第7章 これだけは譲れない

 わたしなら二度と口きかない、と美春が言ったように、あの一件から貴美子は健司に挨拶すらさせる隙を与えなかった。

 貴美子の周りの見えない壁はさらに厚さを増した。仕事上のやむを得ない場合を除いて、半径2メートル以内に近づこうものなら声を上げられそうな勢いだった。これじゃ、謝るどころじゃない。面白半分に近づき、容姿を嘲笑った悪魔だと思われたまま、自分の初恋は終わるのだろうか。健司の心は重く沈んだ。

 貴美子は何かを振り払うかのように、これまで以上に仕事に没頭している。話しかけられそうな機会は当分めぐってきそうにないと判断した健司は、なるべく貴美子の視界に入らないように努めた。

 10年半育てた金魚が他界した時でさえ、ここまで悲しみの底に沈んだことはなかった。気力も食欲も萎え、眠れない日が続いた。今が最悪の状況なら、後は浮かぶしかないと言われたものの、健司は底に沈んだまま、なかなか浮かび上がることができなかった。

 健司の憔悴ぶりは、周りの者を本気で心配させた。普段軽口ばかり叩いている吉崎や大野までが、真剣に病院行きを勧めたほどだ。

 結局、謝るきっかけを失ったまま、時間だけが過ぎていき、ペトラ社との共同開発も残り3日となった。

 諦めた方がいいのか、と一度は思った。だが、相手に厭われた至極の片恋ゆえか、貴美子への想いは強くなるばかりだ。

 同時に、何か釈然としない思いが健司の心を占めるようになってきていた。

 最近は、研究の合間を縫っては生体管理室の水槽の前に一人で腰掛けて、でめこを眺めている。健司は優雅に尾びれを振っている愛魚に語りかけた。

「そのうち、家に帰ろうな」

 ガラスに顔を寄せると、でめこも健司の方を向いた。

「心配してくれてるのか」

 愛しさに思わず目を細める。葡萄型の目、ビロードのような黒い肌。蝶型の尾びれは黒揚羽のようだ。世界一美しい魚だと思う。

 貴美子に叩かれたことを竹中家で話して以来、ずっと引っかかっていたのだが、それが何かやっと分かった。

 こんなに美しく愛らしいでめきんが、なぜ”不細工の代名詞”なんだ? 納得できない。自分の中に何か湧き起こるものを感じた。

 その時、背後のドアが叩かれた。

「やっぱりここにいたか」

 吉崎が入ってきた。健司の顔を見て、

「お前は無理かな」

「何が」

「ペトラ社の送別会兼慰労会。最終日にやろうって話が出てるんだけどさ」

 正直なところ、あまり気乗りがしなかった。どうせ貴美子は来ないのだ。

 だが、念のため聞いた。

「向こうは?」

 意外にも吉崎は、ペトラ側は全員参加だと言った。健司は身を乗り出した。

「俺出るよ」

「大丈夫か? すげえ調子悪そうだけど」

「心配ない」

 吉崎は複雑な表情をしていたが、やがてうなずくと言った。

「じゃあ、七人で予約とっとくよ」

 送別会か。2、3時間の延長でも、貴美子を見ていられる時間が長くなると思うと、嬉しかった。でも、それが終わってしまえば、もう会えなくなる。

 誤解され、嫌われたまま別れてしまうのは、やはり哀しい。さっきまでの、闘志にも似た思いが冷めそうになった。

「おい」 

 呼びかけられて、我に返った。吉崎はまだ何か用があるようだ。珍しく神妙な顔をして言った。

「お前、変だぞ」 

「知ってるよ。いつも、お前らに言われてるから」

「いや、そうじゃなくてさ」

 吉崎はしばらく迷っていたようだったが、やがて口を開いた。

「共同研究始まったあたりから、何か気持ち悪いくらい、浮かれ出したよな」

 同僚にはそう見えていたらしい。

「かと思ったら、最近は半分死んでるみたいだしよ。冷血人間ヤマケンはどこいったよ」

 確かに、傍から見たら不安定だと感じるだろう。健司は吉崎に礼を述べ、心当たりはあるが、問題ないと言った。

「勝手なもんでさ」

 吉崎が苦笑した。

「苦しんでるお前見て、一応こいつも人の子だったんだなあ、って」

「何だ、それ」

「そっちの方がいいよ。モテモテの完璧野郎なんて、むかつくだけだからな」  

 まるで孝志のようなことを言う。

「何か心配事でもあるなら」

 言ってみろ、と吉崎は健司の肩を叩いた。

「もちろん、聞くだけ聞いてバカにしてやるけどな」

 立ち去ろうとした吉崎だったが、そうそう、と足を止めた。

「電話があったぞ。竹中さんから」

 一家の誰からだろうと思っていたら、

「帰りに会社に寄ってくれって」

 かけてきたのは孝志らしい。

「親戚の人、だよな?」

 吉崎は不思議そうに言った。

「ああ。叔父だ」

「何でかお前の話で盛り上がっちゃってさ。途中で、叔父さんって言ったら、受話器越しにとんでもねえ殺気を感じたぞ」

 健司はため息をついた。叔父さんと小父さんは違う、と本人も分かっていて反応してしまうのはなぜなんだろう。ともかく一般人を巻き込むのはやめてもらいたいものだ。


* * *


 終業後、健司は孝志の会社を訪ねた。フリーのカスタムぺインターをしていた孝志が、この春に興した板金塗装会社は、社名を”Dragon-Jack Company”という。龍が大好きな孝志が名付けたのだが「天翔ける龍神を乗っ取って、天下取っちまおう」という、実にあつかましく、ばち当たりな意味が込められている。

 事務所を訪ねてみたが誰もいない。見回していると水を撒く音が聞こえたので、裏へ回った。つなぎにジャンパー姿の孝志が黒塗りの高級車を洗っている。10月下旬で陽も落ちた後だというのに、あまり寒そうに見えない。 

「社長みずから?」

 声をかけると、孝志は悔しそうにうなずいた。

「社訓に反して、残業しちまった」

「いや、洗車までたか兄がやるのかって意味なんだけど」

「何言ってんだ。当たり前だろうが」

 シャンプーを流すと、黒いボンネットの片隅に、羽根を広げたメタリックブルーの蝶が現れた。

「どう、新作」

 デザイン自体は悪くないが、絵を描いた車に乗ろうという趣味は理解しがたい。健司が思ったままを口にすると、孝志は笑った。

「世の中がお前みたいなのばっかりじゃなくてよかった」

 世界に一台というのが魅力なのだと孝志は言った。

「お前にその気があんなら、いつでもでめ太号にでめこ描いてやるのに」 

 黙って首を振る健司を後目に、孝志は車を拭き始めた。しばらく手を動かしていたが、顔を上げないまま言った。

「たいしたことねえじゃねえか」

「何が」

「お前が死んじまうって、健太がうるせえからさ」

 そういえば、昨日勉強しに来て、健司の顔を見るなり大騒ぎしていた。

「男のお悩みアイテムがなきゃ、平気だって言っといたんだけどな」

「お悩みアイテム?」

「無精髭」

「……」

 この人と話すと本当に疲れる。

「髭剃る気力くらいはあるよ」

「だろ。そもそもお前なんか、殺したって死ぬかよ。なあ」 

「で、何の用?」

 尋ねると、孝志が手を止めた。にかっと微笑む。

「念のため、な」

 それから健司の前に立って、右の手のひらを向けると目を閉じた。

「★○◎☆!!」

 何かつぶやくと、孝志は手を下ろした。

「よし」

「何だよ、今の」

「回復呪文だ。おれのは効くぞ」

 守備力アップも混ぜてある、と孝志は楽しそうだ。健司は呆れて言った。

「このために俺を呼びつけたのか?」   

「そうだ。元気出たろ」

 自信満々だ。

「今のお前なら、何でもできる。空だって飛べるぞ」

 ふざけるな。立ち去ろうとして背中を向けたら、

「いつまでだ、会えるのは」

 孝志が聞いてきた。振り返ると、孝志は車の向こう側へ回って再び手を動かしている。健司はあと3日だと答えた。

「そうか。策は?」

 まだ貴美子に謝っていないことは、孝志も知っているはずだ。

「策なんてないけど。少し考えたことはある」

「なんだ。言ってみろ」 

「不愉快な思いをさせたことについては、謝るべきだと思う。でも」

 健司は、さっき研究所で思いついたことを口にした。

「やっぱり、でめきんは可愛い。これだけは譲れない」

 改めて口にすると、義憤にも似た思いが湧き起こってきた。

「可愛い、愛らしいと思うから、褒め言葉に使ったんだ。それがそんなに悪いことかな」 

 孝志が顔を上げた。そのまま視線で健司を促す。

「誰が何と言おうと、俺にとってはでめきんが美の象徴なんだ。不細工の代名詞なんて、絶対に認めない」

 認めたりしたら、愛魚でめこの名誉に関わる。孝志の想像通りだとすれば、貴美子は自分の容姿を恥じていることになる。

「俺が世界一可愛いと思う人が、なんでうつむいて歩かなきゃならない? そんなの間違ってる」

 自分でも驚くほど、言葉に力が入った。

「悪くねえな」

 孝志が言った。

「呪文の効果、絶大だろ?」

 孝志の暗示で気分が高揚したとは認めたくなかったが、反論するのは止めておいた。

「そのまんま、彼女に聞かせてやれよ」

「え?」 

 貴美子の姿を思い浮かべた途端、気が萎えた。戸惑う健司を見て、孝志が嘆いた。

「なんだよ。あと一息だってのに」

 少し気力を取り戻せたのは確かだが、あの極厚の拒絶オーラをぶち破って、話ができるとはとても思えない。

「大丈夫だ。彼女、絶対にお前の話聞くから」

 毎度のことながら、強気な発言だ。願えば叶うというのが孝志の考え方だが、何を根拠にそこまで断言できるのかと思っていたら、

「半死人みたいな顔した男が、最後に訴えようってんだぞ。それさえ拒むような娘か? お前が惚れたのは」


* * *


 約2か月にわたる、国生研とペトラ社の新薬共同開発は、予想以上の成果を上げて最終日を迎えた。

 打ち上げ兼送別会は、研究所近くの居酒屋で行われた。皆でグラスを合わせた後、

「居心地良かったから、終わっちゃうの残念だな」

 ゆかりが嘆いた。

「だね。でもまた、こんな風に集まろうよ」

 大野が言った。

「忘年会とか。企画するからさ」

「忘年会? 今、言われてもぴんとこないよ」

 亜紀が笑う。

「いや、もう11月だし。すぐだって」

「そうね。寒くなったもんね」

 参加者は、国生研の男三人が横に並び、その向かい側にペトラの女性たちが四人座っていた。貴美子は健司の対角線上、一番離れた席で所在なげにしている。

 しばらくは、吉崎と大野が張り切って盛り上げていたが、そのうち健司に矛先が向いてきた。

「もっと早く出会いたかったな~」

「いい目の保養になったわ」

「わたしなんか、目だけじゃなくて」 

 共同研究が始まってから、体調がすこぶる良くなったと、亜紀が言い出した。

「毎年この時期、乾燥肌で困ってたんですけど、今年はつやっつやですもん」

「いやいやいや」

  皆でまさかと笑った。

「お前が出してる妙な電波、そういう効果もあるわけ?」

 吉崎が呆れたように言った。

「俺、何も出してないけど」

「じゃあ、何でうちに来る営業の姉ちゃんが、揃いも揃って腰抜かすんだよ」

 知るか。そういう時、介抱役に回らねばならない吉崎や大野に迷惑をかけているのは認めるが、自分のせいではない。

「こいつのせいで、うちの研究室には野郎の営業しか来なくなったんだよな」

「そう。だから、皆さんとお仕事できたのは」

 オレたちにとって奇跡なんです! と大野が感極まったように言った後、健司をにらんだ。

「ほんとむかつく。こん畜生」 

 大野がビール瓶を突き出してきたが、

「あれ?」

 健司のグラスには烏龍茶が入っている。乾杯の時はうまくごまかせたのだが。

「今日は酒、だめなんだ」

 一滴も、と付け加えると、

「いつもはプール一杯飲もうか、ってお前が?」

 大野が目をむいた。

「まあ、いいけどさ。でも何かむかつく」

「その無意味にさわやかぶってる態度がむかつく」

 吉崎も乗って、掛け合いのように言う。

「もうこいつのことは放っとこう」

 健司の代わりとばかりに飲み始めた二人だったが、もともと話し上手で、流行りもの情報が豊富な二人は、それぞれ面白おかしく語り、さらに場が盛り上がった。

 開始から3時間ほどたったころ、ひとまずお開きということになり、一同は席を立った。

「まだ早いし。二次会行かない?」

 財布をしまいながら、大野が喜々として言った。

「賛成~」

 女性たちも大乗り気だ。そこへ、すみません、と声がした。貴美子だった。

「私は、これで」

「ほんとに? 残念だな」

 吉崎が言ったが、これまた浮かれた表情のままなので、言葉どおりに聞こえない。

「まちさん、家遠いもんね」

 浩子が、代弁した。

「2時間半かけて研究所に来てたのよ。ねえ」

 貴美子がうなずく。

「2時間半!」

 吉崎と大野が声を上げ、大野が尋ねた。

「駅どこ?」

 貴美子は少し戸惑っているようだったが、路線と駅の名を挙げた。

「ほんと? オレの実家も」

 同じ最寄駅だ、と大野が言った。

「だったらペトラからも遠いよね」

 よく通えるなあ、と感心している。

「オレはしんどくて家、出ちゃった。運動公園、分かる?」

「ええ。家のすぐ傍だから」

「そうなの? オレんち、テニスコート側」

「うちもです」

 相変わらずうつむき加減だが、貴美子から拒絶オーラは感じられない。

 何で大野と彼女は普通に会話できてるんだ? 心の中で、何か燃えるようなものを感じ、大野に対して心の中でありとあらゆる呪詛を投げかけ、気付いたら拳を握り締めていた。あ、これが嫉妬か。

「そっか、じゃあ親とか知り合いだったりして」

 貴美子がうなずき、周囲が

「世間て狭いよね~」

 とまとめたところで、

「じゃ、行きますか」

 吉崎が二次会への移動を促し、歩き始めた。貴美子は、手を振って別れを告げる女性たちに、小さく手を上げて応えると、そのまま逆方向に歩き始めた。

 健司は少し様子をうかがってから、吉崎と大野に声をかけ、自分もこのまま帰ることにすると告げた。

「残念だけど。飲めないから」

 吉崎は、健司に向かって親指を立てると、満面の笑みで言った。

「いい心がけだ! 帰れ帰れ」

「さっさと帰れ」

 大野も嬉しそうだ。そのやりとりを見たペトラの女性たちから、ブーイングがあがる。

 健司は一同に軽く一礼すると、駅に向かって駆け出した。

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