提供する裏メニューになっているそうなんですが、素人考案のタレをお店に提供することはできませんので、特製タレ付きの金枝うなぎは教授室の限定品です。教授が、町田さんにはタレの件を内密にしていただく代わりに、改めてご馳走しましょうと言っていました」


「でめこを家に連れて帰りました。移動は危険なのですが、やはり自分の部屋にいてほしいので。研究所で可愛がってくれた町田さんによろしくと言ってます。

 でめことの出会いも金魚すくいでした。大学3年くらいだったか、精神的にひどく参っている時期に、やらざるを得ない状況におかれて、すくうことになりました。俺が立ち直ることができたのは、でめこのおかげです。

 町田さんの金魚たちはお元気ですか。俺は金魚歴が長いわりに、琉金やらんちゅうは飼ったことがありません。それぞれ違った良さがありますよね。

 中和剤の試供品を貰ったので同封します。御社の製品と比べてみて下さい。

 金魚のことばかりですみません。では、また明晩」

(作者注:健司とでめことの出会いは、中編「二代目はでめこちゃん」をご覧ください)


* * *


 10通目が届いた夜、貴美子はそれまでに届いた手紙を初めて開封した。

 書いてあるのが、自分を嘲笑うような内容だったら――とはさすがに思えなかった。寒い中、10日もかけてやることじゃない。

 最初から順番に読んだ。

 生まれて初めてもらったラブレター。でも、少し大きめの字で綴られる手紙には、愛や恋といった情熱的なメッセージではなく、日々の暮らしが飾らない言葉で記されていた。研究所で金魚の話をした時の健司を彷彿とさせるような文章に、心の奥が温かくなるような気がした。

 手紙の配達は、夜中の2時ごろになることもある。手紙の束を胸に、貴美子は祈るようにして、健司に詫びた。

 それでも、会うのは怖かった。手紙には感謝したが、会って顔を見てしまうと、相手と自分との格差を再認識して、何もかも作られた筋書きだと感じてしまう気がした。

 見かけなんか関係ない。あの人が私を好きと言うならそれを信じる。そう思えたらどんなに楽だろう。だが、貴美子の中で長い間強く根を張ってきた劣等感は、そんな思いを抱かせてはくれなかった。

 来てくれて、ありがとう。でもあなたに会うことはできない。

 せめてもと、健司が来て帰るまでは部屋の電気を消さないでいるようにした。それ以来、健司は立ち去る時に貴美子の部屋の窓に軽く手を振った。

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