第8章 告白

 解散場所から、駅へ向かう道は限られているので、貴美子を見つけるのにそれほど苦労はなかった。

 晩秋の冷たい風の中、貴美子は小柄な身をさらに縮めるようにして歩いている。貴美子の少し後ろを歩きながら、健司は声をかけるタイミングがつかめず焦った。車通りが多い場所のはずだが、自分の周りだけ静まり返っていて、激しい鼓動に急かされているようだ。

 こんなことしてる間に、駅に着いてしまう。駅前の雑踏で話したくはなかったので、陸橋に差し掛かったところで、思い切ってその名を口にした。

「町田さん」 

 貴美子が歩を止め、振り返る。だが、立っているのが健司だと分かると、すぐに向き直り、歩き始めた。予想はしていたが、やはり堪える。

 自分を励ますように頭を振ると、健司は貴美子の前に回りこんだ。鼓動がうるさい。必死で言った。

「お会いできるのも今日が最後です。ほんの少しでいいから、お話できませんか」

 行く手をふさがれて、立ち止まった貴美子は、小さなためいきをつくと、顔を上げた。

「酔って――」

 と言いかけて、止めた。今日健司が一滴も酒を口にしていないことを思い出したようだった。さらに、健司の顔を見て、一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐにうつむいてしまった。

「なんでしょうか」

 諦めきったような口ぶりだ。

 顔が見たい、そう思ったのも確かだが、健司は視線を合わせようと、背を屈めた。

「あなたに叩かれたことを家族に話したら、当然だと叱られました。大変失礼なことを言ってしまったようで、本当にすみませんでした」

「別に、気にしてませんから」

 冷ややかな返答があった。

「でも、あなたをからかい、侮辱するつもりで言ったんじゃない」

 貴美子は黙っている。

「御存じの通り、俺は女性に関して非礼なふるまいをしてきました。誰かを好きになろうなんて思ったこともなかった。その俺が2か月前、初めて女性に心を奪われました。それがあなただった」

 一瞬、貴美子が視線を上げた。だが、その表情は硬いままで、話を促すような仕草を見せただけだった。

「一目惚れでした。電車の中であなたを見かけて、でめこに似てる、可愛い人だと思いました。老人に席を譲った時の恥ずかしそうな様子とか、そういうところにも惹かれた」

 2か月前のことなのに、懐かしい気さえする。

「別れを残念に思っていたら、俺と同じ駅であなたも降りた。しかも研究所へ向かってる。嬉しかった。案内板の前で声をかけた時のこと、覚えてますか」 

 貴美子が小さくうなずいた。

「町田さんも金魚が好きで、研究をしているとうかがった時は、運命的な出会いだと思いました。一緒に仕事をするうちに、人柄や仕事ぶりにも惹かれて、想いがどんどん強くなっていったんです」 

 顔が熱い。燃えるようだ。健司は続けた。

「二人でお互いの金魚について話せたらどんなにいいだろうと思いました。でもなかなかチャンスがなくて。焦ったあげく、あなたを怒らせるようなことを言ってしまった」

 貴美子がうつむいたまま、手のひらを返した。叩いた時のことを思い出しているのだろうか。

「完全に嫌われたと思って、しばらくは何も手につきませんでした。諦めようとも思った。でも初めて好きになった人なのに、こんな形で別れるのは嫌だった」

 このままで終わったら、もう二度と恋はできない。

「俺にとって、でめきんが美の象徴というのは、本当なんです。これは譲れない。でも町田さんを傷つけたなら、お詫びして、そのうえで自分の想いを伝えよう、そう思いました」

 そこまで言うと、健司は深く息をついた。

「町田さんのことが好きです。今、もしお一人なら、俺と付き合って下さい」

 言い切った途端、力が抜けた。健司は、陸橋の手すりを支えにし、体を起こした。


* * *


 貴美子は混乱していた。初めは、これで最後なのだから、最低男の小芝居に付き合ってやろう、くらいの気持ちでいたのに、健司が自分をからかっているようには思えなくなってきた。さっきの送別会で、酒を口にしていないことは知っている。それに――久しぶりに見た健司の顔はひどく憔悴していた。最後の最後にもう一度からかってやる、というような雰囲気は感じられない。必死で訴える健司の言葉が、心からのものに思えてきた。

 じゃあ、彼は本当に私のことが好きだって言うの? 

 貴美子は戸惑い、そしてその心に、哀しみが満ちてきた。

 どうして、初めて自分を好きだと言ってくれた男性が彼なんだろう。女性がみんな見惚れてしまうくらい素敵な人じゃなくて、彼がもっとごく普通の男だったなら――。


* * *


 必死でまくし立ててしまった。ちゃんと伝わっただろうか? 健司はしばらくの間、ぼんやりと立ち尽くしたまま、貴美子を見つめていた。

 貴美子は、うつむいたままだ。両手を堅く握り合わせて、黙り込んでいる。

 どれくらい時間が経っただろうか。

「どうして……なんだろう」

 ぽつりとつぶやくのが聞こえた。急いで身を屈めると、

「山本さん」

 穏やかな呼びかけがあった。胸が波打つ。

「ありがとう、ございます」

 ようやく搾り出したような声。その後しばらく間があって、

「でも、私にはお受けできません」

 貴美子の顔が、少しだけ上がった。視線は健司の胸あたりに注がれている。

「あなたは褒めてくれたけど、私は自分が、自分の容姿が好きじゃない。自信が持てないから、人を好きになるどころか、信じることもできないの」

 冷たい夜風がさっと吹き付けた。

「でめきんが好きだというのは、ほんとだろう、と思います」

 一瞬、貴美子が目を上げた。久しぶりに視線が合う。が、相手はすぐに目を伏せてしまった。

「でめこちゃんを見れば、長い間、大事に育ててきたの、分かります」

 嬉しい言葉だ。でも、なんて哀しそうに言うんだろう。

「だからって、私を好きだなんて」

 今度は少し自嘲気味に言った。

「人が振り返るほど素敵なあなたに、一目惚れしたなんて言われても、悪い冗談としか思えない」

 悪い、冗談――。

「今も、あなたのこと、頭の半分では疑っています。私があなたの申し出を受けた途端、誰かが飛び出してくる。そして、不細工な私を有頂天にさせたあなたに、賭金を払うことになってるんじゃないか、私はそんな風に考えてしまう人間なんです」

 どうしてそんなことを? 哀しげな表情に、胸が破れそうになった。

「金魚の話、できなくてごめんなさい」

 声がだんだん小さくなる。

「もう少し私が……だったら、あなたとも気軽にお話できたかもしれませんね」

 貴美子がゆっくりと頭を下げた。

「でめこちゃんに、よろしく」

 そして、うつむいたまま、歩き出した。

「さよなら」

「待ってくれ」

 とっさに、その肩をつかんだ。

「離して」

「信じてほしい。本気なんだ。嘘でも冗談でもないんです」

 大きくかぶりを振る貴美子の両肩に手を置くと、健司は体を屈めて言った。

「今まで俺がやってきたことを考えたら、信じてくれ、って言われても無理かもしれない」

 貴美子は必死で健司の視線を避けている。

「でも嘘じゃないんです。俺にとっては世界一可愛いと思う人が町田さんなんです」

“自信が持てないから、人を好きになるどころか、信じることもできないの”

 貴美子の言葉が頭を駆け回った。

「どうやったら、信じてもらえるだろう」

 気づいたら口にしていた。

「え」

 貴美子の肩の力が抜けた。そっと手を離す。

「確かに、いきなり自分の気持ちをぶつけて、受け入れてほしいというのは、勝手な話ですよね」

 まず、信じてもらえるようにするには、どうすればいい? 少し考えたが、案外すぐに答えは見つかった。

「毎日、会いに行きます」

「な、何言ってるの」

「でも、遅くなると迷惑だな。そうだ、手紙を書いて届けます」

「そんな、困ります」

「本気だと信じてもらったうえで、それでもやっぱり俺を好きにはなれない、友達にもなれない、というなら」

 辛いが仕方がない。

「その時は潔く諦めます。約束します」

 貴美子が当惑しているのが分かった。何か言いかけては、飲み込んでいる。

やがて、

「知らないわ。勝手にしてください」

 放り出すように言うと、走り去って行った。


* * *


“町田さんのことが好きです”

“毎日会いに行きます”

 健司の言葉が、頭の中に繰り返し響く。

 貴美子は眠れぬ夜を過ごした。明け方少しまどろんだだけで、頭がぼんやりしている。

 昨夜の事は夢だと思うことにした。何もかもが非現実的だ。超美形のモテ男がでめきん女に愛を語る。そんな筋書き、少女マンガにだってない。きっと私、飲み過ぎたんだ。

 でも、肩をつかまれた時の痛みが、まだ残っている。彼、怖いくらい真剣だった。

だめ、早く忘れよう。

 そもそも手紙なんて、どうやって届けるの? 彼には仕事、研究もある。私の家はすごく遠いし、住所だって知らないはず。

“孤独な遭難者が宇宙で出会ったでめきんは、自分の星に帰ってしまいました”

 あなたと私は住む星が違うんです。だから無理なの。ごめんなさい。

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