第4章 嫌いなんですか?

 9月から始まった共同研究は、順調に進行していた。開始から約1か月が過ぎ、ペトラの面々もすっかり研究所に慣れた。もう会社へは戻りたくないと、ゆかりや亜紀は真顔で言っていた。

 健司にとっては矢のような4週間だった。

 一目惚れから始まった初恋だったが、一緒に仕事をするうちに貴美子への想いは一層強くなった。相変わらず殻に閉じこもったようなところがあるが、仲間とのやり取りを見ていて、誠実な人柄だという印象を受けた。また、貴美子の豊富な専門知識に同じ研究者として敬意を抱き、黙々と仕事をこなす姿にも好感を持った。

 気になるのは、水槽の前で話をした時の貴美子の反応だ。突然会話が打ち切られたのはなぜだろう。何か気に障るようなことを言ったかと、胸がざわついた。だが、あの時以来、貴美子の周りを分厚い壁が取り囲んでいるような気がして、なかなか話しかけることができなかった。

 残りあと1か月。共同研究が終われば“歩くでめきん”には会えなくなる。何度か同僚たちを巻き込んで、食事や酒の席を設けたが、貴美子が顔を出すことはなかった。

 時間ばかりが過ぎていく。数日前に健太と電話で話した時は、焦っても仕方がないと励まされたが、健司は今の状況から何とか抜け出したいと、そればかり考えていた。 

 夕方、仲間が帰った後の研究室で、頬杖をつきながら考え込んでいると、背後から声をかけられた。

「最近、元気ないね」

 篠田ゆかりだった。吉崎と大野によると、ペトラ社から来ている中で一番“そそる”のが彼女らしい。健司にはぴんとこなかったが。

 ゆかりは、健司の隣にやってくると、椅子を引っぱり出して座った。

「あのさ、聞いてもいい?」

「何?」

「千人斬りのやり逃げ師って、ホントなの?」

 顎が手から滑り落ちた。遠慮がちな態度と質問内容にギャップがあり過ぎだろ。

「あたしがどんなにがんばっても、全然反応ないし。ホントは噂とまったく逆なんじゃないかって思って」

 言いつつ、上目遣いに健司を見る。

「でも、吉崎さんたちは賭けてもいい、って言うんだよね」 

「あいつら、まだそんな話してるのか」    

 呆れていると、ゆかりは自分が問いただしたのだと言った。

「だって、あたし、初日から下心アリアリだもん」

 正直な女だ。ここまで潔く出た相手に嘘をつくのは、自分の流儀に反する。

「吉崎たちの話は、本当だよ」

 健司は言った。

「最近は、品行方正にしてるけど」

 肝心な点を付け加えると、ゆかりは身を乗り出した。

「なんでやめたの?」

 説明する気はない。沈黙で応じた。

「ふうん」 

 ゆかりは、ピンクに染めた長い爪に目を落としたまま言った。

「少し前なら、誰でも良かったんでしょ。知り合いじゃなければ」

 うなずくと、ゆかりが目を上げた。

「何にでもさ、あるじゃない?」

「は?」

「例外って」 

 表情からすると、本気で言っているらしい。

「明日、あたしのこと忘れてても、絶対恨んだりしないけど?」

「遠慮しとく」 

「あたしじゃ、ダメ?」

「誰が頼んでも、同じ」

「そっかあ」

 ゆかりは肩を落とした。しばらく健司の顔を眺めていたが、ふと何か思い出したような顔をすると、眉を寄せた。

「言っとくけど、誰にでもこんなこと言うわけじゃないからね」

 うなずくと、ゆかりは安心したように微笑んだ。それからおどけるような調子で言った。

「ホント残念。一生の記念にって思ったのに」

「記念、は大げさじゃないか?」

「大げさじゃないよ」

 ゆかりは指を折りながら、男性と思しき名前を何人か挙げた。最後のだけは健司にもハリウッドスターの名だと分かった。

「誰にだって勝てるよ。何で芸能界デビューしないの?」

 健司と知り合ったばかりの人間は、ほとんど例外なくこの言葉を吐く。いつも通り、興味ないから、と答えた。ひどい時には、なぜ金魚の研究なんか、と聞かれることすらある。金魚好きが金魚の研究に打ち込んで何が悪い、とこれは常日頃から不満に思っていた。

「万が一気が変わったら、いつでも言ってね」

 変な女だ。万が一はないけど、と思いながら健司が黙っていると、ゆかりはにっこりと笑い、立ち上がった。実にバカバカしい会話だったが、おかげで滅入っていた気分が少し晴れた。健司は心の中でゆかりに感謝した。

「ねえ、お茶しない? 研究所だと誰かしら邪魔が入るんだもん。それくらいはいいよね?」 


* * *


「まっ黄っ黄になったら、キレイなんだろうな」

 研究所から駅前まで続く銀杏並木を歩きながら、ゆかりが言った。健司はうなずいた。銀杏の葉が一斉に色づくと、通りはその黄金色で、夜などライトアップしたように明るくなる。花見ならぬ、葉見でもしようかと思うほどの見応えだ。

「こっちに来てる間に、見られるかな」

 ゆかりが尋ねてきた。

 色づくのは2か月くらい先だろうと健司が言うと、ゆかりは残念そうに言った。

「無理か。研究所に来られるのも、あと1か月だもんね」 

 共同研究の終了。それは貴美子に会えなくなる、ということでもある。健司は焦りと、何と言いようもない切なさを胸に抱きながら樹々を見やった。


* * *


 健司とゆかりは、駅前にある大きめのコーヒーショップに入った。

 6時過ぎの店内は、学生やOL風の女性客でかなり混んでいた。

 喫煙席の方が比較的客が少ない。ゆかりも喫いたいだろうと喫煙席への案内を頼んだ。自分は好まないが仕方がない。かなり前に教わった、健太のデート指南を思い出しながら奥の席を勧めると、ゆかりは慇懃にお辞儀をして座った。きょろきょろした後で、嬉しそうに囁く。

「みんながうらやましそうにこっち見てる。気分いい!」

 毎度のことながら、女性客や店員の視線が健司には鬱陶しかった。孝志は嬉しくて仕方ないと言うが、全然理解できない。

「山本君、オーラが一般人じゃないもんね」

 これも多くの人から言われてきた。大野に至っては、初対面の時に、今まで何人殺った? と聞いてきたくらいだ。

「ねえ、健ちゃんて呼んでいい?」

 良くはないが、断る理由もないので、うなずいた。

 コーヒーを二つ頼み、しばらく話していると、ゆかりが煙草を取り出した。健司が灰皿をゆかりの方へ滑らせると、

「吸わないの?」

「ああ」

「あれ、じゃあこの席」

 自分の喫煙習慣をなぜ健司が知っていたのか、ゆかりが不思議に思ったようだったので、説明した。

「ペトラの人たち、最近中庭で昼飯食べてるだろ」

「見てたの?」

 ゆかりが嬉しそうに言った。

「ひょっとして、ちょこっとはあたしに関心あった?」

「いや、全然」

 見ていたのは町田さんだけだ。とこれは心の中で言いつつ、健司が否定したところで、コーヒーが運ばれてきた。

 ゆかりが健司をにらんだ。

「何よ。もうちょっと言い方あるでしょ」

 運んできたのがウエイターで良かった。ウエイトレスなら、うっかり目を合わせてしまうと、高確率でテーブルにカップをひっくり返されるはめになる。

「超イイオトコなんだけど、どこか変わってるよね」

 呆れたように笑うゆかりに、健司は尋ねた。

「さっき、君が聞いてきた俺の噂、他の三人はどう思ってるのかな」

「噂? たぶん信じてないと思う。でも、ナンパしたら成功率100%だよね、って騒いでた」

「じゃあ、多少は信じてるのか」 

 改心し、足を洗ったとはいえ、吉崎たちの話が誇張でも偽りでもないのは自分が一番よく知っている。真実だけに恨めしかった。

「安心して。みんな健ちゃんの大ファンだから。あたしみたいに勇気ないから、顔だけ拝んで満足してるけどね」

「みんな?」

 本当だろうか。他の二人はともかく、貴美子の態度からは、そんな気配は感じられない。

「町田さんも?」

 危険を承知で聞いてみると、ゆかりは驚いたような顔をして笑った。

「まちさん? 彼女は何考えてるか分かんないな」

 それから意外そうに言った。

「健ちゃんから、彼女の名前が出るとはね」

「いや、何となく、避けられてる気がするから」

 なるべく何気ない感じで言うと、ゆかりがうなずいた。

「うん、そんな感じするね」

 やはり、健司の気のせいではなかった。

「俺、何かしたかな」

「健ちゃんが悪いんじゃないと思うよ。彼女、誰に対しても一歩引いた感じするでしょ」

 確かにそういう面はある。だが健司に対しては、特別その壁を厚くしている気がする。

 思い当たることといえば一つしかない。

「やっぱり、あの噂話が不愉快だったのかな」

 力なく言うと、ゆかりは笑って否定した。

「そういうの、全然興味ない人だから」

 複雑だった。もちろん、ああいった話題に興味津々というのは貴美子のイメージに合わないが、健司個人に微塵も関心がないと言われたような気もする。考え込んでいると、ゆかりが不思議そうに言った。

「別にいいじゃない、どう思われたって」

 健司は首を横に振った。

「せっかくの共同開発なんだ。みんなとコミュニケーションが取れてる方が、効果だって上がると思う」

 努めて淡々と言った。これなら特別の感情を抱いているとは思わないだろう。

「彼女、もっと積極的になってもいいんじゃないかな。優秀なんだし」

「仕方ないよ、そういう性格なんだもん」

 ゆかりは興味なさげに言ったが、すぐにからかうような表情を浮かべた。

「気になるなら、まちさんにどう思ってるか聞いてあげようか?」

 すごく知りたい。今までは、他人から見た自分の評価なんて、気にしたことなどなかったのに。

 だが、知りたい一方で恐れもある。結局、健司は断った。


* * *


 昼休み。貴美子は久しぶりにペトラの同僚たちと外に食事に出た。

 席に着いて注文を済ませると、ゆかりが皆に言った。

「あたし、こないだ思い切って聞いてみたんですよ。ヤマケンに」

 また彼の話だ。これって、共同研究の間、ずっと続くんだろうか。

「何を?」

「あの噂、ほんとなの、って」

 ゆかりがぽつりと言うと、亜紀がテーブルを叩いて笑った。

「本人に直接聞いたの?」

「あんた何やってんのよ」

 浩子は呆れていたが、

「で、何て言ってた?」

「本当だよって。正直に認めましたよ」

「マジで?」

「なんか、千人とか、とんでもないこといろいろ言われてたけど、あれ全部ほんとってこと?」

 ゆかりがうなずき、亜紀と浩子はうーんと唸った。

「さすが……」

「何がさすが?」

「いや、彼なら不思議はないけど、ちょっとびっくり」

 パスタが運ばれてきた。四人とも同じものにしたからか、ずいぶん早い。

「でも、今はもう、そういうのやめちゃったって。どうしてかは教えてくれなかったけど」

「へえ、どうしてだろうね。あ、これおいしい。麺が特に」

 貴美子がパスタに関して思ったことを、亜紀が口にした。

「あたしは、なんか病気になっちゃったんじゃないかって思ってる」

「病気? どうして」

「だって最近元気ないし。それに、あたしが誘ったのに、きっぱり断ったもん」

 浩子がフォークを回す手を止めた。

「まさか、“一晩どう?”みたいなこと、彼に言ったわけ?」

「はい」

「バカなの?」

 浩子は眉を寄せて紙ナプキンを取ると、口を拭った。

「そりゃ私たち二人は、研究のお手伝いに来たようなもんだけどさ、一応仕事で来てるんだから」

「分かってますよ。でも放っとけないでしょ? あんなのが目の前にいるのに」

「知らないわよ」

「一生の記念に、って思いませんか?」

「思うか! 私、新婚だってば」

 この二人は、時々漫才コンビみたいになるなあ。貴美子は話のテーマはともかく、二人の話し方がおかしくて、やりとりを黙って聞いていた。

「でも、健ちゃん、結構気にしてましたよ。先輩たちが噂をどう思ってるか」

「へえ」

「まちさんのことも、気にしてた」

「え?」

 急に自分の名前が出たので驚いた。

「まちさんは、健ちゃんのこと、嫌いなんですか?」

「そんなこと、ないよ」

「じゃあ、どうして、避けるんです?」

「避けてるつもりも、ないけど」

「そうかなあ?」

 ゆかりの気のせい、でないことは分かっている。

 健司に対する感情は、自分でも説明がつかなかった。

 冷血人間や超人などと言われている一方で、料理が上手でプロ並みのアイロン技術を持つなど意外な一面を持つ。本業である研究は、日々熱心にやっているようだ。そうかと思えば、さっきのゆかりの話では、女性に対する驚くようなふるまいがすべて真実だと言う。でも、彼を避けてしまうのは、そういう要素とは関係ないし、恵まれた容姿も、彼自身に責任はない。

 うまく言葉にならないが、山本健司の存在自体が、貴美子を卑屈な気分にするとしか言いようがなかった。住む世界がまったく違うのだから、関わらないでほしい、というのが一番近い思いだった。

 でも、ちょっとやり過ぎたかな。

「本当は、あのオーラっていうか、迫力あり過ぎて」

 ちょっと怖いかも、と言ったら皆に笑われた。

「確かにそうですね」

 ドキドキしちゃう、と亜紀が胸を押える。

「2秒以上は目、見てられない」

「私も。防御する盾がほしくなる」

 浩子も身構えて笑った。

「なんかすごいよね」

「でも、超人、時々妙に可愛い時ありますよね」

「例えば?」

「お弁当の後、つまんなそうにお茶すすってる時とか、おじいちゃんみたい」

 亜紀の言葉に、浩子とゆかりが確かに、と笑った。

「おじいちゃんぽいと言えば、エンタメ系は苦手みたいね。ほとんど知らない」

「そこが、いいんですよ」

 亜紀は嬉しそうだ。

「彼が流行りものとか人気スポットまで、ばっちり押さえてたら、ちょっとでき過ぎじゃないですか?」

「亜紀ちゃん的には、そこ大事なんだ」

 浩子が笑った。

「そういう人って、休みの日とかは、何やってんだろね」

「だいたい、バイクいじってるそうですよ」

 亜紀の言葉の後、浩子の“へえ”と、とゆかりの“ちょっと!”が重なった。

「なにげに健ちゃんとの距離、縮めてない?」

「違うって。そんな怖い顔しないで」

 亜紀によると、休みの前日に、大野が釣りに行く、吉崎はフットサルの試合がある、などと話していた。二人の話をあれこれ聞いた後、その流れで健司にも尋ねてみたらしい。

「そしたらバイクの話が出たから、どういうのに乗ってるんですか? って聞いただけ」

「やっぱり、あたしよりちゃんとした会話してる!」

「あんたはガツガツし過ぎなのよ。だから、日常会話になんないの」

 浩子がゆかりに遠慮なく言い放ち、

「亜紀ちゃんは、どういうの、って聞いて分かるの?」

「いえ、名前とか型番言われても、分かんないですけど」

 昔の彼が乗ってたのはこういうの、と両の手を拳にして、テーブルの上に前かがみになり、

「超人は逆でした」

 今度は拳を少し広げて、背を反らすようにした。

「ハーレーとか、そういうやつ?」

「ええ。エンジンとフレームはハーレーって言ってましたよ」

 他の部品を少しずつ集めて組み上げ、何年かかけて今の形にした、と健司は亜紀に話したそうだ。

「ふうん。で、長身長足の美形バイク乗りは、でき過ぎじゃないわけ?」

「ないです。バイクのカスタムって、おじいちゃんの盆栽いじりみたいなものですから」

「いやいやいや」

 亜紀ちゃんも大概だわ、と浩子は頭を抱えつつ、笑った。

「もー、あんまり健ちゃんをじいさん扱いしないでくれる?」

 ゆかりが憤然と言った。

「キラッキラのイメージが崩れるからさ」

「いや、見かけに反して、ちょっと枯れてるとこがいいんだって」

「亜紀ちゃん何フェチよ。まったく」

「まあまあ、みんなファンってことでいいじゃない」

 浩子がとりなした。 

「ですね。じゃあ、また国生研の人たちと飲み会やりましょう」

「いいねえ! 幹事よろしく」

「そうだ。まちさんも。行きましょうね」

 意外にも、ゆかりが呼びかけてきた。

「たまには付き合ってくださいよ」

「え」

「コミユニ? ケーションが取れてた方が、共同研究もうまくいくと思うし」

 言いにくそうに言った。これでは、ひとまず返事をしておくしかない。

「そうね。そのうちね」

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