第5章 あなたと私はつり合わない
「盆栽いじり、はひどいよね」
昼休みが終わってすぐ、健司のもとにゆかりが話をしに来た。清水亜紀が健司のバイクいじりについてそんな風に表現していたと聞いて、思わず笑ってしまった。
「清水さんて、面白いことを言うね」
「いいんだ? そこOKなんだ」
ゆかりは不思議そうな顔をした後、
「バイク乗ってるなんて、知らなかったよ」
「大野たちが言うプロフィールに、趣味は入ってなかったみたいだな」
世間体の悪いところだけ抜き出して言うから困る、そう思っていたら、
「健ちゃんの後ろ。乗・り・たい・な」
「……」
「もう。その真顔で黙殺するの、やめて。ホントに」
まあ、これはこれでアリだけど、とゆかりの言うことは、独り言を含めてよく分からない。
「そうだ。まちさんに聞いといたよ」
不意打ちで殴られたような気がした。これは心臓に悪い。
「避けてるつもりはない、って」
「聞かなくていいって言ったのに」
と言いつつ、正直ほっとした。
「イイ男光線に圧倒されてただけじゃない? でめちゃん照れ屋さんだから」
照れ屋さん。貴美子にぴったりの表現だと思った。
「噂のことも気にしてないみたい」
思わず安堵のため息をついた健司を見て、ゆかりがおかしそうに言った。
「あたし言っといた。たまには付き合ってください、って」
共同研究が円滑に進むように、と説得したらしい。貴美子は、そうねとうなずいたと言うが、それが本心であってほしいと健司は願った。
ゆかりがどんな話し方をしたかは分からないが、その日の午後は貴美子の雰囲気がこれまでに比べて、かなり柔らかくなった気がした。今日なら話しかけられそうな気がする。同僚たちの前では平静を装っていた健司だったが、どんなふうに声をかけようかと考えて、夕方まで落ち着かなかった。
その日は早めに作業が終わり、それぞれ実験器具や資料の片付けを始めた。貴美子が一人で資料室に向かったのを確認すると、健司は恐るべき早さで自分の分を片付けて、貴美子の後を追った。変態、という孝志の声が頭をよぎったが、無理にでも作らなければ、二人きりで話す機会など当分めぐってこないと思ったからだ。
西側の窓から入り込む陽光が、廊下をオレンジ色に染めている。ノックして資料室に入ると、ファイルを棚に戻していた貴美子が振り返った。大きな眼鏡が健司を捕える。その瞬間、資料室の空気が凍りついたような気がした。
貴美子の急激な変化に戸惑いながら、健司は資料の返却を手伝いにきたと言った。他の研究員の分まで引き受けていたから、戻す資料の数も多かったはずだ。
「これで、終わりですから」
感情のない声で返事があった。
がっかりしていると、最後のファイルを手にした貴美子は、一瞬もどかしそうに棚を見上げた後、室内を見回している。小柄な貴美子では届かないため、踏み台を探しているようだ。長身の、しかも同じ研究チームのメンバーがすぐ後ろにいるというのにだ。寂しさを感じながら、健司が貴美子の手から資料を取り、棚に収めると、貴美子は微かな声でどうも、と言い、出て行こうとした。
「待って下さい」
“避けているつもりはない”は建前だ。今日の午後、貴美子の態度が少し柔らかくなったように感じたのは、健司へのあからさまな対応をゆかりに指摘されたからだろう。やはり本人に直接聞こう。怖くはあったが、今の状況がずっと続くよりはましだと思い、切り出した。
「俺、何か町田さんに失礼なことしました?」
必死で言ったのが、強めの口調になり、焦った。貴美子が顔を上げる。次の言葉は努めて穏やかに発した。
「もし、気に障るようなことをしたなら、お詫びします」
貴美子は驚いたらしい。
「いえ、そんな」
慌てたように、顔の前で手を振った。
「本当ですか?」
「ええ」
「良かった」
思わず息をついた。
「水槽の前でお話した時、町田さんを不快にさせるようなこと言ったんじゃないかと、ずっと心配してました」
「いえ、本当に何も」
貴美子は戸惑っているようだ。健司はうつむく黒髪に向かって必死に語りかけた。
「あの時は楽しかった。ぜひ町田さんの金魚の話もうかがいたいと思ってます。あの、できれば」
心臓が飛び出しそうだ。
「食事でも御一緒しながら」
途端に貴美子の表情が固まった。その小さな体が、まるごと岩に包まれたような気配すら感じた。強引過ぎたかと思い、健司は急いで付け足した。
「別に、今日というわけじゃないんです」
貴美子は黙っている。
「いきなり誘ったりしてすみません。今度、都合のいい日を教えてください」
一礼して去ろうとしたら、貴美子に呼び止められた。
ほのかな期待を胸に振り返る。だが、
「私には構わないでほしいと、先日申し上げたはずです。誘うなら他の人になさってください」
冷やかな口調だ。
「他の人? なぜですか」
健司の問いに、でめきん顔が歪んだ。
「私の口から、言えと?」
健司がうなずくと、貴美子は一瞬大失策をおかしたような顔をしたが、すぐに冷静な表情になって言った。
「あなたと私では、つり合わない、からです」
つり合わない? 何がだ? 身長差か。
「困ったな」
健司は頭を押さえた。
「こればかりは。そんなに気になりますか?」
「そうではなくて」
なぜ貴美子が苛立っているのか健司には分からなかった。身分の違い、じゃないよな。貴美子が特別な家柄の出とは聞いたことがないし、健司が知る限り、そういうことを気にするような言動はなかった。一体何がつり合わないというのか。黙って見つめていると、貴美子は諦め切ったように息をついた。健司を仰ぎ見て、眼鏡に手を当てる。
「私のあだ名をご存じですか」
「はい。確か“でめきん”と」
健司はすぐに答えた。愛くるしく、かつ美しい。貴美子にふさわしいあだ名だ。
「そうです。こんなでめきんみたいな女と、モデルばりのあなたが連れ立って歩くことがつり合わない、滑稽だと言ってるの」
忌わしい言葉でも吐き出すように、貴美子は言った。
「これで、気が済みました?」
必死で虚勢を張っているような声だ。飛び出さんばかりの貴美子の前に、健司は立ちふさがった。
「待ってくれ」
彼女、何か勘違いしてる。
「滑稽なんかじゃない」
本人を目の前にして賞賛するのは恥ずかしかったが、こうなったら自分の本心を伝えるしかないと思った。
「町田さんは、確かにでめきんそっくりです。そこが素敵なんだ」
「ふざけないで!」
「ふざけてなんかいません」
貴美子が顔を上げた。と思ったら平手が飛んできた。あえて避けなかった。小さな体が震えている。
「バカに、するにもほどがあるわ」
声も震えている。
「街で引っかけるだけじゃ足りなくて、まずそうな女はからかって遊ぶってわけ? 最低!」
* * *
私、こんな目に遭うほど何か悪いことしたの?
2か月間の期限付きで、たまたま派遣された研究所で、どうしてあんな悪魔に出会わなければならないんだろう。
女の人ならいくらでもいる。私みたいなのに構う必要ないじゃない。
世の中に、人を苦しめて喜ぶ人間がいることは知ってる。でもなぜここにいるの? どうして涼しい顔であんなことができるの?
わざわざ私の口から嫌なあだ名とか、つり合わないとか、言わせるなんて。ひど過ぎる。
そうよ、私はでめきんよ。でもあなたには関係ない。あなたの悪ふざけなんかの相手はしない。
怒りに任せて人を叩いたなんて、初めてだ。自分にあんなことができるなんて思ってもいなかった。あんな男に手を上げる価値なんかなかったのに。でも、侮辱されて萎縮することしかできない、とは思われるのは嫌だった。
仕事をしなくちゃ。共同研究も残りあと半分。それまでは何とか耐えよう。
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